闘いの歴史
闘いの記録 (戦争と人間)
【安倍元首相銃撃】母・洋子さん、悲嘆の肉声「もう晋三はいないんですよ」
安倍晋三・元首相が7月8日、奈良県内での遊説中に銃撃されて死亡した事件は国内外に衝撃を与え、いまだ動揺は収まる気配がない。何より、遺された家族のショックは計り知れない。
妻の昭恵夫人は、事件を受け都内の自宅から奈良に向けて出発。夕方に安倍元首相の入院先だった奈良県立医科大学附属病院に到着すると、対面から8分後に死亡が確認された。翌9日の朝、病院から遺体を乗せた車が出発すると、昭恵夫人は後部座席で前を見据え、病院を後にする際に頭を下げた。車は午後、自宅に着き、安倍元首相は無言の帰宅を遂げた。
実弟の岸信夫・防衛相は会見で「兄は政治に命を賭けてやってきた。でも、このような形で命を取られるとは思ってもみなかった。悔しくてたまらない」と無念の胸中を明かした。生前、安倍元首相は健康不安説が取りざたされる岸氏のことを気にかけていたという。岸氏の後援会関係者は言う。
「岸さんは車いすや松葉づえを使って移動していますが、足元がおぼつかない状態です。活舌も悪く、地元でも『防衛大臣が続けられるのか』と懸念の声が上がっていました。現在は息子の信千世さん(元フジテレビ記者)が秘書官を務めており、次の衆院選では岸さんの代わりに信千世さんが継ぐともっぱらです。安倍さんは我がことのように心配し、信千世さんともよく連絡を取って、後継への準備を進めていたと聞きます」
安倍元首相と岸防衛相の母である洋子さんも、岸家の後継には重大な関心を寄せていたという。それだけに、まさか、という思いだろう。同関係者が明かす。
「安倍さんが亡くなったとの一報が流れた後、後援会幹部の一人に洋子さんから電話があったそうです。『もう晋三はいなんですよ。明日から信千世の選挙戦が始まると思ってやりなさい』と声をしぼりだし、『もう晋三は……』と、最後は涙声で聞き取れなかったそうです」
安倍氏の専属SPが号泣 後援会幹部の「お前の責任じゃない」電話にも言葉にならず涙
【写真】安倍氏と昭恵さんの結婚時のツーショット。他、母・洋子さんの94才の誕生会に参加した安倍氏ら三兄弟
安倍氏は7月8日、奈良・大和西大寺駅の北口前で参院選の応援演説を行っていた。現場では、奈良県警の警備部参事官をトップとする体制で指揮がとられ、県警本部や奈良西署の警察官、さらに東京から随行した警視庁警護課のSP(要人警護官)1名が安倍氏の警護に当たったという。しかし、安倍氏は約5メートルの至近距離で背後から撃たれ、命を落とす結果となってしまった。
総理大臣の警護を担当したこともある警視庁元SPは、発砲があった瞬間の現場の動きについて「少なくとも犯人が前に出てきた瞬間に、後方を警戒していた人間がまず飛び出すべきでした」と悔やむ。
世間では「警護体制は適切なものだったのか」という疑問が噴出し、奈良県警には11日午前7時までに電話やメールなど約1300件のクレームが殺到した。また、12日に警察庁で行われた記者会見では、中村格長官が「警察としての責任を果たせなかった」「警察庁の関与のあり方にも問題があった。長官として慚愧にたえない。責任は誠に重いと考えている」として、警護措置要領を見直す方針を示した。警察庁が、個別の事案について会見を開くのも、長官が責任を認める発言をするのも異例のことだ。
安倍氏の後援会幹部によると、事件の現場を担当していたSPは強いショックを受けているという。
「警視庁から派遣されたSPに後援会会長が電話したところ、号泣して言葉にならなかったそうです。『お前の責任じゃない』とは伝えたものの、ずっとそんな調子で泣いていたと聞きました。安倍さんならきっと、こういう時に『キミじゃなくてよかったよ』と言っていたのではないかと思いますが……」
後援会の幹部は、安倍氏との思い出を悲痛な様子で振り返る。
「地元の支援者としては、何をしても今はつらい。ふとした場面で『ああ、ここを安倍さんと歩いた』など思い出してしまいます。8月13日には、関門海峡花火大会が3年ぶりに開催されます。安倍さんも下関に毎年来られて楽しみにしていた花火大会だったのに、今年はご覧になれないと思うと……」(後援会幹部)
安倍氏の銃撃事件により、多くの人の心が深く傷ついている。
安倍昭恵さんが夫の葬儀のあとに「涙目で見つめていたもの」
「あんたが私の弔辞を読むことになっていたんじゃないのか」
と故人の死を悼んだ。喪主を務めたのは妻の昭恵さん。夫の衝撃的な死からわずか4日、彼女もまた現実を受け止めきれていないようだ。
「昭恵さんは喪主の挨拶で安倍さんについて『これほど優しい人はいなかった。いつも私のことを守ってくれた』と語ったそうです。参列者が花を手向けるときには、昭恵さんが別れを惜しむように、安倍さんに数分間、頬擦りをしていたそうです」(自民党関係者)
予定より少し遅れ、14時半すぎに出棺となった。昭恵さんは棺を乗せた霊柩車の助手席に座り、車は永田町の自民党本部、衆参議員会館、総理官邸と順に回っていった。夫の位牌を抱いた昭恵さんは憔悴した様子で、うつむいていることが多かった。
すると、ある地点で昭恵さんがふっと何かに目をやった。車の助手席から、じっと国会議事堂を見つめていたのだ。その目には涙が浮かんでいるように見える。国会議事堂を通りすぎると、またうつむいたり、沿道の人に頭を下げるようになった。国会議事堂を見つめていたのは、ほんの一瞬だったが、昭恵さんは何を思っていたのか。
「この日、霊柩車が巡った場所は、もちろんどこも安倍さんとゆかりが深いところです。ただ、昭恵さんはよく安倍さんが総理時代に国会で野党などからの質問攻勢にさらされていることを心配していたようです。もちろんそれは総理として、絶対に果たさなくてはいけない責務ではありますが、本人の体力的、精神的負担を気にかけていた。国会での夫の姿が『辛くてテレビが見られない』と冗談交じりに話していたこともあったそうです。そんな記憶がふと頭をよぎったのかもしれません」(前出・自民党関係者)
今はただ安倍元総理の冥福を祈りたい。
安倍元首相 なぜ急きょ奈良演説の経緯「京都決まったので奈良まで」高市氏が優勢伝えるも、2紙予想厳しいと
これまでも安倍氏の遊説日程は直前に変更となり、当初は奈良での演説は予定されていなかったとされていた。
高市氏は「安倍元総理と最後にメールをやり取りしたのは事件前日夕方」とし、事件前日の7月7日夕方のことと説明。
奈良が地元の高市氏は、「急な奈良県入りを知り、党情勢調査で奈良県は優勢の旨を送信した」と安倍氏にメールを送ったという。
安倍氏から「問題ないとは思うけど、京都に行くことが決まったので、奈良まで行きます。毎日と日経が厳しく出ているので」と返信があったことを明かした。
高市氏は「京都も奈良も当選したことを御霊前に報告しました」と記した。