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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

朴烈大逆事件

2020-10-13
朝鮮人の組織的暴動など懸念した官憲は、無政府主義者 朴烈とその愛人 金子文子を、治安警察法に基づく「予防検束」の名目で検挙した。
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1926年(t15/s1)】
◎朴烈大逆事件
*1926.3.25/ 大審院が、朴烈・金子文子夫妻に大逆罪で死刑を宣告する。(4.5 無期懲役に減刑)(朴烈事件/朴烈・文子事件)
*1926.7.23/ 栃木刑務所で服役中の金子文子が、獄中で自殺する。
*1926.7.29/ 大逆罪で服役中の朴烈・金子文子夫妻が睦み合う怪写真が出回り、若槻内閣の責任が問われる。配布した北一輝が検挙される。
 1923年9月1日関東大震災直後の混乱の下、流言飛語が飛び交う中で多くの朝鮮人が、民衆による私刑で殺されたとされる。また、戒厳令が敷かれた震災後の混乱に乗じて、憲兵大尉 甘粕正彦らによってアナーキスト大杉栄・伊藤野枝らが殺される事件(大杉事件)が起こされたりしたが、一方で朝鮮人の組織的暴動など懸念した官憲は、無政府主義者 朴烈(パク・ヨル/ぼく・れつ)とその愛人 金子文子を、治安警察法に基づく「予防検束」の名目で検挙した。
 当初警察当局は、朝鮮民族主義と反日運動に拘わってきた朴が、朝鮮人暴動や爆弾テロを画策したとして逮捕したが、起訴段階で二人の容疑は皇室暗殺を計画したという「大逆罪」に切り替えられた。しかし実際にテロが画策された証拠はほとんどなく、大審院での朴と金子の証言や言動のみに基づいて有罪とされた。
 事件は政治・警察的な思惑からでっち上げられた側面が多い。当初は、朝鮮人暴動計画があったということで、震災直後の朝鮮人殺害に対する批判への収拾策とする意図があったが、さらには、朝鮮独立運動家や社会主義者らへの威圧・弾圧を目的として、起訴容疑を大逆罪に切り替えられることとなった。
 朴烈は、「朝鮮民族独立の英雄」としての名声を得て死ぬ事を良しとしたのか、積極的に大逆計画を認める証言をし、金子も皇室を狙ったような発言をしたため、1926年3月25日両者に死刑判決が下された。しかし続く4月5日には天皇の慈悲と言う名目で恩赦が出され、共に無期懲役に減刑された。しかし両人ともに特赦に激怒し、これを拒否する意志を表明したとされる。
 判決後の7月22日、刑務所に拘置されていた金子文子は自殺(縊死)したと発表されたが、死亡の経緯は不明のままとなった。しかもその直後の7月29日、朴と文子が睦みあっている怪写真が報道関係に公開され、世論は騒然とわき立った。第1次若槻内閣の転覆を計画する北一輝の意向を受けて、西田税が入手・公開したものと言われるが、この写真が政争の具となり議会は空転した。しかし、写真の撮影時が加藤高明内閣時の1925年5月2日であったことなどが判明し、若槻内閣は倒閣を免れた。
 無期懲役刑となった朴烈は、1945年の終戦を迎えるまで刑務所に収容され、解放後には、日本本土や独立後の韓国で政治活動に加わったが、朝鮮戦争中に北朝鮮軍に拘束されスパイ罪で処刑されたとされる。
 金子文子の死後、救援活動をしていた人物の手元に残された文子の原稿などをまとめ、歌集と自伝が刊行されたが、歌集は発禁処分となった。その悲惨な成長期の境遇や、自力で学習し大正期日本の数少ない女性社会主義思想家として成長する姿など、社会思想家だけでなく女権拡張家などにも注目される存在となった。
(この年の出来事)
*1926.8.29/ スウェーデンでの第2回国際女子陸上競技会に単身参加した人見絹江が、個人総合で優勝する。
*1926.6.1/ アメリカ独立150周年を記念して、フィラデルフィアで壮大な万国博が開催され、7万台収容の広大な駐車場が自動車時代を象徴した。
*1926.6.10/ アール・ヌーボーの巨人アントニオ・ガウディ、建築中のサグラダ・ファミリアを残し死去する。
*1926.7.1/ 蒋介石ひきいる国民政府軍が、中国統一のため北伐を開始。
*1926.12.3/ 改造社が「現代日本文学全集」の刊行を開始。円本ブームおこる(1冊1円)。

ある女優の戦前・戦中・戦後・・・、そして43歳の時、突如としてスクーンから消えた。

2020-10-13
原節子という生き方
1935年です。
ゲッペルスと、伯林にて・・・。
「青い山脈」
伯林で彼女を迎えたのは、この方でした。

解任です。

2020-10-11
「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」
Facebook佐々木信雄さんの投稿
『Get Back! 50's / 1951年(s26)』
(マッカーサー 解任)
○4.11 [東京] マッカーサー国連軍最高司令官が、トルーマン米大統領により解任される。(後任にリッジウェイ中将)
 ダグラス・マッカーサーは、Fルーズベルト大統領の死亡によって大統領に就任したハリー・トルーマンを、小物と見下していた。他方トルーマンも、傲岸不遜で越境的な提言まで平気でする連合国軍最高司令官マッカーサーをにがにがしく思っていた。
 日本がポツダム宣言を受諾すると、マッカーサーは専用機「バターン号」で厚木飛行場に降り立ち、降伏文書の調印式後東京に入り、連合国軍最高司令官として全権統治を任せられて、敗戦日本の占領政策を指揮した。そして、1950年に勃発した朝鮮戦争においては、アメリカ軍の全指揮権を国防総省から付与され、朝鮮半島での指揮をとることになる。
 自らの油断から、半島の連合軍が南端まで押し込められるという失策を犯したマッカーサーは、窮余の一策として仁川上陸というギャンブル作戦を実行、運よく反転攻勢に成功し、トルーマンの命令を無視し一挙に中国国境にまで進軍させた。しかし、あり得ないと甘く見ていた中共義勇軍が雪崩を打って参戦してくると、またもソウルを攻略される戦況となった。マッカーサーは、米本土からマシュー・リッジウェイ中将を東京に呼び寄せ現場の指揮を任せるとともに、自身はずっと東京にとどまり続けた。
 このような状況を打開するために、マッカーサーは中華人民共和国領となった旧満州に対する空爆、さらには同国への核攻撃を主張した。しかし、マッカーサーが第三次世界大戦勃発の危機さえ誘発しかねない核攻撃を主張するのみならず、自らの命令を無視し続けることに激怒していたトルーマン大統領は、一方的にマッカーサーの解任を発表した。この時期には、ワシントン政府や軍幹部だけでなく、イギリスなど連合国首脳からもマッカーサーへの不信は極まっていた。
 マッカーサーは極東における国連軍最高司令官としての任をすべて解かれ、後任にはマッカーサーの尻ぬぐいで戦況を休戦ラインにまで戻したマシュー・リッジウェイ中将が任命された。マッカーサーはリッジウェイにすべての業務を引継ぎ、東京国際空港から専用機「バターン号」で帰国の途に就いた。帰国後ワシントンD.C.の上下院の合同会議に出席したマッカーサーは、退任演説を行った。「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という人口に膾炙するフレーズは、この演説の最後に添えられたが、これは自身在籍したウェストポイント陸軍士官学校で、兵士の間でざれ歌として流行った風刺歌の一節を引用したものだという。
 マッカーサーが、明確な意図をもって写真を撮らせたことは周知である。その自己顕示性は節々に見られるが、その種の個人的な意向はともかく、公的な面でも写真の持つ効力を熟知していたことは明らかだ。アメリカ大使公邸に昭和天皇を呼び寄せて撮った有名な写真は、日本国民に敗戦を目に見える形で知らしめるとともに、すべては連合国指令部を体現するマッカーサーの指揮下にあることを認知せしめた。
 厚木基地に第一歩を踏み出したときのタラップでの写真も、決定的な印象を刻印する。特注のコ−ンパイプにレイバンのサングラス、簡易の軍服でリラックスした余裕のうえに威厳を感じさせるポーズをとる。実生活ではコーンパイプはほとんど使っていなかったという説もある。
 上陸用舟艇から降りて膝まで軍服を濡らしながら、浅瀬を浜に向かう写真。フィリピンのレイテ島に再上陸を果たし、オーストラリアに退避した屈辱を晴らした時のものとされる。有名な "I shall return !" を達成した時のシーンである。しかし実際には、この上陸時に従軍カメラマンを伴っておらず、えざわざ後日、舟艇や兵士を動員して撮らせ直したものだと言う。しかし当時の兵士の間では、10万の将兵を捨てて逃げた卑怯者として、I shall return は「敵前逃亡」の意味で使われたとか。 
 ダグラス・マッカーサーは、極端に毀誉褒貶の大きい人物であった。フィリピンでも朝鮮半島でも、軍事上の失敗から撤退を余儀なくされている。それでも、失地回復し名声を維持したし、政府中枢や軍幹部の信頼を失ってさえ、アメリカや日本の国民には絶大な人気を博したという不思議なキャラクターであった。そして少なくとも一つ言えることは、占領下の日本の民主化を達成し、現在の日本の基礎を築いた功績は間違いないであろう。
*この年
パチンコ大流行/浅香光代・大江美智子などによる女剣劇ブーム/結核が死亡原因の2位に下がる(1位脳溢血)/赤痢の流行で1万4000人以上が死亡
【事物】血液銀行/LPレコード/コマーシャル・ソング
【流行語】逆コース/三等重役/社用族/老兵は死なず/BG
【歌】上海帰りのリル(津村謙)/トンコ節(久保幸江・加藤雅夫)/雪山賛歌(アメリカ民謡)
【映画】めし(成瀬巳喜男)/カルメン故郷に帰る(木下恵介)/黄色いリボン(米)
【本】手塚治虫「鉄腕アトム」の連載開始/林扶美子「浮雲」/吉川英治「新・平家物語」

暗黒の時代

2020-10-10
1923.9.16/ アナーキスト大杉栄、伊藤野枝らが、憲兵大尉甘粕正彦に殺害される。
Facebook佐々木信雄さんのコメント
【20th Century Chronicle 1923年(t12)】
◎アナーキスト大杉栄殺害(甘粕事件)
*1923.9.16/ アナーキスト大杉栄、伊藤野枝らが、憲兵大尉甘粕正彦に殺害される。
 関東大震災直後の混乱下にある1923(大12)年9月16日、アナーキストの「大杉栄」と内縁の妻「伊藤野枝」が、大杉の6歳の甥と共に、不意打ちで憲兵隊特高に連行された。やがて、憲兵隊司令部で憲兵によって拷問の末、絞殺され、同本部裏の古井戸から遺体が見つかった。
 軍法会議では、憲兵大尉分隊長「甘粕正彦」と部下らによる犯行と断定された。甘粕大尉は、すべて自分の一存で実行したと証言した。憲兵隊の上層らの組織的関与が疑われたが、軍法会議は事件の背後関係には立ち入らず、甘粕大尉を首謀者として懲役10年、部下らも軽微な刑で判決が下され、裁判は早々に幕が引かれた。
 関東大震災における戒厳令下で、どさくさに紛れて、反政府主義者らの不法な虐殺事件が頻発した。震災直後には、東京府の亀戸で、社会主義者の川合義虎ら10名が亀戸警察署に捕らえられ、軍の手で殺害される事件があり、続いて、上記の甘粕事件が引き起こされた。
 さらに3年後の1926(大15)年には、第二の大逆事件と言われた「朴烈事件」があり、無政府主義者 朴烈(パク・ヨル/ぼく・れつ)とその愛人金子文子が、治安警察法に基づく「予防検束」の名目で検挙された。このように、震災後の社会不安の世情に乗じて、官憲による思想弾圧は一気に強化されていった。
 甘粕正彦は10年の刑を受けたが、3年後には仮釈放され予備役となり、陸軍の予算でフランスに留学するなど厚遇された。これには、甘粕が、反社会的な人物を自身の責任で処断し、その責任を独りで背負ったとして、「国士」として称賛する庶民の評価が寄与したと考えられる。ただしそれも、軍関係者などから作り上げられた世論という側面も否めない。
 フランスから帰国後、満州に渡り、南満州鉄道経済調査局員となると、さらに奉天の関東軍特務機関の指揮下で情報・謀略工作を行うようになり、右翼団体のメンバーの一部を配下として、甘粕機関という民間特務機関を設立。また満州の国策としての阿片ビジネスをも仕切る。
 1931(昭6)年9月の柳条湖事件に連動して、ハルピン出兵の口実作りに爆破事件を起こすなど、特務工作に従事。また、幽閉中の清朝最後の皇帝 愛新覚羅溥儀を脱出させ、満州国皇帝に擁立する準備工作にも関わった。これら満州国建国に関する様々な謀略の親玉として暗躍した働きの為、満州国建国後には、警察庁長官に抜擢され、表舞台に登場する。
映画『ラストエンペラー』 (1987/ベルナルド・ベルトルッチ) *坂本龍一が「甘粕元大尉」として出演している  https://movies.yahoo.co.jp/.../%E3%83%A9%E3%82%B9.../24562/
 さらには、甘粕正彦は「満洲映画協会(満映)」の理事長となる。満映は、満州人に対するプロパガンダとして、文化映画や啓蒙的な映画、プロパガンダ映画を多く創った。甘粕の理事長への抜擢は、軍部の満映支配と恐れられたが、甘粕はむしろ満映の自立運営やスタッフ待遇の改善などに、毅然と対処したため、満映関係者からは慕われたらしい。
 満映の理事長職は、いわば表の顔であり、満州時代の甘粕は、日本政府の意を受けて満州国を陰で支配していたとも言われる。しかし、甘粕はその硬骨漢ぶりと言動ゆえに関東軍には煙たがられ、むしろ冷遇されていたとされる。1945年(昭和20年)、日本が降伏し、ソ連軍が新京に迫りくる中、満映の閉所処理をきちんと済ませた後、20日早朝、甘粕は独りで服毒自殺した。
 甘粕事件で惨殺された「大杉栄」は、その性格として「強情・我儘」や「傲岸・不遜」といった言葉が並ぶが、良くも悪くも、自由奔放で天真爛漫な性格であったと思われる。その生来の性格に、社会的な理屈を付ければ「アナーキズム(無政府主義)」となり、個人生活面では「自由恋愛論」となる。
 女性関係にはかなりデタラメであり、それを「自由恋愛」と呼んだに過ぎないという側面もある。大杉は、堺利彦の義妹で婚約者のいた堀保子を、強引に犯して結婚する。だが、大杉は保子と入籍せず、「神近市子」に近づき、さ0らに「伊藤野枝」とも愛人関係となって、野枝は長女魔子を身ごもった。これら女性達からは常に経済的援助を受けており、とりわけ献身的に大杉に尽くした神近市子は、野枝との関係に嫉妬し、大杉に瀕死の重傷を負わせる「日蔭茶屋事件」を起こした。
 「自由奔放」と言えば、大杉と共に惨殺された「伊藤野枝」は、大杉以上に奔放な生涯を送った。野枝に関しては、別に触れたことがある。http://d.hatena.ne.jp/naniuji/20170422
『甘粕大尉』(ちくま文庫/2005/角田房子著) https://www.amazon.co.jp/%E7%94%98%E7%B2%95.../dp/4480420398
(この年の出来事)
*1923.1._/ 菊池寛が月刊雑誌『文藝春秋』を創刊。
*1923.1.14/ イタリア国王が、「ファシスト国防義勇軍(黒シャツ隊)」を国防軍と正式認可。
*1923.6.5/ 早大軍研事件の捜査で発覚した共産主義者名簿から、堺利彦、徳田球一らが逮捕され、つづいて80人余の共産主義者が一斉検挙される。
*1923.6.5/ ドイツのインフレが天文学的数字に。独中央銀行総裁が、マルク通貨維持にお手上げ宣言。
*1923.6.9/ 作家有島武郎(46)が、婦人公論の女性記者と心中する。
*1923.9.2/ 朝鮮人アナーキスト朴烈が、妻の金子文子ともに保護検束される。(1926.3.25大逆罪で死刑判決)
*1923.11.8/ ヒトラーがミュンヘンで武装蜂起。バイエルン州政府の転覆を図るが鎮圧される。(ミュンヘン一揆)
*1923.12.27/ アナーキスト難波大輔が、虎ノ門付近で摂政宮皇太子裕仁殿下に発砲。のち、死刑判決を受ける。(虎の門事件)

占領という現実

2020-10-10
ゼネスト中止、断腸呑む思いであります。
Facebook佐々木信雄さんのコメント
『Get Back! 50's / 1950年(s25)』
(GHQ占領方針の「逆コース})
○6.6 マッカーサーが吉田首相宛書簡で、共産党中央委員24人の公職追放を指令する。26日、「アカハタ」の30日間発行停止、7月18日には無期限停止を指令する。
○7.6 マッカーサーが吉田首相宛書簡で、警察予備隊の創設と、海上保安庁の増員を指令する。
○7.24 GHQが新聞協会代表に共産党員と同調者の追放を勧告する。レッドパージが始まる。
○10.13 政府が戦犯覚書該当者を除く1万90人の公職追放を解除する。
 ポツダム宣言受諾による降伏とともに、日本国は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下に入った。当初、GHQは「日本の民主化・非軍事化」を進めていたが、1947年に日本共産党主導の「二・一ゼネスト」に対し、GHQが中止命令を出したのをきっかけに、この対日占領政策は転換された。
 1948年、米の保守的圧力団体「アメリカ対日協議会」が結成されると、戦後日本における「日本の民主化・非軍事化」に逆行する「逆コース」の流れが顕著になった。この方向転換は、1949年の中華人民共和国の誕生、翌1950年の朝鮮戦争勃発によって決定的になる。GHQの施策も「民主化・非軍事化」から「非共産化・保守化」に移り、この意向を受けた第3次吉田内閣は中央集権的な政策を採るようになった。
 GHQは当初、労働運動の確立を必要と考え、労働組合結成を推奨し労組勢力の拡大を容認していた。激しい戦後インフレの下、総同盟・産別会議・全官公労などが結成され、賃上げや待遇改善を要求するデモを行い、全官公庁共闘は「生活権確保・吉田内閣打倒国民大会」を開催した。この時期労働運動を主導していた日本共産党書記長の徳田球一は、「デモだけではだめでストライキによる内閣打倒を」と演説した。
 1947年年頭には吉田首相の「労働組合不逞の輩」発言などがあり、反発した全官公庁共闘により「二・一ゼネスト」が宣言された。実行された場合、鉄道、電信、電話、郵便、学校が全て停止されることになり、吉田内閣に収拾が取れなくなること必至となった。差し迫った実行前日午後4時、マッカーサーの中止指令が発せられた。
 1949年には、下山事件、三鷹事件、松川事件(国鉄三大ミステリー事件)が引き起こされ、事実不明のまま共産党や労働組合関係者の関与が喧伝されるなど、反共・反労働運動プロパガンダ進められ、さらに1950年の朝鮮戦争が勃発すると、GHQによる反共政策が露骨に指示されるようになった。
 そしてこの年には、共産党員を明示的に排除する「レッド・パージ」、公職追放の解除による保守派政財界人の復帰と人材確保、警察予備隊の創設と海上保安庁の増強という後の自衛隊の創設準備、など矢継ぎ早な指示がなされ独立復活後の日本の基本路線を確定した。
*この年
特需景気起こる。/2眼レフカメラ流行/小原豊風・勅使河原蒼風などによる前衛いけばな盛ん/女性の平均寿命が60歳を超える。
【事物】パトロールカー/千円札
【流行語】とんでもハップン/オオ・ミステイク
【歌】水色のワルツ(二葉あき子)/東京キッド(美空ひばり)
【映画】羅生門(黒沢明)/きけわだつみの声(関川秀雄)/自転車泥棒(伊)/白雪姫(米、初のディズニー長編漫画映画)
【本】岩波少年文庫刊行開始/獅子文六「自由学校」(朝日新聞)/大岡昇平「武蔵野夫人」/カミュ「ペスト」
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