闘いの歴史
闘いの記録 (戦争と人間)
狙撃現場の影像です。
参院選の投開票日を2日後に控えた8日昼。自民党候補の応援演説に奈良県を訪れていた安倍晋三元首相(67)が銃撃を受け、亡くなった。マイクを握ってから2分余り。その時、現場で何が起きたのか。
奈良市の近鉄・大和(やまと)西大寺(さいだいじ)駅の北口から50メートルほどの交差点内。ガードレールに囲まれた部分に、自民党候補の陣営が集まっていた。それを取り巻くように、歩道の周辺には300~400人の聴衆がいた。
安倍氏は、公明党議員が応援演説をしているさなかの午前11時20分ごろ、車で到着すると、ガードレール内に入った。そして約10分後。赤い演説台に立って「皆さん、こんにちは。安倍晋三でございます」などと語り始めた。
この時、聴衆の一人が安倍氏を正面から撮影していた動画には、安倍氏の後方に山上徹也容疑者(41)とみられる人物が映り込んでいた。5~10メートルほど離れた場所で、首を左右に振りながら安倍氏の様子をうかがう姿が確認できる。
演説が始まって2分15秒が経った時だった。「彼(候補者)はできない理由を考えるのではなく……」と言ったところで、「ダーン」という重い破裂音が響いた。
付近のロータリーで歩行者の誘導をしていた奈良交通の奥田将弘さん(58)は、この音を聞き、演説台のほうを振り向いた。
演説エリアの近くに山上容疑…
【安倍元総理の逝去をうけて】茂木敏充幹事長ら ぶらさがり(2022.7.8)
菅義偉首相が「安倍争奪戦」に敗れ、不出馬に追い込まれた自民党総裁選。キングメーカーである安倍晋三前首相の支持をさいごに獲得したのは、菅首相に競り勝った岸田文雄前政調会長ではなく、政治信条が安倍氏に極めて近い高市早苗前総務相だった。
この結果、当初は泡沫扱いされていた高市氏は、「初の女性首相」として一気に主要候補となった。
総裁選レースは「選挙の顔」として期待を集める河野太郎ワクチン担当相が一歩抜け出したようにみえる。河野氏は安倍路線からの転換をめざすのではなく、原発政策や皇位継承問題で安倍氏に歩み寄り、自民党内の幅広い支持を集めようとしている。
しかし「安倍氏の継承者」の地位を確立したのは高市氏だ。河野政権が誕生しても高市氏は安倍路線を継承するシンボルとして要職に送り込まれる可能性が高い。安倍氏に恭順の意を示しながら放置された岸田氏に代わって、高市氏の動向がますます注目を集めていくだろう。
私たちはこのような暴力に屈することなく、安倍元総理のご遺志を継いで参ります。
Facebook 丸川珠代(まるかわたまよ)さん曰く
安倍晋三元首相、死去 演説中に狙撃
7月8日午前11時半頃、奈良市内で演説をしていた安倍晋三元首相が銃撃され、死去した。67歳だった。
事件を受け、昭恵さんは都内の自宅から奈良に向けて出発。午後4時55分頃、安倍元首相の入院先だった奈良県立医科大学附属病院に到着した。病院側の会見によれば、「救命センターにて懸命の蘇生措置をおこなったが、残念ながら午後5時3分に亡くなった」としている。
昭恵さんが病院に到着してから、安倍元首相の死亡まで約8分。まるで昭恵さんの到着を待っていたかのようなタイミングだった。ネット上では、遺された妻・昭恵さんに心配の声が集まっている。
《昭恵夫人病院到着が午後4時55分で 17時3分に死亡確認って、、 昭恵さん来るの待ってたんですね泣 悲しい》
《昭恵さん大丈夫かな あんなに仲良しな夫婦なかなか居ない 凄い心配…》
《遺された昭恵さんのことを考えると本当に愛する人をいきなり奪われて失ったってことだから胸が痛いし身が引き裂かれる思いになる》
「昭恵さんの心痛は、想像を絶するものがあります。1987年に安倍元首相と結婚してから、2人は仲睦まじい夫婦として知られてきましたから。
紹介で出会った2人ですが、昭恵さんを見初めた当初、安倍元首相は『すらっとして脚がきれいなんだよね』とのろけていたとか。
昭恵さんの自由な振る舞いが批判を浴び、側近たちが安倍氏に進言することもありましたが、『俺が言っても聞かないから』と受け流していた。
一方で、家庭内では、昭恵さんが安倍氏のことを支え続けてきました。多くの批判にさらされても、お互いにかばいあった夫婦だったんです」(政治部記者)
昭恵さんのインスタでも、たびたび夫婦の2ショットがあがっていた。6月10日にも、2人が笑い合う写真とともに、6月9日で32回めの結婚記念日を迎えたことを報告している。
愛し合う2人にとって、別れはあまりにも突然だった――。
85年の安倍晋太郎外務大臣来聖の際、山口県人会(当時・河添清会長)はサンパウロ市内のシーザーパークホテルサロンで歓迎会を行い、県人会員118人が祝った。当時31歳の安倍晋三氏も秘書として随行していた。
会に出席した西村武人県人会顧問(74、山口)は、「晋太郎さんは、日本の新リーダーとして輝いていた」と当時を振り返り、晋三氏については「決して目立たず、常に後ろに控えていらした」という。