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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

◎成田空港管制塔占拠事件

2021-04-05
Facebook佐々木信雄さん曰く
*1978.12.7/ 自民党総裁選で福田赳夫に勝った大平正芳が、第1次大平内閣を組閣する。
【20th Century Chronicle 1978年(s53)】
◎成田空港管制塔占拠事件
*1978.3.26/ 開港反対派ゲリラが成田空港管制塔を破壊。開港が大幅に遅延する。
*1978.5.20/ 新東京国際空港(現「成田国際空港」)の開港式が行われる。
 '62年に新国際空港の建設が閣議決定されてから16年、やっと開港が目前にせまった3月26日、ほぼ完成した成田空港に空港反対派4千人が突入、一部別動隊が管制塔を占拠し準備完了していた管制塔通信機器を破壊した。これにより開港は2ヵ月以上遅れることになり、やっと5月20日に開港式典がとり行われるはこびとなった。
 当初の反対運動は地元農民たちが主であり、それを支援する社会党や共産党などの既成政党は、反対運動を党勢拡張に利用しようとしたりして、反対同盟から追出される形で脱落した。その隙間へ新左翼が参入してきて、反対運動は過激さを増してゆくことになった。
 70年安保問題が自動更新で決着して以降、新左翼運動は大きな活動テーマを見失う形になり、世間の関心の外におかれるようになった。赤軍派のような過激武装路線をとった急進派は、有力幹部らが国外に脱出して海外テロやハイジャックを連発した。日本残留組は、指揮系統の弱体化をともなって、内部分裂や身内リンチ事件をひき起こし、浅間山荘事件などで自滅していった。
 別の新左翼セクトらは、農民大衆との共闘を訴えられる成田の空港反対運動に目をつけた。国家権力側も、赤軍派のような民衆から遊離した跳ね返りなら実力行使で鎮圧できるが、地元農民・住民を巻き込んだ反対運動は、おいそれと鎮圧行動には出られないため、その沈静に多くの時間と犠牲を払うことになった。
 やっとのことで開港にこぎつけた「成田国際空港」であるが、その後の拡張工事など残された問題も多く、いまだ反対運動さえある。当初、東・東南アジアのハブ空港を期待されたが、開港までの長期におよぶ工事遅延の上に、空港自体の機能制限(滑走路・離着陸時間制限・利用料金の高さなど)、さらには首都圏中心部からの遠さ及び移動料金の高さなどの問題をかかえ、シンガポールのチャンギ国際空港や韓国の仁川(インチョン)国際空港などに遅れをとっている。
 さらに、羽田空港(東京国際空港)への国際線乗り入れや、首都圏第3の空港としての茨城空港の開港、さらには関西国際空港との競合により、相対的な地盤沈下さえ心配される。近年増加一方の LCCなど格安航空への対応など、さらに一層の競争にさらされることになるであろう。
(この年の出来事)
*1978.7.16/ 西ドイツのボンで、第4回主要先進国首脳会談(サミット)が開かれ、日本は福田赳夫首相が参加する。
*1978.11.11/ 無限連鎖講(ネズミ講)防止法が公布される。(1979.5.11施行)
*1978.12.7/ 自民党総裁選で福田赳夫に勝った大平正芳が、第1次大平内閣を組閣する。
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