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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

総序之文

2022-01-17

「門」ということ

2022-06-26

Yasuda Rizinさん曰く


1398
だから「門」ということも、
もっと言えばこれが「南無」ではないかね。
南無がほしいのです。
阿弥陀仏ばかりを求めても出てこない。
阿弥陀仏が南無になった。
だから我々は南無において阿弥陀仏に触れると。
南無阿弥陀仏の前に阿弥陀仏南無がある。
こう言うことが出来るでしょう。
南無がよく分からないのです。
それを南無を忘れて阿弥陀仏ばかりを探すのです。
そうするとそれは観想です。
観見ではない。

善導様です。

2022-06-16

Facebook 根津美術館さん曰く


【阿弥陀如来:つながる教え】*English below.
浄土教を大成した唐代の僧・善導(613~81)が念仏を唱えたところ、口中から仏が現れたといいます。善導は浄土教で重要視される『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』の注釈書である『観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)』を著し、「南無阿弥陀仏」と口に出して唱える称名念仏を重要視しました。この著作は日本にも大きな影響を与え、源信が著した「往生要集」にもその内容が頻繁に引用されています。浄土宗の開祖である法然は、この「往生要集」を通じて善導の教えに触れ、そして生涯にわたり浄土宗の祖として崇めました。本作は、法然の夢に現われた善導の下半身が金色に輝き、法然の念仏布教を讃えたとする説話に基づいています。(-7/3)
・善導大師像 日本・室町時代 15世紀 当館蔵

浄土の問題は『観経』ではどうかというと、

2022-06-16
光は空気です。

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1389
浄土の問題は『観経』ではどうかというと、
韋提希夫人が初めて願に目覚めた時に
「我いま極楽世界の阿弥陀仏の所〈みもと〉に生まれんと楽〈ねが〉う」
と言った。
釈尊はそれまで沈黙を守っていた。
何も答えなかった。
言葉で韋提希を取り扱わない。
光です。
光は空気です。
沈黙の力
1390
夫人の前で釈尊はただ知らん顔していたのではない。
沈黙しておられたのです。
沈黙の力です。
問いには答えなかった。
けれども、答えなかったということは壁ではないのです。
沈黙ということは、
壁という面もあるけれども、
ただの壁ではないのです。
答えない限り壁ですけれども、
勝手にせよというような壁ではない。
何かそこに「空気」というようなものがあったのでしょう。
闇を照らすというのが沈黙の意味です。
1391
闇を照らすというのが沈黙の意味です。
ただ答えなかったわけではないのです。
それはどういうことかというと、自分が出した愚痴が、自分に返ってくる。
ですから答えないのです。
愚痴を取り上げない。
すると言った自分に返ってくるでしょう。
そのことから韋提希は韋提希自身を内観するようになった。
それまでは外を観ていたのです。
Facebook 宮岳文隆さんのコメント
曽我量深先生は、
例えば『曽我量深選集』第三巻中
「『二河喩』と『観経』」等によれば、
全く違う見方をしておられますね。
すなわち、
イダイケの恨みの言葉によって
胸中に大動乱を感じられたのは
釈尊ご自身であって、
答えなかったのではなく
実は一言も発することができなかったのだと

恵信尼消息

2022-06-05

Facebook 小栗洋慶さん曰く


親鸞聖人がご往生11/28ー亡くなられて通夜葬儀荼毘収骨を終えた、娘覚信尼さまは12/1母上がいます越後へ手紙を出す。その娘の手紙は12/20に親鸞さまの妻であり、覚信尼の母である恵信尼様のもとに届く。厳冬雪深き越後国ゆえ、その後京への便もなかったろう。年が明けて2/10心待ちにしていた京への便がでるという。どうしても娘に伝えておかねばならぬことがある。82歳の老女は急いで、夫親鸞さまの3つの逸話を書き記す。何度も読み直し、何十年も昔の「にき(日記)」まで調べなおして訂正し正確に事実を伝えようとする。現代の82歳ではない760ン年前の82歳の老女にとっては大仕事だったろう。

【いまはかかる人にてわたらせたまひけりとも、御心ばかりにもおぼしめせ】

ここしばらくずっと、このお言葉が頭をよぎる。いま確かめておかなければ、きっと忘れ去ってしまうだろう。最近はとみに記憶力が低下してチグハグやテレコに記憶しているか全く忘れているか。それはそれで良いのかも知れないが、少しでもご恩を偲ぶよすがを…との思い南無南無

現代語版聖典」
「この文を書き記してお送りするのは、聖人が生きておられた頃
には、いっても仕方のないことと思っていましたが、今となっては、
このようなお方であったということも、せめてあなたのお心にとど
めていただこうと思って、書き記してお送りします。字の上手な人
にきれいに書かせて、お持ちになってください。
 また、聖人のあの絵像一幅が欲しいと思います。あなたがまだ
幼くて八歳であった歳の四月十四日より、聖人がひどい風邪をお
ひきになった時のことなどを書き記しました。

 わたしは今年で八十二歳になりました。一昨年の十一月から去
年の五月までは、今か今かと死ぬ時を待っていましたが、今日まで
生きています。けれども今年の飢饉では、飢え死にしてしまうかも
しれないと思っています。このようにそちらへ手紙を差しあげるの
に、一緒に何もお送りすることができないのはもどかしくてなりま
せんが、どうすることもできません。
 益方殿にも、この手紙の内容を同じようにお伝えください。もの
を書くのも大変ですので、改めての手紙は差しあげません。
 「弘長三年」
  二月十日

恵信尼消息 2
 この文を書きしるしてまゐらせ候ふも、生きさせたまひて候ひしほどは、申しても要候はねば申さず候ひしかど、いまはかかる人にてわたらせたまひけりとも、御心ばかりにもおぼしめせとて、しるしてまゐらせ候ふなり。よく書き候はん人によく書かせてもちまゐらせたまふべし。
 またあの御影の一幅、ほしく思ひまゐらせ候ふなり。幼く、御身の八つにておはしまし候ひし年の四月十四日より、かぜ大事におはしまし候ひしときのことどもを書きしるして候ふなり

仰せを蒙りて【音声・映像データ編】

【大谷大学として在る、意味。】~第28代木越康学長×第29代一楽真学長 対談動画

2022-03-18
【お知らせ/学長対談】 4/1から大谷大学第29代学長に就任される一楽理事長と現学長の木越教授との対談動画がアップされています。
Facebook大谷大学同窓会 【お知らせ/学長対談】

大谷大学が掲げるメッセージ「Be Real―寄りそう知性―」。
 大谷大学の人間教育の基盤は、誰もが当たり前だと考えている物事を、今一度見つめ直し、問い直すこと。
 初代学長 清沢満之が開学して以来、120年以上にわたり、かわらず受け継がれている建学の精神、大谷大学としての在り方について、第28代学長木越康と第29代学長一楽真が語る。

東本願寺真宗会館【公式】お坊さんの法話

2022-03-19
お坊さんの法話2021年10月28日「まことのいちねん おこれるそのとき」①

お坊さんの法話2022年2月6日「何しに来た」―『歎異抄』第二条

お坊さんの法話2021年9月28日「親鸞からの風に吹かれて」

お坊さんの法話2021年12月28日「親鸞からの風に吹かれて」


お坊さんの法話2022年5月28日「親鸞からの風に吹かれて」

池田勇諦(36分)「仏法は何を言おうとしているのか?」

2022-03-19
2022/1/9 西恩寺門徒会 新年「総会」法話 池田勇諦(36分)
「〈他力〉は外力にあらず。この世に〈自力〉はあらず。」
 『塵劫記』1627年に吉田光由が執筆した。
 法話中に出ます数の単位が抜けていましたので。 
一 いち 10/ 0 十 じゅう 10 /1乗 千 せん 10/ 3 乗 万 まん 10/ 4 乗(萬) 億 おく 10/8 乗 兆 ちょう 
10 /12乗 京 けい 10 /16乗 「きょう」 とも読む。 
垓 がい 10 /20 乗 杼  じょ 10 /24乗  正しい漢字は、(禾+予)。 
(禾+市) と書いて、「し」 ともいう。
 穣 じょう 10 /28 乗 溝 こう 10 /32 乗 澗 (潤) かん 10 /36 乗 正 せい 10 /40 乗 載 さい 
10 /44 乗 極 ごく10 /48 乗 恒河沙 こうがしゃ(ごうがしゃ)10 /52乗 恒河 ( ガンジス川 )の無数の砂。
 阿僧祇 あそうぎ 10 /56乗 数えられないこと。 
那由他 なゆた 10/ 60乗「那由多」 とも書く。
 不可思議 ふかしぎ 10 /64乗 常識では理解できない不思議なこと。
 無量大数 むりょうたいすう 10 /68乗

2022年新年の法要[修正会]/法話:自己という名の原始林を拓く

2022-03-19
【いま、あなたに届けたい法話】不安と安心(名和達宣氏)

金沢別院テレホン法話【星川 了 氏】2021年12月15日配信

2021-12-15
ともしび~ 星川 了 氏 12月15日~
金沢別院テレホン法話【星川 了 氏】2021年12月15日配信
ともしび~ 星川 了  氏 12月15日~
1月15日配信 金沢別院ではテレホン法話を行っております。
【電話番号】076-261-4001で、約3分間の法話が聞けます。
 御俗姓 
 それ、祖師聖人の俗姓をいえば、藤氏として、後長岡丞相 内麿公 の末孫 皇太后宮大進有範の子なり。また本地をたずぬれば、弥陀如来の化身と号し、あるいは曇鸞大師の再誕ともいえり。しかればすなわち、生年九歳の春の比、慈鎮和尚の門人につらなり、出家得度して、其の名を範宴少納言の公と号す。それよりこのかた、楞厳横川の末流をつたえ、天台宗の碩学となりたまいぬ。其の後二十九歳にして、はじめて源空聖人の禅室にまいり、上足の弟子となり、真宗一流をくみ、専修専念の義をたて、すみやかに凡夫直入の真心をあらわし、在家止住の愚人をおしえて、報土往生をすすめましましけり。  そもそも、今月二十八日は、祖師聖人遷化の御正忌として、毎年をいわず、親疎をきらわず、古今の行者、この御正忌を存知せざる輩あるべからず。茲によりて、当流にその名をかけ、その信心を獲得したらん行者、この御正忌をもって、報謝の志をはこばざらん行者においては、誠にもって、木石にひとしからんものなり。しかるあいだ、かの御恩徳のふかきことは、迷慮八万の頂、蒼瞑三千の底にこえすぎたり。報ぜずはあるべからず、謝せずはあるべからざる者か。此の故に、毎年の例時として、一七か日のあいだ、形のごとく報恩謝徳のために、 無二の勤行をいたすところなり。 此の七か日報恩講の砌にあたりて、門葉のたぐい国郡より来集、いまにおいて其の退転なし。しかりといえども、未安心の行者にいたりては、争でか報恩謝徳の義これあらんや。しかのごときのともがらは、この砌において仏法の信・不信をあいたずね、これを聴聞して、まことの信心を決定すべくんば、真実真実、聖人報謝の懇志に相叶うべき者なり。哀なるかな、それ聖人の御往生は、年忌とおくへだたりて、すでに一百余歳の星霜を送るといえども、御遺訓ますますさかんにして、教行信証の名義、いまに眼前にさえぎり、人口にのこれり。貴とむべし、信ずべし。これについて、当時真宗の行者のなかにおいて、真実信心を獲得せしむる人、これすくなし。ただ、人目・仁義ばかりに、名聞のこころをもって報謝と号せば、いかなる志をいたすというとも、一念帰命の真実の信心を決定せざらん人々は、その所詮あるべからず。誠に、水に入りて垢おちずといえるたぐいなるべきか。これによりて、此の一七か日報恩講中において、他力本願のことわりをねんごろにききひらきて、専修一向の念仏行者にならんにいたりては、まことに、今月聖人の御正日の素意に相叶うべし。これしかしながら、真実真実、報恩謝徳の御仏事となりぬべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 于也、文明九 十一月初比、俄為報恩謝徳染翰記之者也 

御文 第二帖 一通  (お浚えの御文)  そもそも、今度一七か日報恩講のあいだにおいて、多屋内方もそのほかの人も、大略信心を決定し給えるよしきこえたり。めでたく本望これにすぐべからず。 さりながら、そのままうちすて候えば、信心もうせ候うべし。 細々に信心のみぞをさらえて、弥陀の法水をながせといえる事ありげに候う。  (信心が決定したと思っても、そのまま放置すれば失せてしまう。   再々信心の溝をさらえて、弥陀の法水を流しなさい。) それについて、女人の身は、十方三世の諸仏にもすてられたる身にて候うを、阿弥陀如来なればこそ、かたじけなくもたすけましまし候え。そのゆえは、女人の身は、いかに真実心になりたりというとも、うたがいの心はふかくして、また物なんどのいまわしくおもう心は、さらにうせがたくおぼえ候う。ことに在家の身は、世路につけ、また子孫なんどの事によそえても、ただ今生にのみふけりて、これほどに、はやめにみえてあだなる人間界の老少不定のさかいとしりながら、ただいま三塗八難にしずまん事をば、つゆちりほども心にかけずして、いたずらにあかしくらすは、これつねの人のならいなり。あさましというもおろかなり。これによりて、一心一向に弥陀一仏の悲願に帰して、ふかくたのみたてまつりて、もろもろの雑行を修する心をすて、また諸神諸仏に追従もうす心をもみなうちすてて、さて弥陀如来と申すは、かかる我らごときのあさましき女人のためにおこし給える本願なれば、まことに仏智の不思議と信じて、我が身はわろきいたずらものなりとおもいつめて、ふかく如来に帰入する心をもつべし。さてこの信ずる心も念ずる心も、弥陀如来の御方便よりおこさしむるものなりとおもうべし。かようにこころうるを、すなわち他力の信心をえたる人とはいうなり。またこのくらいを、あるいは正定聚に住すとも、滅度にいたるとも、等正覚にいたるとも、弥勒にひとしとも申すなり。またこれを、一念発起の往生さだまりたる人とも申すなり。かくのごとく心えてのうえの称名念仏は、弥陀如来の我らが往生をやすくさだめ給える、その御うれしさの御恩を、報じたてまつる念仏なりと、こころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。  これについて、まず当流のおきてをよくよくまもらせ給うべし。そのいわれは、あいかまえていまのごとく信心のとおりを心え給わば、身中にふかくおさめおきて、他宗他人に対してそのふるまいをみせずして、また信心のようをもかたるべからず。一切の諸神なんどをもわが信ぜぬまでなり、おろかにすべからず。かくのごとく、信心のかたもそのふるまいもよき人をば、聖人も、よく心えたる信心の行者なりとおおせられたり。ただふかくこころをば仏法にとどむべきなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明第五、十二月八日、これをかきて当山の多屋内方へまいらせ候う。このほかなおなお不審の事候わば、かさねてとわせたまうべく候う。 所送寒暑 五十八歳御判 のちの代の しるしのために かきおきし のりのことの葉 かたみともなれ

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仰せを蒙りて【アーカイブス 音声・映像データ編】

帰依三宝

2021-04-04
Facebookしんらん響流館さん曰く
「全戦没者追弔法会2021」で焼香される修如上人

報恩ということ

2020-11-15

資料検索のページ 資料室

2022-06-07

★「ともしび」を更新(2022年04月15日)
★「大谷学報」を更新(2022年04月14日)
★「真宗総合研究所紀要」を更新(2022年04月14日)
 「研究所報」を更新(2022年04月14日)
★「大谷大學研究年報」を更新(2022年04月14日)
★「親鸞教学」を更新(2022年04月14日)
★「現代と親鸞」を追加(2022年04月13日)等々

★全ての論文の著作権は著作者と発行団体に所属します。
利用されるときは必ず出典を明記して下さい。

西村見暁師の名著「清澤満之先生」

2022-06-02

Facebook 百々海 真さん曰く


西村見暁師の名著「清澤満之先生」は、師の東大時代の卒論に自ら加筆された珠玉の一冊。東大脇本平也先生が、ご晩年に西方寺臘扇忌に出講された際に「私が気づいたことを西村先生は50年余り前にわかっておられた」と称賛されたお姿は、実に清々しかった。
西谷啓治先生が本書を「毎日出版文化賞」に推挙され内定したが、「名利になりますから、辞退します」といわれた。そのことが西谷先生を生涯突き動かしたのだろう。西村師が独自の思想を打ちだし、宗派や門弟も三下り半を突きつけた後も、お二人は九州で会食され、親交を深めておられる。
また、公刊されなかった「世界統一的国家の原造者」の序文は西谷先生に依頼される予定であった。その「世界統一的ー」は、愛知県水野暁輝法姉が自費出版された。現在、三重県桑名西恩寺様にて池田勇諦先生がテキストとして採用されている。自分の足で歩いた人に、小心者の私は強く惹かれる。見事なご一生に南無阿弥陀仏。

昭和20年失明後の最晩年のお顔

2022-05-22

Facebook 百々海 真さん曰く


暁烏敏師 明治10年〜昭和29年8月27日西帰 
岩瀬暁燈師撮影 児玉暁洋師所蔵 
池田勇諦師講述「私にとって暁烏敏とは」に口絵写真として所収 

昭和20年失明後の最晩年のお顔だが、もはや言葉は要らない 南無阿弥陀仏
「光る世を抱きつつむ ― 伝道の旅人 暁烏 敏 ―」字幕版 - YouTube

教団の歴史

京都世界遺産を深掘り【14.龍谷山 本願寺(西本願寺)】

2021-11-22
Facebook 佐々木信雄さん曰く
京都世界遺産を深掘り【14.龍谷山 本願寺(西本願寺)】
 通称「西本願寺」は、京都市下京区七条上ルの堀川通りに面した地にあり、浄土真宗本願寺派の本山であり、山号は龍谷山、正式名称は「龍谷山 本願寺」である。真宗大谷派の本山「東本願寺」(正式名称「真宗本廟」)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多い。
 弘長2(1262)年、浄土真宗開祖「親鸞」が入滅する、享年90。文永7(1272)年、親鸞の末娘 覚信尼は、親鸞の廟堂として京都東山に「大谷廟堂」を建立する。そして、元亨元(1321)年、第3世 覚如が大谷廟堂を寺格化し「本願寺」と号すると、親鸞を開祖と定め、以後「御真影」を安置している寺を「本願寺」と呼称するようになった。
 覚如は、親鸞の門弟門徒を「本願寺」のもとに統合しようと企図するが、強大な経済力・軍事力を有する延暦寺以下の既存寺院によって弾圧を受けて、低迷を余儀なくされた。また、東国などでは親鸞の門弟たちによる教団が展開され、浄土真宗は決して本願寺に一本化されたわけではなかった。
 長禄元(1457)年、第8世「蓮如」が本願寺を継承したころには、本願寺は衰亡の極みで青蓮院の一末寺としてかろうじて継承されていた。寛正6(1465)年、本願寺は延暦寺衆徒によって破却され、蓮如は京都から近江に難をさけ、そして越前(福井県)吉崎に移り布教する。
 中興の祖とされる蓮如の布教により、門徒(真宗教徒)は東国に拡がりをみせ、北陸では加賀国守護富樫氏の内紛に関わり、やがて百年にわたる「加賀国一向一揆」にまで展開する。蓮如は一揆の鎮静をはかるが収められず吉崎を退去する。明応6(1497)年、蓮如は大坂石山に「大坂御坊」(大坂本願寺)を建立し隠棲、明応8(1499)年、山科本願寺で入滅する。
 戦国の100年間に、本願寺は日本有数の大教団として、また強力な社会的勢力としての地位を得た。これは、教団の自衛としての意味もあるが、力を付けた民衆の解放運動のささえとなり、社会変革の思想的原動力ともなった。それは一方で、戦国大名など世俗権力との軋轢もまねき、その最大のものが、約10年にわたる「石山合戦」である。
 天下統一をすすめ京都に入った信長が、元亀元(1570)年、浄土真宗門徒の本拠地、大坂石山の「大坂本願寺(石山御坊)」からの退去を命じたが、石山本願寺勢力は信長に徹底抗戦する。10年にわたる交戦のあと講和が成立するが、徹底抗戦勢力が籠城したため、「大坂(石山)本願寺」には火が放たれ灰燼と化した。
 まもなく「本能寺の変」が起こり、信長が自害すると、あとを継いだ豊臣秀吉により石山本願寺跡地を含む一帯に「大坂城」が築かれた。本願寺は、秀吉の寺地寄進をうけて大坂の天満(てんま)に移るが、さらに天正19(1591)年、豊臣秀吉から京都に寺地の寄進を受け、現在地に移転した。
 「石山合戦」で和議を受け入れた第11世門跡 顕如は、徹底抗戦を唱える長男 教如との間にしこりが残り、教団の内部も穏健派と強硬派に分裂し、これが東西本願寺分立の伏線となった。顕如入滅にともない、教如が本願寺を継承するが、穏健派は三男の准如に継職させるよう秀吉に願い出て、弟の准如が第12世本願寺宗主となる。
 関ヶ原の戦い後、天下人となった家康に接近した教如は、家康から「本願寺」のすぐ東の烏丸六条の寺領を寄進され、教如はここを本拠とする。かくして本願寺教団は、「准如を12世宗主とする本願寺教団(真宗本願寺派/西本願寺)」と、「教如を12代宗主とする本願寺教団(真宗大谷派/東本願寺)とに分裂することになる。正式には、慶長8(1603)年、上野厩橋(群馬県前橋市)の妙安寺より「親鸞上人木像」を迎え、「本願寺(東本願寺)」が開かれた。
 西本願寺境内には桃山文化を代表する建造物や庭園が数多く残されており、国の史跡に指定され、ユネスコ世界文化遺産に「古都京都の文化財」として登録されているが、観光寺院ではなく信仰を旨とする寺であるため拝観料は無料で、境内および国宝の御影堂や阿弥陀堂に自由に入ることができ、国宝の唐門もすぐ横まで行ける。
 東西の本願寺は、五条通りから七条通りの京都の中心地に広大な土地を所有する。その所有地に多くの民家が建ち、借家も多く、それらの借家には高齢者夫婦などが住まっている。古くからの借家は家賃が安いので、高齢者は移転が難しく、下京区の高齢化が進んでいるという。
 この地区はJR京都駅の北面にあたり京都の玄関口であるが、商業集積は比較的遅れており、京都の商業中心地は四条河原町周辺に奪われている。これは、五条通りから京都駅前の塩小路通りに挟まれた広大な中心地域が、商業に積極的でなかった東西本願寺と旧国鉄の所有地であったためと言われている。

真宗王国「御影」が礎、 教如、北陸に大量授与!大桑斉さん(大谷大名誉教授)発表 (2020.7)

2021-04-04
 大桑さんは、宗祖の親鸞、父顕如の御影の大量発給で道場的な場を寺院として再編し、現在の真宗教団の基礎をつくったとみている。これらの成果は遺作となった著書、本願寺 教如教団形成史論(法蔵館)に発表した。
能美郡四講に授与された宗祖の親鸞(1173~1263)の御影、いずれも小松教区提供
1595年に教如から能美郡(のみのごおり)四講(しこう)に授与された父顕如(1543~1592)の御影。能美郡四講は224の村で構成する講組織で現在の真宗大谷派小松教区に当たる。
 戦国時代に天下統一を目指す織田信長に徹底抗戦し、その後、東本願寺(浄土真宗)を開いた教如(1558~1614)。
教如が歴代宗主の肖像画である御影(ごえい)を大量に全国の寺院に授与していたことが、
今年4月に82歳で亡くなった大谷大名誉教授、大桑斉さん(金沢市出身)の研究で分かった。
確認した御影は386点。授与先は「真宗王国」といわれる北陸が多かった。

分岐点について

2021-11-13
Facebook 八軒家かいわいマガジンさん曰く
天正六年(1578)十一月六日:毛利水軍、木津沖で信長配下の九鬼嘉隆の水軍に敗れる(大阪市史編纂所)
改訂【かいわいの時】
天正六年(1578)十一月六日:毛利水軍、木津沖で信長配下の九鬼嘉隆の水軍に敗れる(大阪市史編纂所)
大敗を喫した木津川口海戦から二年、信長は伊勢の九鬼嘉隆に命じて大型の軍船六艘の建造をすすめていました。この軍船には大砲三門が備えられ、火矢や弾丸をはね返す鉄板の装甲が施されていました。長さ十八間(三十二㍍)、幅六(十一㍍)の巨大船。この「鉄の船」六艘に大型軍船一艘を加えた船団で信長は再度木津川口を奪回。海上を封鎖します。これが天正六年七月。その後、荒木村重が本願寺側に寝返って信長は足元を掬われます。朝廷による斡旋もあり、信長と顕如の間で和睦の動きが出てきました。そんな状況の中、同年十一月六日、再び毛利水軍六百艘が木津川沖に出現、兵糧を本願寺に搬入しようとします。これを迎え撃ったのが前述の九鬼嘉隆率いる巨大な鉄船です。毛利軍の火矢をもろともせず、近寄せるだけ近寄せておいて大砲を放ちます。さすがの毛利水軍もこれにはたまらず敗走、信長の鉄の船の大勝利に終わります。この勝利で自信を得た信長は和睦策を撤回。以降、本願寺は海上からの輸送路を絶たれてしまうことになります(平野)。

石山合戦配陣図

2021-04-04
和歌山県立博物館

和歌山市
昭和17年/1942年
一幅
和歌山市湊本町3丁目2番地
和歌山市立博物館

石山合戦における本願寺と織田信長との軍勢の配置図。大阪定専坊所蔵の合戦図を昭和17年に写したもの。
画面には「鈴木孫市」など紀州勢の名称も見える。


錦絵 石山本願寺合戦

2021-04-04
和歌山県立博物館
和歌山市
明治16年/1883年
大判三枚続
和歌山市湊本町3丁目2番地
和歌山市立博物館

織田信長と大坂本願寺が戦った石山合戦を描いた錦絵。
合戦は元亀元年(1570)から天正8年(1580)まで続き、紀州の雑賀衆も参戦した。
画面には「鈴木孫一」など紀州勢の名称も見える。
太閤記 石山大合戦之図
楊洲周延 (1838~1912)
ようしゅうちかのぶ
和歌山市
明治時代
大判三枚続
和歌山市湊本町3-2
和歌山市立博物館

織田信長と大坂本願寺が戦った石山合戦を描いた錦絵。合戦は元亀元年(1570)から天正8年(1580)まで続き、紀州の雑賀衆も参戦した。

宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃のページ

5月29日(日)で「慶讃法要まであと300日」となりました

2022-05-30
【慶讃トダウン看板」が納品され、内局をはじめ、職員や
法要までのカウントダウンを開始】
5月29日(日)で「慶讃法要まであと300日」となりました
前日の28日に、慶讃法要までの日数をお知らせする「カウントダウン看板」が納品され、内局をはじめ、 
その家族30名ほどが立ち合いました
29日から御影堂門下に設置され、今後慶讃法要まで300日間、毎日カウントダウンし、参拝の方や通行の方に慶讃法要までの日数をお知らせしていきます
ご参拝に来られた際には、ぜひ写真撮影のスポットとしてもご活用ください

旗印です。

2021-12-01

宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要特設サイト

2021-09-26
真宗大谷派(東本願寺) (higashihonganji.or.jp)

立教開宗の書・親鸞聖人の主著『教行信証』(坂東本)―聖人の思索の跡をたずねて―

2021-04-25

真宗本廟(東本願寺)において、2023年に勤まる宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要を記念して制作した動画です。
 浄土真宗立教開宗の書として、大切に読まれ、現在まで伝えられてきた親鸞聖人の主著『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』。
 聖人の筆跡を感じ、思索にふれていただけるよう聖人直筆の『教行信証』(坂東本)を紹介します。

「立教開宗の書『教行信証』展」

2021-04-03
HP東本願寺/写真日記 2021年4月1日 更新
親鸞聖人直筆『教行信証』「坂東本」のパネルを展示しています

参拝接待所ギャラリーでは、「立教開宗の書『教行信証』展」を行っています。こちらの展示内容も、配信でご覧いただけます。

「立教開宗の書・親鸞聖人の主著『教行信証』(坂東本)―聖人の思索の跡をたずねて―」についてはこちら

立教開宗の書・親鸞聖人の主著『教行信証』(坂東本)―聖人の思索の跡をたずねて―

聖徳太子1400年忌法要のベージ

皇室の聖徳太子1400年式年祭が11日、大阪府太子町の単立叡福寺内にある聖徳太子磯長墓で、神式で斎行された。

2022-04-20
「中外日報」より

皇室の聖徳太子1400年式年祭が11日、大阪府太子町の単立叡福寺内にある聖徳太子磯長墓で、神式で斎行された。

宮内庁が管理する各陵墓では毎年の没日に正辰祭が営まれており、節目の年には式年祭がある。天皇陵の式年祭のような奉幣は皇族墓では行われておらず、儀式内容は例年の正辰祭と変わらない。磯長墓は考古学的には「叡福寺北古墳」と呼ばれ、没年とややずれる7世紀後半の様式を示すが、太子の墓の可能性が高いと考えられている。

師の慧慈和尚偲ぶ 聖徳太子1400年御聖忌御正當法要 宝前に両像、功績たたえる 

2022-02-25
慧慈和尚(宝前右)をたたえる慶讃文を読む般若寺の福嶋住職
和宗総本山四天王寺
中外日報 2022年2月25日 13時59分
聖徳太子1400年御聖忌慶讃大法会が営まれている和宗総本山四天王寺(大阪市天王寺区)で22日、御正當報恩慶讃法要が厳修された。法要では太子に仏法を教えたとされる慧慈和尚の千四百回忌報恩法要を併せて奉修し、遺徳を偲んだ。(詳細は2022年2月25日号をご覧ください

浄土真宗における聖徳太子―千四百回忌を迎えて―

2022-02-02

◎飛鳥の王権と聖徳太子

2021-05-24
Facebook佐々木信雄さん曰く
6th Century Chronicle 581-600年】
6th Century Chronicle 581-600年】
◎飛鳥の王権と聖徳太子
*585/ 敏達天皇が没し、用明天皇が即位する。
*587/ 用明天皇が没し、崇峻天皇が即位する。
*587/ 蘇我馬子が穴穂部皇子を殺害し、さらに物部守屋を滅ぼす。
*592.12.8/ 蘇我馬子に暗殺された崇峻天皇に代わって、推古天皇が即位する。
*593.4.10/ 聖徳太子(厩戸皇子)が国政に参画する。
 585年、「敏達天皇」崩御を受け「用明天皇」が即位する。蘇我稲目の孫でもある用明天皇は崇仏派であり仏法を重んじたが、在位2年足らずの587年に、用明天皇は崩御した。後継問題で、大連の物部守屋は「穴穂部皇子」を即位させようとはかるが、蘇我馬子は穴穂部皇子を殺害し、さらに物部守屋をも射ころさせ、物部氏を滅亡に追い込む(丁未の乱)。
 蘇我馬子によって「崇峻天皇」が即位するが、実権を馬子が握られている不満から反発しだすと、馬子は計略で暗殺してしまった。その馬子に請われて、先々代敏達天皇の皇后であった額田部皇女が、592年、史上初の女帝として即位、「推古天皇」(39歳)となる。
 593年、用明天皇の子で甥の厩戸皇子(聖徳太子)を、皇太子として国政を補佐させる。推古天皇は、皇太子厩戸皇子と大臣蘇我馬子の勢力の均衡を保ち、馬子が葛城県の支配権を望んだ時も、毅然とこの要求を拒絶したという。
 推古女帝のもと、聖徳太子は蘇我馬子と協調して、冠位十二階(603年)・十七条憲法(604年)を次々に制定し、法令や組織の整備を進めた。また607年には、小野妹子を隋に派遣(遣隋使)し、中国皇帝に日本の独立性を示した。
 594年推古天皇は、三宝(仏・法・僧)を敬うべしという詔勅(三宝興隆の詔)を示し、太子や馬子と共に仏法興隆に努め、斑鳩に法隆寺を建立させるなど仏教を奨励した。620年、聖徳太子と馬子は「天皇記」「国記」を編纂して、国の歴史を記した。
 622年に太子が49歳で薨去し、更に4年後の626年、蘇我馬子も亡くなる。そして628年、推古天皇は75歳で崩御した。推古天皇は継嗣を定めていなかったため、馬子の後を受けた蘇我蝦夷は、後継候補の田村皇子と山背大兄王から、田村皇子を擁立して「舒明天皇」とした。
 こうして政治の実権は、蘇我蝦夷・入鹿父子に握られ、入鹿は聖徳太子の子「山背大兄王」を攻めほろぼしてしまう。これを皇統政治の危機と見た中大兄皇子や中臣鎌足は、入鹿を殺し「大化の改新」を開始する。ここに飛鳥のヤマト政権は、大きな転換期をむかえることになる。
(この時期の出来事)
*598/ 蘇我馬子が飛鳥寺(法興寺)を発願して建立をはじめ、593年塔の心礎に仏舎利を納める。
*593/ 難波に四天王寺が建立される。
*594/ 三宝興隆の詔が出され、諸氏が競って寺を建立する。

真宗大谷派善重寺(茨城県水戸市・二十四輩旧蹟)の聖徳太子立像

2022-01-31
Facebook 山口昭彦さん曰く
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