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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

『観経』に照らしてみますと

2020-09-05
757
一心に摂取不捨の利益にあずかるというけれども、摂取不捨の利益にあずかって信心が一心になるのです。摂取不捨の利益にあずかって一心になる。信心が一心になる。易往無人のほうは『大無量寿経』ですけれども、今度は『観経』に照らして表わしてあるのです。
 
758
『教行信証』では「信巻」の後のほうに、本願成就の文に続いて「現生十種の益」というものが挙げてある。これは結局、最後の住不退転、即得往生住不退転、不退転の一句に帰着するのです。唯識のほうで爾時唯識性に住するといってあるのはどういうことかというと、つまり住不退転なのです。正定聚住不退転を『唯識論』の言葉では唯識の実性に安住すると。
759
心光摂護の一心というのは、これは観経によって照らしてあるのです。現生十種の益では現生ですから未来ではないのです。本願が現在に成就する。本願が現成するという意味です。本願成就ということは、今この時に、この人の上において成就する、現成するというのです。現実となるわけです。現実として成就するということが本願成就という意味です。

教理学

2020-09-05
753
「時」ということと「人」ということが本願成就においては非常に重要な概念になるのです。これはやはり「自覚」ということであって、仏教の大事な点でしょう。自覚というものを人に強制することはできないのです。そうすると教理を押し付けることになるでしょう。
754
いっぺんに何百人を洗脳するとかということは思想的に暴力です。教理というものを押し付けるということになると暴力でしょう。だから人間は必ず反抗するのです。自覚というのは「時」を待たねばならない。その人自身が頷くより道がない。そういうことを無視して押し付ければ、それは教理学でしょう。

「についての」学問

2020-09-05
771
こんにちの仏教学でもですね、仏教というものを対象として取り扱っておるけれども、学問自身ひとつの経典史学とか、宗教学とか、宗教心理学とか、そんな「材料」として仏教をもちいるなら、これは名前は仏教だけれども、その学問は世間的なものだ。それはまぁ区別すれば、そういう場合の仏教学というのは、仏教「についての」学問でしょう。
770
なにかギリシャにはやっぱり哲学というものがあったんだけど、ご承知のようにソクラテスからまぁ一つのギリシャの哲学というものがはっきりしてくる。それまで、ソクラテスは何から区別するかというと、ソフィストというのから区別しとるですね、ソフィスト。これがつまり言ってみれば「世智」というものでしょう。
772
関する学とアビダルマとの区別。やっぱり、それ自身一つの経典であるというような意味をもっとるのは、厳密な意味の仏教学なんだ。仏教に関する学ではない。「仏道を学する」という意味の学ですね。それがアビダルマという概念でしょう。

現生ということ

2020-08-25
 
760
現成です。現生の益であって、未来というようなものではない。未来ということと区別している。未来というのは願望、理想あるいは要請という。そういうものではない。それはもと(本)を探ると『観無量寿経』の真身観の「光明遍照十方世界 念仏衆生 摂取不捨」に基づく言葉です。念仏する衆生を摂取して捨てないと書いてあります。

願往生心

2020-08-10

746
だから、社会主義というのも共産主義というのも何もないところに出てきたのではない。
根底に願往生心というものがあるのです。
根底に願往生心というものがなければ社会主義とか共産主義が出てくるはずがないのです。
その彼らが宗教を否定するのは、いわゆる反動宗教を否定するのです。
つまり封建制度や資本主義の御用教学を否定しているわけです。

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