ちょい話【親鸞編】
仰せを蒙りて【文字データ編】
本多弘之「「願に生きる」ということ」
学ぶということ
634
学というものは、「解ゲ」に関する学と「行ギョウ」に関する学と二つ、善導は立てたわけです。
これはやはり「知る」ということの学だけでは学は尽くされないのです。
実行するという、実践の学というところにやはり人間の構造がある。
人間が人間になるために学というものが出てくるのでしょう。
人間を完成するという意味が学ということになるのでしょう。
それについていろいろ善導は非常に大事なことを言っているわけです。
635
解を学するという場合には、一切を我々は学することが出来、また学さなければならないと。
一切です。
どれをこれをではない。
一切を学するということが要求されるし、また必要であると。
けれども行の場合はそうはいかないと。
これは有縁の法に藉(よ)れと。
縁のある法に藉れという具合に言うのです。
知るという場合は自分に反対するものでも知る必要があると。
自分に合うものではない。
自分に合わないものでも知るためには必要であると。
636
仏教を学ぶ場合に、仏教に反対する思想もあるだろうと。
「知る」というならばそれも知る必要があると。
こういうようにやっていくのが解学というものでしょう。
けれども行の場合はそうではない。
「知ったこと」と「知った自分」とがどうなるかと。
その知ったことで自分は救われるのか、救われないのかと。
637
解学のほうは救われようが救われまいが関係なしに知っていかなければならない。
行の学は、知るということは私にとって、自己にとって、どういう問題かと。
知るのは自己を超えるのです。
けれども自己ということが問題になってくるというと、きみのやった学問はきみ自身にとってはどういう意味をもつかと。
そういうような具合になってくる。
638
知られたものによって、知るもの自身が解決されていく。
もっと広い言葉でいえば、救われていくと。
「救い」というのは自己に関係する。
「知る」のは救いとは関係ない。
けれども、自己の存在がそれによって解決されていく、救われていくというようなことになると、やはりそこに「行」という字が出てくるのでしょう。
行学と。
639
行の学、それは一切ではないのです。
縁の有る法に藉(よ)れと言ってあります。
非常に大事な言葉です。
有縁という言葉が出てきます。
人間の構造が知と行の二つで完成する。
人間の構造に基づいて人間を完成していくということが、解・行、この二つで表わされるのです。
教学、教学といっとるけど、理論をやっとるんやないかね。
法蔵菩薩
法蔵菩薩というのは文学的表現です。
神話というわけではないけれども神話的な表現になる。
昔話です。
「仏、阿難に告げたまわく、
乃往過去、久遠無量不可思議無央数劫に、錠光如来、世に興出して、
無量の衆生を教化し度脱して、
みな道を得せしめて乃し滅度を取りたまいき」と。
昔々大昔という意味です。
ただこれは如来の昔話だと。
『観経』の至誠心
ただ一所懸命、という意味ではないのです。
そういうのは『観経』の至誠心という。
「一者至誠心」と。
至誠心というのは人の誠です。
忠誠心というようなものです。
ロイヤリティloyaltyというようなものです。
「一心専念」は人間の誠ではないのです。
本願に根拠を持っている誠です。