ちょい話【親鸞編】
仰せを蒙りて【文字データ編】
田畑先生から
田畑正久先生の投稿
柳田邦男さんのことばより
相手を思い返す現在の自分の中に、亡き人は生きているのです柳田 邦男
朝日新聞(2020年12月3日)のインタビューより。
コロナ感染症の対策のために、医療機関や福祉施設では面会が規制される中、家族と一度もあえないまま死別する例が多くなっている。
突然の死別に、あいまいな喪失感を抱き葛藤に苦しむ家族を取材してきたノンフィクション作家の柳田氏は、「その場で手を握り、体をさすり、耳元で声をかける。ぬくもりが言わば『心の血流』となって伝わります」「コロナ患者を受け入れた病院が感染防止だけを考えるなら、患者と会いたい家族は邪魔になる。科学主義を突き詰めればそれが結論です。でもたとえ重症化した人でも、ウイルスと治療の拮抗関係の中にだけ生命があるわけではない。医学的な命とは別に、家族や恋人など人間関係による心の営みが生きる上で不可欠です」と語る。
表題の「相手を思い返す現在の自分の中に、亡き人は生きているのです」という言葉は、インタビュー後半で死者との関係性のことを語られたくだりであるが、医学や科学のものさしで語られる「生命」だけでなく、様々な関係性や心の中にある他者のぬくもりによって、割り切れない、そして時代や空間を超えた「いのち」があることを想う。
感染対策と、人間同士の営み。そのはざまで揺れた2020年であったのではないだろうか。
(文/溝邊伸)
高光大船先生のことばより
人は法を求むるに止まって、 法に生きることを忘れている高光大船
ある日、東本願寺の渡り廊下を歩いていると、掲示されているこの言葉に足が止まった。
「私は学習会に行ったりしているが、その場に行ったことに満足してそこから何か変わっただろうか。ただの知識になっているのではないか」
前々から思ってはいたけれど、なるべく考えないようにしていた自分の心を言い当てられたような気がして、ぎくっとしたからである。
今まで何度も「生活の中で念仏するのではなく、念仏の上に生活がいとなまれる」と和田稠先生の言葉を講義などで、うんうんと頷きつつ聞いてきた。しかし、できていない自分に気づきはしても「あ~できないなぁ」で終わらせている私がいた。
見ないふりをしていたのである。
法を求めるふりをして、そういう場に行って学ぶ自分という自己満足を満たすためにいっていたのではないかと、この言葉を見た時に感じた。
同時に「はたして私は法を求めているのだろうか、法を求めるとはどういうことなのか。
法に生きるとはどういうことなのか、お念仏の生活が頂けているだろうか」という問題から目をそらすな、如来の、私の声を聞きなさいと言われている言葉のように感じた。
(文/林田 真貴子)
田畑先生の投稿
そこに自己を知るという事がある。