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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

讚嘆とは

2022-11-29
金子大榮師
讚嘆とは供養讚嘆の意味で亡き人をご縁に仏法聴聞する事です。
懺悔とは今日迄作り続けた悪業煩悩に振り回されている自己自身を知ることです。
お念仏は無い物ねだりの呪文ではありません。
念仏は自分の口から出てくるものですが、私の計らいを一切超えたものです。
ただ念仏する身になることが真実に生きる事です。

落在者

2022-11-25
Facebook Yasuda Rizinさん曰く
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落ちてないから怖れる。
落ちはしないかとね。
落ちた人間は怖がりはしない。
地獄を背負うて立つ。
地獄が我だというのが落在者です。
そういうものでないとこの資本主義の中にあってしかも資本主義から逃げずに、資本主義を超えて資本主義に随順していく道は無いのです。
それだけのハラがないとね。
人間の考えたハラくらいでは資本主義は破れないのです。

仏を仏たらしめた法というものは

2021-04-21
釈迦仏が発明したのではない。

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


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仏を仏たらしめた法というものは
釈迦仏が発明したのではない。
発明したのなら法とは言わないのです。
釈迦仏が出遇った。
見出した。
作ったのではないのです。
そういう真理がある。
真理といっても理論的な真理という意味ではない。
本来的な真理です。
われわれが忘れていた真理です

自覚するものがあって 自覚しているのではないのです。

2021-04-15
Facebook Yasuda Rizinさん曰く
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鏡がなければ自分を映してみることはできないでしょう。
自分が自分を知っているというのは独断でしょう。
自分に自覚するものがあって
それを自覚すると考えたら
独断になるのです。
自覚するものはないのです。
自覚ということも自覚される。
自覚されるということも自覚していうことである。
自覚するものがあって
自覚しているのではないのです。

曽我先生の『救済と自証』は金子先生がまとめられた。

2021-06-15
Facebook Yasuda Rizinさん曰く
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曽我先生の『救済と自証』は金子先生がまとめられた。
その後に『地上の救主』が出ましたね。
一番はじめに『救済と自証』が出て、だいたい三巻でまとまっています。
生前の全集です。
暁烏さんは「生きているあいだに全集を書くものではない」と言ったけれども、生前の全集ということも成り立ちます。
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