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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

人間として生まれて、しばらくすると自我意識が発達してきます。

2022-01-17

Facebook 畑 正久さん曰く



大分合同新聞医療欄 「今を生きる」第407回
(令和3年8月23日掲載) 医療文化と仏教文化(233)
     人間として生まれて、しばらくすると自我意識が発達してきます。自我意識すなわち「思いの我」が出るのは4,5歳ぐらいでしょうか。その自我は自分の身体を管理支配するかのような振る舞いをします。しかし、それも生身の尽きる前にはなくなります。「思いの我」は主人公のように生きていますが、生物学的には「生きている身」の中の一部分だからです。
     とある自殺の名所があり、そこから道に出てきた男がいたので、村の人が「どうなすったんですか」と聞いたら、その男が「高い木で上で首をくくろうとしたら、枝が折れて落っこちた」と言うのです。それで「大丈夫ですか」と聞いたら、「いや、びっくりした。死ぬかと思った」と。自我は追い詰められて自死しようとしたのでしょう。それなのに、枝が折れて落ちた瞬間にハッと目覚めた。このエピソードには「本当は死ぬ気がないのに死のうとしている」人間の愚かさが歴然と現れています。
     また、某新聞に70代女性の次のような投書がありました。
     私は生まれつき体が弱く、祖父の結核が感染して活発な生徒ではなかった。県立高女を受験したが、結核のために不合格になりました。戦争中、虚弱児と障害児は非国民とさげすまされた。しかし、健康で県立高女に行った友人は,動員された軍需工場で、米機の機銃掃射によって命を失った。
     22歳の時に大量の血を吐いて絶対安静となり、悲観して私は死を決意しました。どの梁(はり)にひもをかけて首をつろうかと天井を眺めていたら、その天井がメラメラと燃え出したのです。私は思わず、ハダシで外へ飛び出した。近所の人が駆けつけてくれて鎮火しました。床に戻って私は考えました。「火事に驚いて逃げ出したのは、本当は生きたかったのだ」と。
     この女性は「生きている身」すなわち「思いの我」を含めた全体の私の本音の心に気付いたのです。多くの因や縁が仮に和合して生かされ、支えられ、願いをかけられて存在する「生きている身」は、自我の分別の善悪、損得、勝ち負けの思いを超えて、現実を受容して生きているのです。

忌中も無ェ!喪中も無ェ!日本仏教の一つ「浄土真宗」の特徴的な思想を解説

2022-01-17

「日本人は無宗教」?油断は禁物

科学技術が発達し、合理主義的な考え方が当たり前の世の中です。しかもそんな中、私たち日本人は常々「無宗教」などと言われており、これだけ見てみると現代の日本人はおよそ宗教的信仰心など持ち合わせていないように感じられますね。

現に、かつては大真面目に信じられていた習慣で、今では「迷信」として退けられているものもたくさんあります。そういう意味では、私たちの中の宗教的信仰心は、昔に比べればだいぶ洗い流されているのでしょう。

しかし、それなのに、身内が亡くなった時の作法だけは今でもきっちり守られます。これも考えてみると不思議なことです。

例えば、身内が亡くなると「喪中」として、いつもと異なるお正月を過ごすのが一般的です。初詣はもちろん、新年の挨拶やおせち料理の内容なども制限されます。これらは、宗教や宗派ごとのルールに基づいています。


さて、ところが普通の宗派とは異なり、浄土真宗では「喪中」「忌中」の概念がなく、行動の制限がないとされています。これは浄土真宗のみに特徴的なことです。

宗教的信仰心が薄まっているからと言って油断していると、こういった宗派ごとの作法の違いを知らずにびっくりしてしまうことがあるかも知れません。浄土真宗ならではの特徴的な教えと作法を、以下で説明していきます。

大法螺

2022-01-17

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


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『大無量寿経』に大法螺を吹くとある。
小さい法螺ぐらいなら人間に吹ける。
けれども大きな法螺といえば人間の能力では吹けないのです。
他力回向でないと大法螺は吹けない。
百尺竿頭一歩を進めるというのでしょう。
竿の先までは登るけれども、竿の上まで登ってそれで終わりなのではない。
それから更にといったら身を翻さなければならない。
境遇の問題
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竿を登ってきたところをさらに跳べと。
こういうのが飛躍、超越です。
なかなかそれは出来るものではない。
超越ということは簡単に言えるものではないのです。
竿の上を超えるのはやはり竪に超える。
竪超です。
横超ではない。
立場、おいてある「ことがら」の問題です。
出来るか出来ないかというようなことは、おいてあることがら、つまり境遇の問題です。
自力の自覚

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こんなひどい自分を、静かに見ることが出来る。
それが自力の自覚でしょう。
人から何か言われることに先立って、ひどくて恐ろしい自分を見ることが出来た。
それに勝る強さはないでしょう。
恐ろしいものは「外」にあるのではない。
自分自身が自分にとっていちばん恐ろしいものなのです。
それを静かに見ることが出来たと。

「思い」自体に罪はない。

2022-01-07
Facebook Yasuda Rizinさん曰く

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「思い」自体に罪はない。
しかし思いを我とすれば、それは我執なのです。
思いは別に人間を誤らせない。
けれども思いを我とすると我執です。
我執は妄想です。
思いが妄想ではないのです。
妄想が人を誤らせる。
ふつう、思いと我執とを区別できないでしょう。
仏教ではこういう意識の分析があるのです。


カントはヒュームという人から教えられたのです。

2022-01-07
Facebook Yasuda Rizinさん曰く

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カントはヒュームという人から教えられたのです。
ヒュームという人はイギリス人です。
イギリスの人というのは非常に経験を大事にする。
それでヒュームの「論」を読んで初めて、カントは独断の夢を覚まされた。
非常に感謝しているのです。
大陸の哲学は独断論だと。
経験を無視していたと。
それは理性の傲慢だと。
そういうものを初めて自覚させられた。
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