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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

自然(じねん)の道理

2020-07-31

736
(易往)無人という意味は、これは面白いことです。易往の道が無くて人が無いというなら、それは無理もないことです、けれども易往なのです。自然(じねん)の世界の中に、つまり無為自然の本願、自然の道理の中に人間は置かれているのです。ただ、置かれていながら、自然の道理に目覚めない。


737
自然(じねん)の道理が、無いのではない。自然の道理の中にありながら、しかもそれに目覚めない。そういう大きな問題です。そこに信仰問題があるわけです。自然の道理も何も無いのに目覚めないというなら、これはえらい気の毒というようなことになるけれども、そうではない。自然の道理の中におりながら、それに目覚めようとしないのです。そこに固執があるでしょう。目覚めさせないのは我執でしょう。主観を手放そうとしないのです。

「易往而無人」の人が無いということ

2020-08-14

749
親鸞は、「易往而無人」の人が無いということを、真実信心の人は有り難いと言うのです。有ることが難いと。人間は易往の大道の本願の中にいるのだけれども、にもかかわらず目覚める人がないと。救いはあるけれども自覚がない。だからそれは非常に稀だと書いてある。

業について

2020-10-27
FacebookRIZIN YASUDA
822
業には共業・不共業ということがありまして、境遇というものは、これは共業なんだ。水は、人間にとっては飲むものですけど、魚にとっては住処ですわね。そうすると鯛にとって住処である場合にはカレイにとっても住処なんだ。それは業が似ておるんです。カレイと鯛という海水に生きる動物という境遇というものが共通しとる。つまり共同に海を感ずる。共同の運命や。運命の共同体だ。

本当と本当が喧嘩して世の中やかましくなっとる

2020-10-11
805
頭から念仏(南無阿弥陀仏)ということを出すと聞いたほうは承知せんです。そうでしょう。それなら頭から題目(南無妙法蓮華経)だというのと同じことやないかね。だから今、わしが本当や、わしこそ本当やいうて、本当と本当が喧嘩して世の中やかましくなっとる

現世利益というものがただ悪いというんじゃないのです。

2020-10-03
798
つまり言ってみれば、今いろいろ出ている現世利益というものがただ悪いというんじゃないのです。それはなにか低いーー悪いというんじゃない。ほんとうの意味の宗教心を閉ざしてしまうんだ、せっかくのね。だから人間が行き詰るというのは、最高の機会なんだ。出直すためのね。それこそ一つの転機。大きな転換期なんだ。つまり王舎城の悲劇というものを個人に引き受けた。そういうような意味になる。
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