今、願正寺では? 【附属】ちょっといい話 & ちょっと気になる絵
今、願正寺では・・・?
これは中々おもしろい・・・。
1592年(文禄元年)蔵入地(豊臣政権下の直轄地)の代官として日田に入封されてきた宮城豊盛によって築かれた。当時日隈山一帯を境内としていた曹洞宗寺院である真光寺を麓に移して築かれ、田島村(現日田市大原八幡宮付近)より、商家や市を竹田村(現日田市隈町付近)に移し、城下町を形成した。
1596年(慶長元年)に毛利高政が2万石(6万石とも)で移封され増築を施し、『豊西記』『豊西説話』によると「五階の天守」と「三階の櫓」が増築され、森春樹の『亀山鈔』によると城下には2重の堀と土塁が廻らされたとある。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いに際し、同年9月16日、石垣原の戦いで木付城に詰める松井康之を救援するために赴いて、豊後立石(大分県杵築市山香町立石)にいた加藤清正は玖珠郡の引治村(大分県玖珠郡九重町引治)にいた家臣の吉村橘左衛門へ、日隈城に対し翌日までに開城するよう要請する書簡を届けるよう指示した。しかし、9月17日石垣原の戦いは徳川方の勝利に終わったため、日隈城攻略は行われることなく加藤勢は熊本へ帰国した。
1600年(慶長5年)9月24日、中津領主であった黒田如水が、重臣の栗山利安を日田に送り込んで、森慶則を中心とする毛利家留守居の家臣が詰める日隈城に開城を迫った。慶則は当時石田毛利方であった佐賀の鍋島直茂家臣宛に支援の書簡を送り、その鍋島氏からの返書は9月26日付で届けられている。その年に毛利氏は城を開け渡し、一時、栗山利安が日隈城に詰めることとなった。
1601年(慶長6年)、小川光氏が月隈山に丸山城を築くと、栗山氏は移封され、城は再び毛利高政の預かりとなり、城代に家老の毛利隼人を送る。 1602年(慶長7年)毛利高政は佐伯に移封となり、城は小川氏の預かりとなる。
1616年(元和2年)以降、江戸幕府発布の一国一城令により廃城。破城は寛永年間とされているが、松平直矩時代の日田陣屋役宅増設の時1683年(貞享元年)、「永山、隈居城…」と城としての残存を伺わせる記述もあるため、実際の破城の経緯は詳らかでない。移築された建物としては、日田陣屋本陣とするために御殿、隈町願正寺山門とするために城門が移築されていたが双方とも現存しない。