闘いの歴史
闘いの記録 (戦争と人間)
戦争をさせない反戦を貫く著名人の言葉画像シリーズ③
◎鎌倉幕府の滅亡
後鳥羽上皇
―後鳥羽上皇 vs 鎌倉北条氏―
- 開催期間:2021年4月6日(火)〜2021年5月23日(日)
104歳の元陸軍兵、地獄の戦場で「命も感情も失った」…姉の死に涙も出ず
太平洋戦争の激戦地だった東部ニューギニア(現パプアニューギニア)で終戦を迎えた104歳の元陸軍兵士が、新型コロナウイルス禍で中断していた体験を語る取り組みを再開させた。長崎県長与町の中野清香(きよか)さん。戦友会で自分以外は全員鬼籍に入った。ロシアによるウクライナ侵略での攻撃が激化する中、「命だけでなく、人間の感情も奪う戦争の悲惨さを伝えたい」との思いを強くしている。(勢島康士朗、後田ひろえ)
16日、市民団体が企画したオンライン講話で、中野さんは自宅から、全国各地で視聴する約40人に向けて体験を語り始めた。1944年夏、日本軍がニューギニア島の米豪連合軍を攻撃し、大敗を喫した「アイタペ作戦」。食糧も弾薬も尽き、犠牲者は約8000人に上ったとされる。
毛虫やイナゴ、カニを生で食べて下痢を繰り返し、栄養失調の戦友が次々と倒れた。苦しさに耐えきれずに自殺する人もいた。倒れた兵士を助け起こす者は誰もいない。中野さんは逃げ込んだ小屋でウジ虫のわいた日本兵の遺体と一晩をともにした。「死臭も何も感じなくなり、『かわいそう』などの喜怒哀楽もなくなっていた」。画面の向こうの人たちに、震える声で明かした。
◇ 鹿児島県薩摩川内市・甑(こしき)島出身。大工だったこともあり、入隊後、道路や橋を造る工兵となった。43年4月、日本から約5000キロ離れたニューギニア島に上陸した。
島に着いて間もなく、輸送船から下船準備中、敵機の機銃掃射を受けた。近くでさく裂する弾をよけて海に飛び込み、泳いで振り返ると船は沈没していた。アメーバ赤痢に感染して40日間、高熱や下痢に苦しんだ。丸腰で偵察中にジャングルで敵と遭遇し、伏せた頭の上を弾がかすめていったこともある。
当時、東部ニューギニアに投入された日本軍兵士約15万人のうち約13万人が犠牲となり、その多くは飢えや病気で命を落とした。「銃弾に当たって死ねるなら本望」とさえ思った。
26歳の頃、「たこつぼ」と呼ばれた1人用の壕(ごう)の中で終戦を知った。たった20発の銃弾を携え、銃を手に敵を待っていた時だった。46年に復員。姉が子ども2人を残して病気で亡くなったが、悲しい気持ちが湧くことはなく、涙も出なかった。毎日のように仲間が死んでいく戦争で感覚がまひしていた。
◇ 戦後は再び大工として働き、90年頃から戦死した仲間を弔いたいと現地を訪ね、慰霊や遺骨収集をするようになった。鉄かぶとをつけたままの頭蓋骨を目にした。頭を貫通した銃弾は鉄かぶと後部にのめり込んでいた。東部ニューギニアでの戦争について調べ、戦友らから手記を集めて記録を作るうち、「戦場で起きたことを伝えていくことが、生き残った者の務めだ」と考えるようになった。
10年ほど前から市民向けに講話をしたり、自宅を訪ねてくる大学生に体験を話したりしてきた。ただ、コロナ禍によって人前で語る機会はほとんどなくなった。昨年末には心筋梗塞(こうそく)を患い、2か月ほどの入院を余儀なくされた。
そんな中、ロシアのウクライナ侵略が始まった。焼け跡となった街並みのニュース映像を見ていると、戦争体験が脳裏によみがえった。「ウクライナの人たちは、かつての自分のように、心が殺されてしまっているのではないか」と胸を痛めた。
通っている高齢者施設で9月、体験を語った。市民団体「戦場体験放映保存の会」(東京)の呼びかけで今月16日のオンライン講話も実現した。
「戦争とは『人間の限界』だ。戦争と平和について多くの人が意識している今こそ、体験を聞くことで戦争がいかに悲惨か知ってほしい」と話す。機会があればこれからも伝え続けるつもりだ。