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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

サラエボ事件、第一次大戦の火種

2020-05-20
Facebook 佐々木信雄さんの投稿

【20世紀の記憶 1914(T3)年】
 

(サラエボ事件)
*6.28/サラエボ オーストリア皇太子夫妻、暗殺される! 大戦の「引き金」をひいた銃声2発。(「サラエボ事件」)
 

 1914年6月28日、「オーストリア=ハンガリー帝国」の皇太子フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィーが、「サラエボ」(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ)を視察中、セルビア人青年によって暗殺された。
 

 ボスニア・ヘルツェゴビナは、オーストリア・ハンガリー帝国に併合されたが、隣国の「セルビア」はかつての領土の回復を目指しており、これに呼応するように、ボスニア内のセルビア人住民にも、オーストリア支配への反発が高まっていた。そんな中、オーストリア皇位継承者フェルディナント大公夫妻がサラエボを訪れることになり、セルビア系の民族主義的な青年グループが暗殺を企てたのだった。
 

 バルカン半島は、古くから諸民族、諸宗教が入り乱れてモザイク状になった複雑な地域で、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた。古代以来のローマ・ラテン系、ギリシャ系に加えて、ゲルマン系、スラブ系が、それぞれさらに細かに分岐した民族に分れて定住し、さらに中世以来「オスマントルコ帝国」が支配し、トルコ人が流れ込んでいた。

 諸民族に重なるようにして、宗教もローマカトリック、ギリシャ正教、ロシア正教、そこへイスラム教が加わり、さらにそれが諸流派に分かれて浸透している。それらの複雑な地域を、オスマン大帝国が束ねる形で支配していたが、その勢力が衰えるに従い、地域内には民族主義が高まり、一部民族は独立を勝ち得ていった。
 

 抗争する諸民族の後には、オスマン帝国の再生を目指す汎トルコ主義のトルコ、汎スラブ主義で南下を目指すロシア、そして西方から拡張をはかるオーストリア=ハンガリー帝国など大国が控えており、それらの力が大きな緊張状態を引き起こしていた。そんな中で、「露土戦争」や三次にわたる「バルカン戦争」などの紛争が頻発し、各国の国境線は頻繁に書き換えられる。そのような一触即発の「火薬庫」でサラエボ事件が火を噴いた。
 

 オーストリア=ハンガリー帝国政府は、セルビア政府に対して宣戦を布告し、これをきっかけとして第一次世界大戦に発展することになる。当時のヨーロッパ列強は複雑な同盟・対立関係の中にあったため、サラエボ事件を契機に、各国の軍部は敵国の侵略に備え総動員を発令した。各国政府は開戦を避けるため力を尽くしたが、戦争の連鎖的発動を止めることができず、瞬く間に世界大戦へと発展した。
 

 サラエボは、東欧共産圏の崩壊と連動して、第二次大戦後に成立した「ユーゴスラビア連邦」が解体される過程でも、深刻な内戦に見舞われた。旧ユーゴスラビアは、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナなどが、ユーゴの中心であったセルビア共和国から分離する独立戦争という形で内戦となった。
 

 中でもセルビア寄りに位置するボスニア・ヘルツェゴビナは、最も大変な内戦を経ることになる。ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年に独立を宣言するが、時の住民約430万人のうち、44%がボシュニャク人(ムスリム人)、33%がセルビア人、17%がクロアチア人と、異なる民族が混在していた。独立を推進するボシュニャク人(ムスリム人)とクロアチア人に対して、1/3を占めるセルビア人は、セルビアに戻って合体することを主張し、「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」と呼ばれた内戦となる。
 

 「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」の悲惨を題材とした映画は、数多く創られた。中でも、ボスニアの女性監督ヤスミラ・ジュバニッチによって描かれた『サラエボの花(2006)』は、最も悲しく,最も悲惨で,そして最も美しい作品と称され、ベルリン国際映画祭金熊賞などいくつもの賞を獲得している。
https://ja.wikipedia.org/…/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%8…
 

〇この年の出来事
*8.15/パナマ 大西洋から太平洋へ、基線が通り抜けた。苦難30年、パナマ運河開通。
*8.23/日 日本、ドイツに対して宣戦布告。
*10.14/南洋諸島 日本軍、ドイツ領南洋諸島を占領し、同盟国イギリスと「山分け」する。
*11.1/日 少年雑誌『少年倶楽部』創刊。発行元は「大日本雄弁会講談社」
*12.18/日 帝都交通の要「東京駅」が開業、ヨーロッパ風の赤煉瓦3階建て。
 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/20170509

20世紀の光と影 北米インディアン最後の戦士ジェロニモ、屈辱と無念の生涯を終える。

2020-05-06
Facebook 佐々木信雄さんの投稿
偽の和睦提案に騙され、投降して捕縛される。以後20年間、虜囚として幽閉され、故郷アリゾナのメキシコ国境へ帰りたいという願いもかなえられず、シル砦で屈辱のうちにその一生を閉じた。

【20世紀の記憶 1909(M42)年】
 

(戦士ジェロニモ)
*2.17/米 北米インディアン最後の戦士ジェロニモ、屈辱と無念の生涯を終える。
 

 白人に対するアメリカ・インディアンの、最後の組織的抵抗を指導したアパッチ族戦士ジェロニモが、オクラホマのシル砦で虜囚として79歳で死去した。
 

 ジェロニモは誤解されるような「酋長」ではなく、シャーマンであり勇猛な戦士の一人であった。彼は、家族を皆殺しにされると復讐に立ち上がり、アパッチ族の戦士たちは、彼個人を慕って尊敬し戦ったのであった。
 

 山岳ゲリラ戦にたけたジェロニモたちは、白人入植者やアメリカ軍を恐れさせたが、偽の和睦提案に騙され、1886年投降して捕縛される。以後20年間、虜囚として幽閉され、故郷アリゾナのメキシコ国境へ帰りたいという願いもかなえられず、シル砦で屈辱のうちにその一生を閉じた。
 

 子供の頃、インディアンといえばアパッチ族で、英雄ジェロニモという図式でインプットされた。当時の西部劇では、インディアンは悪者と決まってたが、ジェロニモだけは英雄として尊重された存在だった。TV映画ライフルマンでなじみのチャック・コナーズがジェロニモ演じている。「酋長」は邦題が勝手に付けたもので、このあたりからジェロニモ酋長という誤解が発生したのかも。
 

〇この年の出来事
*8.18/日米 2000本の桜、「親善大使」としてワシントンに贈られ、ポトマック河畔に移植される。
*11.11/米 アメリカ海軍、ハワイ真珠湾に世界最大の海軍基地を建設へ。
*12.31/米 ニューヨーク・マンハッタン島とブルックリンを結ぶ、マンハッタン橋開通する。たわみ理論による長大吊り橋の先駆となった。
 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/20170415

「坂の上の雲」

2020-07-20
https://www.youtube.com/watch?v=sqhCtr15FQE
原作:司馬遼太郎「坂の上の雲」
音楽:久石譲
朗読:渡辺謙
演奏:NHK交響楽団

東京招魂社を靖國神社と改称

2020-06-05
Facebook 英霊の本日の出来事
 
英霊の本日の出来事
 

明治12年6月4日の本日、東京招魂社を靖國神社と改称致しました。
別格官幣社に列す。

正字による表記は「靖國神社(「靖」の旁の「青」の下部が「月」でなく「円」、「国」は舊字體)」。
神社名にある「靖國」は『春秋左氏伝』第6巻僖公23年秋条の「吾以靖國也(吾以つて國を靖んずるなり)」を典拠として明治天皇が命名したもので、明治12年に改称。
當初の東京招魂社の「招魂社」は「在天の神霊を一時招祭するのみなるや聞こえて万世不易神霊厳在の社號としては妥當を失する」可能性があるために廃されたというが、名称變更後も「招魂祭」は続けられている。
因みに同年6月16日の「社號改称・社格制定ノ祭文」には「赤き直き真心を以て家を忘れ身を擲(なげう)ちて各(おの)も各も死亡(みまかり)にし其(その)高き勲功に依りて大皇國をば安國と知食(しろしめ)すが故に靖國神社と改称(あらためとなえ)」とある。
安来が根の国であるということを暗に示したという説もある。
英語圏では「Yasukuni shrine」と表記されるが、それと並んで「war shrine」(戰爭神社)と表記される場合がある。

「祠官・神職」
招魂社と称された時期には神官・神職の定めは無かった。
例大祭・臨時大祭には卿または将官、招魂式には将官または佐官、その他の祭祀には佐官、尉官が奉仕した。
明治8年以降は例大祭・臨時合祀祭・招魂祭の祭主は舊陸軍と海軍が隔番で務めた。
明治12年の改称列格によって官員の祭主は廃され祭典は宮司が行うこととなった。
同時に宮司1名、禰宜1名、主典4名が法令によって置かれ、昭和13年からは権宮司も置かれることとなった。宮司以下神官の進退は内務省が、増員・増俸は内務省・舊陸海軍の3者協議で行い、実際の管理は主として財政を負担した陸軍省総務局が行った 。
また、社司・社掌は陸軍省第1局の所属であったが、明治20年には閣令第4号により神官を廃して神職(職名)を置き、舊陸海軍が補任することとなった。
昭和21年の官國幣社制(近代社格制度)廃止以後は自主管理なった。

(ウィキペディア参照。)
画像は、東京招魂社。
現靖國神社。

「トモダチ作戦」 の秘話。

2021-06-23
Facebook Yosihiro Turusakiさん

「ジャップ、黄色い猿ども」
かつて日本人をこのようにアメリカ人は蔑んでいました。
東日本大震災直後、アメリカ軍が日本の被災者救助のため行われた
 「トモダチ作戦」の秘話。
2011年3月11日東日本大震災が発生、日本に甚大な被害が発生し、当時自衛隊・警察・消防が必死の救助活動を行っていました。
震災直後、同盟国のアメリカは直ちに、日本への復興支援活動を開始してくれました。
オペレーション・トモダチ「友達作戦」。
震災で孤立する、被災地に多くの救援物資を届けてくれましたが、実はこの裏には70年以上前の一つの物語があったから、こそ「トモダチ作戦」が成功したのでした。
それは大東亜戦争終結の5年後、1950年9月の出来事でした。
戦後の傷跡が残る日本に、一人のアメリカ将校が来日しました。
アメリカ海軍提督「アーレイ・バーク大将」でした。
彼はかつての敵国、日本のラバウル方面海軍最高司令官の草鹿中将が公職追放により、鉄道工事現場でツルハシを持って働き「やっと食べて生きている」という話を耳にし、同じ立場にあった軍人とし居ても立ってもいられなくなり、匿名で食料を送ったのでした。
 すると数日後、草鹿本人が怒鳴り込んで来た。
 「侮辱するな!アメリカ人の世話にはならない!」
それだけ言って出て行った草鹿にバーク大将は、日本人の精神に敬意を払うとともに、バーグ自身も草鹿の立場だったら、同じ事をしたに違いと感じたのです。
朝鮮戦争時、日本の帝国ホテルに宿泊した時、ホテル従業員はバーグの荷物を直ぐに持ち、接待しようとしたのですが、これを拒否していました。
実はバークは筋金入りの日本人嫌いでした。
それは日米戦争によって、バークの親友や部下が命を奪われたからでした。
バークの心には、敵国日本への激しい憎悪感がありました。
そのバークが宿泊した帝国ホテルの部屋は、殺風景な部屋で何の飾りもないものでした。そこで、バークは一輪の花を買ってコップに差したのでした。
ところが、翌日バークが部屋に戻るとコップに差してあった花が、花瓶に移されていました。そこで、バークはホテルに
「何で勝手に花瓶に花を移したのか」
と苦情を訴えたのです。
しかし、ホテル側は分からないという回答でした。
数日後には、その花瓶には新しい花が生けられていました。
花はその後も増え続けは部屋を華やかにしました。
この花を飾ったのは、部屋のメイク係の日本人女性でした。
彼女は乏しい給料の中から花を買いバークの部屋に活けていたのです。
その行為に対しバークがチップを払おうとしたのですが、メイク係は
「お金は受け取れません。私はただお客様に心地よく過ごしていただきたいと思っただけです」
と受け取らなかったのでした。
このメイク係の身上を知ったはバークはさらに驚きました。
戦争未亡人でした。
夫を戦争で失った女性がメイク係としてがアメリカ人を嫌わずその花をいけていたのでした。
しかも、その女性の夫は駆逐艦艦長でした。
ソロモン海戦で戦死されたという話を聞いた、バークは
「ご主人を殺したのは私かもしれない」
とメイク係女性に謝罪しました。
ところが、未亡人の女性はこう述べました。
提督が何もしなかったら、提督が戦死していたでしょう。
提督は何も悪い事はしてはいません。
この時バークは「この違いは何なんだ」と考え、日本人の心意義と礼節を知り、バークは親切には親切に答える、という考えに至りました。
特筆すべきは、バーク氏は一刻も早く、アメリカの日本占領を終わらせ、日本独立をアメリカ政府に働きかけました。
加えて戦後5年には日本の平和を維持するため、日本海軍の再建を説いたのです。
アメリカ国内では当時反日感情高まる中、バークは日本の海上自衛隊の発足に尽力を尽くされ、日本海軍機の旭日旗の使用も認めました。
その後バーク氏はアメリカ海軍作戦部長に就任し、日本に対しアメリカ最新鋭機の哨戒機を提供してくれました。
そのバークの功労に日本は、日本最高位の勲章「勲一等旭日大綬章」を贈りました。
バーク氏は1991年96歳で亡くなりましたが、そのバークのご遺体の胸につけられた勲章は日本から送られた「勲一等旭日大綬章」の勲章だけでした。
それは、バークの遺書によるもので、その遺書には日本への感謝と尊敬が書かれいてたそうです。
そして時は流れ、東日本大震災発生当時たまたま、太平洋沖で演習中のアメリカ海軍部隊が日本支援のため駆けつけてくれたのでした。
アメリカ空母、ロナルド・レーガン艦長が指揮する、作戦には2万4000人の将兵、190機の航空機、24隻の艦艇が直ちに日本震災の救助に向かったのです。
その時の空母、ロナルド・レーガン艦長はトム・バーク大佐でした。あの、日本海自を再建した。バークの孫だったのでした。
そのバーク大佐は何と、艦隊の指揮を副官に任せて、艦長自らが救援物積んだヘリを操縦し日本の避難所を飛びまわりました。
 トム・バーク大佐が見た日本の風景
こんな中、救援物資積んだヘリが着陸しようとすると、世界中では、どんなことが起きるか知っていますか?
食料の奪い合いが起こり、もしかしたら、ヘリへの銃撃も起こります。
しかし、日本では食料の奪い合いは一切なくトム・バーク大佐の操縦するヘリはヘリが着陸しやすいその場所を確保しヘリが着陸すると、被災者が荷下ろしを手伝い、全員が飛び立つヘリにお礼をして見送りました。
正に先人のおかげです。
日本人の礼節によって東日本大震災のトモダチ作戦が成功したのでした。万が一にも、先の大戦で日本が卑怯な振る舞いや戦後、アメリカ軍人に無礼な振る舞いをしていたならば、トモダチ作戦は実現もされませんでした。

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