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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

天皇が「伊藤博文暗殺の一報」を聞いた数日後、思わず漏らした「驚きの一言」

2023-03-04
学術文庫&選書メチエ編集部 の意見

〈この陛下を、お驚かせした事件は、伊藤公がハルピン駅頭で撃たれたとの突然の情操でございました。さすがのお上(編集部注:明治天皇のこと)も、

「ううん、伊藤が殺されたか」

とただお一言、深いため息をおつきになりました〉

この反応はある程度、想像のつくものかもしれません。しかし、興味深いのはこの直後の記述です。

〈そして数日後のお食事中、

「日本につれてこられてから、ただ一人爺や爺やと伊藤ばかりをたよりにしていた朝鮮の坊ちゃんは、さぞ心細いだろう。可哀想にね、いわば人質だから、この間東宮さん(大正天皇)が来た時、これから仲よくして可愛がってあげなさいと、言っておいたけれど」


「朝鮮の坊ちゃん」とは誰か?

ここで言う「朝鮮の坊ちゃん」とは、「大韓帝国最後の皇太子」として知られる、李垠(り・ぎん/イ・ウン)のことであると見られます。

大韓帝国皇帝・高宗の息子として生まれた李垠は、幼少期に伊藤博文の舵取りによって日本を訪れ、そのまま学習院や陸軍士官学校で学びました。日本にとって、大韓帝国に対する「人質」的な立場だったのではないかと考えられています。

1910年の日韓併合を経て、日本の「準皇族」となり、やがて皇族の梨本宮方子と結婚。帝国陸軍では、中将まで務めました。

戦後は、韓国において「対日協力者」として帰国を拒否されたかと思えば、朴正煕政権下では李王家の末裔として厚遇され……と、評価が揺れ動きました。混乱する20世紀の東アジアにおいて数奇な人生を歩んだ人物として知られます。

明治天皇にとって李垠は、いわば「自国が支配している植民地の王族」と言えるわけです。しかし、上記の明治天皇のセリフからは、李垠を見る際のより複雑な含みが伝わってきます。そこからは、明治天皇が置かれた一筋縄ではいかない立場も垣間見えるようです。

ちなみに、明治天皇の頼みをきちんと聞いていたのか、皇太子時代の大正天皇はその後、李垠ととても仲よくなったことが知られています。

伊藤博文と李垠(1907年頃)

李 垠(り ぎん、イ・ウン、朝鮮語이은光武元年(1897年10月20日 - 1970年5月1日)は、
大韓帝国最後の皇太子で、韓国併合後には王世子として日本王族に列し、
1926年には王位を継ぎ「昌徳宮李王垠」と称された。
皇太子時代の称号は英王
王族時代の敬称は「殿下」。
諡号は文仁武莊至孝明暉懿愍皇太子


日本皇太子嘉仁親王(左:後の大正天皇)訪韓時、有栖川宮威仁親王(右)と共に(1907年)
李王家邸(現在の赤坂プリンスクラシックハウス)
「梨本宮伊都子妃が娘の嫁ぎ先を早く決めねばと焦ったのもよく分かる」

 韓国併合後の日本の皇族と朝鮮の王太子との縁談を描いた、林真理子さんの新刊『李王家の縁談』

 明治時代に旧佐賀藩藩主、鍋島直大(なおひろ)の娘として生まれ、19歳で梨本宮守正(もりまさ)王に嫁いだ伊都子(いつこ)は、長女・方子(まさこ)を朝鮮王家に、次女・規子(のりこ)を伯爵家に嫁がせるなど、家柄を重んじた縁談を次々に進め国に尽くした。本作では、彼女の日記を紐解きながら、大韓帝国最後の皇太子・李垠(イウン)と方子の縁談を中心に、大正から戦後までの激動の時代が描かれていく。

 昨年ご結婚された、小室圭さん、眞子さんのように、「やんごとなき」方々の縁談は世間の注目を集めてきた。歴史家の磯田道史さんと、著者の林真理子さんに話を聞いた。(全3回の1回目。#2#3を読む。初出:オール讀物2021年12月号。年齢、肩書等は掲載時のまま)

京都芸大と美術工芸高の移転

2023-02-16
2014年に京都市立芸術大学(京都芸大)の崇仁地区への移転を含む「京都芸大移転整備基本構想」を策定。
京都市立銅駝美術工芸高等学校の移転(校名は「京都市立美術工芸高等学校」に改称予定)も決まり、2018年には「京都市立芸術大学及び京都市立銅駝美術工芸高等学校移転整備基本設計」が策定された。
美術工芸高は鴨川沿いの崇仁小学校のあった場所に新築移転される
崇仁 (京都市)
東九条北河原町の風景(2022年)

崇仁(すうじん)は、京都府京都市の地区名。
崇仁地区」と呼ばれる京都駅の東側の一帯(27.4ヘクタール)で、2020年令和2年)の国勢調査によれば、人口は1380人。平均年齢は53.9歳、高齢化率は38.55パーセントと高齢化が進む。
地名は条坊制により中国風に名付けられた「崇仁坊」に由来する。
長年、差別的な扱いを受けてきた地区として知られ、京都駅に近い好立地ながらも長らく京都の人々から避けられてきた「塩漬け」の土地であったが、京都市立芸術大学の移転計画などを契機に再評価が進んでいる

『忘れてはいけない事、伝えなくてはいけない事もある』

2023-02-15
facebook 北原照久さん曰く
1940年に作られた幻の東京オリンピックの戦車です。
今日の言葉は『忘れてはいけない事、伝えなくてはいけない事もある』 
1940年に作られた幻の東京オリンピックの戦車です。
今日の言葉は 『忘れてはいけない事、伝えなくてはいけない事もある』 このおもちゃができた時代は、戦車にオリンピックのマークを入れても不思議ではなかったのですね。そんな時代が二度と来ないように、世界中に戦争のない時代が来ることを祈りたいです。
【Youtube北原コレクションチャンネルVol.169】でご紹介しています。ぜひ合わせてご覧ください。

『君が為 唯一筋に 空を征く 心の笑顔 誰か知るらむ』

2023-02-11
facebook 北原照久さん曰く
戦時中の広告です。
今日は17歳の特攻隊員の言葉『君が為 唯一筋に 空を征く 心の笑顔 誰か知るらむ』 
戦時中の広告です。
君が為というのは日本のこと、親兄弟など、愛する誰かのことを指していると思います。
そして二度と帰れないけれど、心は笑顔だという気持ちを詩にしたのですね。講演で鹿児島の知覧に行くたびに、今生きているということではなく、生かされていると再認識させられます。
このことを若い世代の人たちに伝えていきたいですね。
まだ知覧に行かれたことのない人は、一度訪れるといいですよ。

真珠湾攻撃78年目の真実 ~日米ソの壮絶スパイ戦争【シリーズ終戦特集①】

2023-01-15
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