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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

解脱が悪いのとちがうんだ、解脱が小さいんだ。

2020-09-22
788
そういうわけで、解脱が悪いのとちがうんだ、解脱が小さいんだ。それで解脱というとなにか逃げるという形になる。そうではなくて、解脱という意味をもっと徹底して、解脱で逃げることからも逃げなきゃいかん(笑)。それが世間に住せず涅槃に住せずという、住するところがないんだというところが、これが仏教の住するところ。逃げ出すというようなのは、解脱が小さい、低いからです。解脱といいながらその中にまだ個人性を含んでおる。

大乗仏教ということ

2020-09-07
安田理深先生のことば
631
真実ばかりあるのは仏教では小乗仏教というのです。
大乗には方便がある。
方便回向ということがある。
大乗仏教の大という字は方便から出てくるのです。
大乗教学というのは方便教学です。
それが非常に大きな特色ではないかね。
小乗は方便がないのです。
小乗は真実しかないから小乗なのです。


632
方便か無いというと真理が痩せ細ってしまうのです。
真実から方便を生み出して、その方便によって真実を成就すると。
そういうときに真実が広がってくるのです。
方便という思想が大乗仏教だと思うのです。
巧方便回向と。
その方便というものを最も純粋な形で示したのが回向です。
巧方便というのは善巧方便
回向です。
善巧方便の働きが回向です。

633
『願生偈』のうしろのほうに五念門というものが述べてあるのです。
智慧、慈悲、方便というようなことがあるのです。
智慧と慈悲と方便です。
普通は智慧と慈悲で終わってしまうのでしょう。
あらゆる教学は智慧と慈悲です。
その智慧と慈悲とにもう一つ、方便というものを加えて、智慧、慈悲、方便と。
これが『浄土論』というものの非常に大事な点ではないかと思います。
普通は慈悲と方便とは一つにして智慧と慈悲で二つだと。
こういうのが普通の考え方です。
そうではないのです。
三門に分けてくるのです。

摂取不捨の利益

2020-07-27

「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」 

           (『歎異抄』第一章)


 この言葉について、佐野明弘師が、「『念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき』如来が成就し衆生が成就する。如来と私を信心で結ぶのではない」と言われた。
 私は、それまで、やはり私がおって、その私のところに「念仏もうさんとおもいたつこころがおこる」と、そういうふうにイメージしていた。佐野先生のこの言葉にふれて、そうではなかったと知らされた。「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」、久遠の昔から迷いに沈み行き場を失ってさ迷い続けてきた自身が、初めて生れ、また、その自身を呼び続けていてくださる如来が、初めて生れるのだった。そのような久遠の時間世界が開かれ、久遠の自己が生れることを、「摂取不捨の利益」と言われていたのだと知らされた。

【住岡夜晃法語】

2020-07-20
洗濯する時に料理はできない
作(な)すことは一事である
しかしその中に動くものは全人格である
念仏一つに生きる
それが全人格の動きである時
我らはそれを救済といい信念とよぶ
 
【住岡夜晃法語】

田畑正久先生のことば

2021-06-03
大分合同新聞医療欄「今を生きる」第395回
大分合同新聞医療欄「今を生きる」第395回
(令和3年2月8日掲載) 医療文化と仏教文化(221)
    人間の幸福を考えるとき「人間存在をどう考えるか」ということが大切になります。
    ある生命倫理学者が医療従事者に「人を人として見ていないような視点がある。そのことを自覚する必要があります」と苦言を呈していました。その理由として、人が人を見る場合の4つの次元を提示しています。(1)「生命」、生物学的視点。(2)「生きている身」、身体を持って具体的に生活する存在。(3)「人生」、生まれる・死ぬことや生きることの意味、存在の意味。(4)「いのち」……生きていることの全体、自我意識が生まれる前から身体は存在し、身体が死んでからも周りに影響している。(死んだ人を)憶念する人がいる限り、その存在がはたらきかけている。
    今、私が生きていることにおいて、生物学的「生命」より「いのち」と周りとの関係(関係存在)の方が圧倒的に大きいことは自我意識の強い現代人でも実感できるでしょう。
    人間存在をどの次元で受けとめているかが対人援助の医学・医療では問われます。
    私自身は現在、療養型病棟の入院患者約50人の担当医をしていますが、患者さんの把握には病歴、日々の身体状況、栄養状態、発熱の有無などの情報を考慮しています。しかし、患者さんの人生観や信条、職業歴、価値観、何を大事にして生きてきたということはほとんど把握できていません。これは生命の部分的な情報によって患者さんを把握している(つもり)ということです。時間外に看護師から入院患者の異常の電話相談を受けた時も、回診時の患者の状態と記憶している個人情報で対応しています。外来診療で長いご縁があった患者や知人の場合は、その人の人生を憶念することはあるのですが、接点の短い患者の日常診療では医療的な情報で間に合わせていますが、「人を人として見ていないような視点がある」と指摘されると、「申し分けない」と自省するしかありません。
    国の進める(人生の最後をどう迎えるかを協議する)「人生会議」の席に、患者や家族の意向を述べる関係者や、幅広く人を人と見る視点、医療従事者とは違った視点で発言してくれる宗教者にも参加して欲しいと願っています。
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