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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

いよいよ実戦に臨みます。

2022-01-22
北アフリカで第5軍麾下の第34師団に編入
Facebook 矢ケ崎 浩一  さん曰く 

訓練で優秀な成績を収め、その実力を認められた日系二世兵士たちは、いよいよ実戦に臨みます。
第442連隊戦闘団(日系二世部隊)3回目です。
 北アフリカで第5軍麾下の第34師団に編入された第100大隊は1943年9月22日イタリアの「むこうずね」に当たるサレルノに上陸します。実は第5軍の先鋒が9月9日に同地に上陸している(アヴァランチ作戦)のですが、ドイツ第10軍と空軍の反撃を受け、上陸は果たしたものの1万人以上(約5%)の大損害を被っていました。第34師団はその増援として同地に上陸したのですが、上陸してからの最初の一週間は、内陸に進撃する主力部隊の後をひたすら追う状況であり、接敵はありませんでした。敵の代わりに自国のマスコミが彼らを追いかけ、「ナチと戦うジャップ」として、大々的に米国内で報道しています。
 彼らが最初の実戦の洗礼を受けたのは29日、サレルノから20キロほど北上したモンテッラという村で、ドイツ軍の待ち伏せを受けます。
 突如隠蔽された陣地からの銃砲撃を受けた大隊の面々は初めての銃撃の洗礼の前に混乱し、各中隊長も退避以外の指示が出せず、完全な釘付け状態になってしまいます。
 最初にその混乱を脱し、反撃に動いたのは第二小隊のヤング・キム隊長(中尉)でした。
 余談ですが、日系二世部隊には同じアジア系として中華系アメリカ人や朝鮮系アメリカ人も将校として配属されていましたが、両者とも自らの先祖の地を日本に併合または侵略されているという複雑な事情から隊を離れるものも多く、キム少尉は朝鮮系将校として最後まで隊に残った日系以外のアジア系アメリカ人でした。
 キム中尉の果敢な指揮の元、第二小隊は戦闘正面を支えきりドイツ軍の第一撃を持ちこたえることに成功します。
 この最初の戦闘での犠牲者は2名。最初の戦死者はジョー・タカタ軍曹でした。彼は隠蔽された機銃陣地を探ろうとして先行し、頭部に銃弾(破片の説あり)を受けたのです。また彼はその勇敢な行動から死後、殊勲十字章を受けており、隊では最初の受勲者となりました。
 その後も最前線で何度も戦闘を経験する中で、彼らが元から持っていた強い戦意と、巧みな夜襲を駆使した浸透戦術により、最初はその実力に懐疑的であったライダー師団長の信頼を徐々に勝ち得ることとなりました。
 しかしその信頼は、同時に彼らが常に最前線で戦うことを意味しており、激しい戦闘の連続から、上陸当初1,300名いた大隊戦力は、12月までに800名にまで減少しています。
 大隊の苦闘はまだ続きます。1943年の年末、彼らはナポリ北方でイタリア半島を東西に横断するドイツ軍の防衛ラインである「グスタフ・ライン」の攻略に当たります。ここではドイツ西方軍集団の主力が地形を生かした頑強な抵抗を続けており、特に大隊が受け持つ西側からローマに通じる回廊部分についてはリーリ峡谷やラピド川といった自然の要害が立ちはだかり、そしてその防衛の中心としてそびえたつのは、標高500mの急峻、モンテ・カッシーノでした。
 連合軍側は大隊の所属する第5軍と第8軍に防衛線を攻撃させて陽動とし、別動隊(第6軍団)を戦線後方のアンツィオに強襲上陸させて「グスタフ・ライン」の突破を企図していました。
 第34師団はラピド川の突破とモンテ・カッシーノの攻略を命じられ、大隊の面々もラピド川の渡河点を目指して前進しますが、そこで彼らが目にしたのは、上流のダム破壊により泥の海となった河川敷の一帯でした。そして、渡河点周辺の木々はすべて伐採されて遮蔽物のない平野となっており、渡河点の手前には鉄条網、そして対岸には巧妙に隠蔽された多数の機銃座と迫撃砲、そして戦車が待ち構えていました。
 河川敷の土手には大量の対人地雷も設置されており、大隊は多大な犠牲を出しながら渡河点に迫ります。陣頭指揮を執っていた大隊長(デューイ少佐)までもが命を落とす激戦の中、作戦開始から2日たった1月26日、煙幕に紛れた大隊の一部が渡河点への到達に成功。因みに渡河に使えるのは帆布製の脆弱な渡河艇しかなく、激しい銃砲撃で艇を破壊され、濁流に流される兵も続出しました。
 2月2日に第一陣の渡河に成功したのは、ジミー・タムラ軍曹率いる30名あまりのみ。劣勢の中、軍曹は部下を叱咤し、必死で支援砲撃を要請。激しい砲爆撃がモンテ・カッシーノの斜面に叩き込まれ、その間を縫って後続の大隊の面々が崖を登っていきます。
 崖の上からの激しい銃撃にさらされながら、すでに弾薬も食料もつきかけていた彼らは、戦死した同僚の弾薬を集めて配布し、飲まず食わずの激戦を繰り広げます。大隊以外の友軍はまだ渡河すらできておらず、孤立無援の中、大隊は奮闘を続けますが、死者が急増する状況の中、渡河から10日間の激闘の末、2月12日に撤退を余儀なくされます。
 泥と寒さの中、自分の足で崖を降りられた兵は、大隊全員の1/3に過ぎませんでした。
 撤退はしたものの、この奮闘に米国内における日系二世兵に対する見方は大幅に変わり、当時の外電では「もし、日系人の忠誠と勇気を疑うものがあれば、そんなヤツとは言葉を交わす必要はない。黙ってケツを蹴飛ばしてやろう。」との文章が掲載されるに至りました。
 米国内では、彼らは敗北したとはみなされず、そしてその奮闘により、日系二世兵は泥の河とともに差別と偏見も乗り越えたのです。
 次回に続きます。

昭和25年頃、東京の浅草にあったヤミ市の食べ物屋

2022-01-16
Yasuharu Miyake カラーなので、妙に生々しい。
昭和25年頃、東京の浅草にあったヤミ市の食べ物屋
(進駐軍のアメリカ兵がカラーで撮影)
「肉  十円  栄養満点」?
後方に「ロック」の文字と花月劇場の建物が見えます。

スパイの妻

2022-01-12

監督 黒沢清 × 主演 蒼井優!映画『スパイの妻』予告編

NHK版

1940年、太平洋戦争前夜の神戸。 貿易商・福原優作(高橋一生)は、妻・聡子(蒼井優)を残し満洲に赴く。 優作はそこで偶然目にした非道な行いを世界に知らしめなければならないと心に決め、行動に移そうとする。 夫の意志を知った聡子は彼の身の安全と2人の幸せのため、これを阻もうとするが… 鬼才・黒沢清が8Kで描く、究極のラブ・サスペンス! 
【出演者】 蒼井優、高橋一生、東出昌大、坂東龍汰、玄理、恒松祐里、みのすけ、笹野高史 
【作】 濱口竜介、野原位、黒沢清 【音楽】 長岡亮介 【監督】 黒沢清

アメリカ陸軍第442連隊戦闘団(日系二世部隊)

2022-01-09
Facebook 矢ケ崎 浩一さん曰く
敵性市民としての排斥や差別を乗り越え、おのれの勇気と血をもって祖国への忠誠を示し、「決して退かぬ」勇猛な戦士として合衆国陸軍最大の武勲(勲章)を挙げた彼等は、自らの勇気ある行動によって「自由と平等」を勝ち取ったといえるでしょう。そのような彼らはいかなる背景の元、どのような経緯をたどってかかる栄光を勝ち取ったのでしょうか。

アメリカ陸軍第442連隊戦闘団(日系二世部隊)です。今年初めの投稿は皆さんよくご存じのネタから行きます。
 1941年12月、突如帝国海軍によって敢行された真珠湾への奇襲攻撃は、当時米国内に29万人ともいわれる日系人の生活を一変させてしまいました。この攻撃により、米国内の日系一世(移民)は敵国人とされ、米国籍をすでに取得している二世も疑惑の目を向けられます。米国内の日系二世の軍属は武装解除の上拘束され、財産の凍結や日本人会役員の逮捕等、日系人への圧力は激化し、ついには米本土西海岸地域からの強制立ち退きなど政府による大規模な排斥にまで発展しました。(一部ですが、実際に日系人が諜報活動を行っていた例もあったことがこの排斥行動を後押ししていた、という事情もありました)
 かかる状況下、一隻の貨客船がハワイを離れ米本土に向かいます。乗船していたのは疎開する米軍人の家族と日系兵士約1,400人。
 実はこの時点で米本土では日系人の強制収容が開始されており、日系人の多いハワイにおいても検討が開始されていました。しかし、ハワイの人口の約40%が日系人という環境と、ハワイの日系人は本土から離れているせいかアメリカへの帰属意識が非常に強く、強制収容の強行は現地の強い反発を招くというハワイ行政部門の意見からハワイの日系人は一部を除き強制収用を免除されていました。しかしながら、ハワイにおける日系軍属の叛乱リスクは否定できない、という考え方から日系二世の将兵は「ハワイ緊急大隊」として再編成され、米本土での駐留を命じられたのです。(体のいい監視とも取れます)
 家族と米国人としての名誉を守るため米本土へ向かう兵士たちに対し、ハワイに残る家族の中には、「家名を傷つけるくらいなら米軍人として死んで戻りなさい。」と涙ながらに送り出す母親もいたそうです。一方、移送される日系二世の将兵たちは、詳しい情報を与えられておらず、米本土に到着するまで「実は強制収容所行きなのではないか。」と疑心暗鬼だったようです。
 そして船から窓を封鎖した列車に乗せられた将兵たちは、4日間の長旅の末、ウィスコンシン州の訓練場、キャンプマッコイに到着、ここで彼らは自分たちが第100歩兵大隊所属であることを知らされます。しかしながら第100歩兵大隊は上級部隊のない独立大隊であり、いわば米陸軍のどこからも引き取ってもらえない孤立した部隊という位置づけでした。
 早く戦場で名誉を挽回したい日系二世の将兵たちは、戦場に立てるかどうかも分からない自らの状態に一度は落胆したものの、訓練でその意思を示すしかないと奮起します。
 また、彼らを率いる上官も優秀でした。大隊長を務めたF・ターナー中佐は、彼らのおかれた立場に理解を示し、若い兵士たちからは「親父」と呼ばれて慕われる人格者であり、厳しい訓練を課しながらも、日系二世兵士達に対し「君らの双肩に家族の将来がかかっているのを忘れるな!」と叱咤し、未だ実戦参加の見通しの立たない部隊のモチベーションをよく保ちました。
 また、日系人の軍人に対する周辺住民や白人将校までもが、当初日系二世兵士に対し不信の目を向け、町でのいざこざや住民からの苦情が続く中でも、ターナー大隊長は根気強く将兵たちの忠誠心の高さをそれらの人々に説いて回り理解を求めます。日系二世の将兵たち自身も子供の時から日本式のしつけと教育を受けており、年長者や女性への紳士的対応や礼儀正しさなどを目にする機会が増えるにつれ、周辺住民の反発も消えていき、最終的には地域のダンスパーティなどの行事にも招待され、また一方でハワイ島民としての快活さも持ち合わせていたことから周辺住民との信頼関係回復に成功しました。
 そしてターナー大隊長の思いに、将兵たちも実績で答えます。
 真冬の訓練場をTシャツ一枚で駆け回り、基礎訓練から実戦訓練まで他部隊を凌ぐ成績を次々たたき出す第100歩兵大隊の闘志と練度は、視察に訪れた米陸軍将校団を毎回驚かせました。一例をあげると重機関銃の展開から射撃開始までのタイムに関し、米陸軍平均が16秒に対し彼らは5秒でやってのけています。
 上記のような優秀な訓練成績を残した彼らに1943年ミシシッピーのキャンプ・シェルビーへの移動が命令されます。
 実戦参加を切望していた将兵たちは一様に落胆を隠せませんでしたが、この移動の背景には、今まで継子扱いだった日系二世兵士を全面的にアピールした志願部隊の設立と実戦への投入が米陸軍内で既に決定していた、という状況がありました。

インド太平洋に安倍晋三が残した「遺産」

2022-01-07
ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト (newsweekjapan.jp)
安倍が提唱した枠組みが情勢改善のカギに KENT NISHIMURA/GETTY IMAGES

<辞任から1年余り。結局、安倍は中国に関しては究極の現実論者だった。バイデンもCPTPPがあることを感謝するだろう>

在職日数が歴代最長を記録した安倍晋三首相が持病を理由に辞任して1年余り。後任の菅義偉も既に退任した。

しかし、安倍が旗振り役を務めた新体制──包括的かつ先進的TPP協定(CPTPP)と日米豪印戦略対話(クアッド)──は今後長期にわたりアジアの地政学的状況を左右しそうだ。

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