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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

普通選挙ということ

2020-10-15
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1928年(s3)】
◎普通選挙と治安維持法
*1928.2.20/ 普通選挙制による初の衆議院選挙が行われる。
*1928.3.15/ 共産党員が全国で一斉検挙される。(三・一五事件)
*1928.6.28/ 治安維持法が改正公布。新天皇の即位の大礼をひかえて、弾圧体制を強化するねらい。
 1925(大14)年、加藤高明内閣は普通選挙法を制定、それまでの納税制限は無しに25歳以上の成人男子に選挙権が与えられた。ただし女性が対象になるのは第二次大戦後の民主化を待たねばならず、普通選挙とは名ばかりだった。
 この1928(昭3)年2月20日に、田中政友会政権のもとで初の普通選挙制衆議院選挙が行われた。その結果、466議席のうち、政友会217、民政党218、新たに無産政党系からは計8名が当選した。選挙中、政府は露骨に野党候補を妨害したが、結果的に与党政友会は過半数を得られず、しかもキャスティング・ボードは新参の無産政党に握られる形になった。
 第一次世界大戦末期ロシアで共産主義ソビエト政権が成立し、国際共産主義拡大の機運が高まる中、普通選挙法下の衆議院選挙でも無産政党の進出が懸念された。そのような危惧のもとに、普通選挙法を成立させた加藤内閣は、同時に治安維持法をも成立させた。
 「国体を変革しおよび私有財産を否認せんとする」結社・運動を禁止する治安維持法では、共産主義者という疑いだけで個人を逮捕・投獄することが可能であった。最初の普通選挙後、社会主義的な政党(無産政党)の活動に危機感を抱いた田中義一内閣は、3月15日、治安維持法違反容疑により全国で一斉検挙を行い、非合法政党の日本共産党、労働農民党などの関係者約1600人が検挙された。(三・一五事件)
 プロレタリア文学の作家、小林多喜二は、この三・一五事件を題材に『一九二八年三月十五日』を発表するも、発売禁止とされる。さらに多喜二は、代表作『蟹工船』などを発表して、プロレタリア文学の旗手として注目を集めたが、その後特高に狙われ治安維持法で逮捕された。『一九二八年』では、特別高等警察による苛酷な拷問の描写が話題になったが、皮肉にも自身がその特高の拷問で殺されることになったのであった。
 4月になると、京都帝国大学の河上肇が、赤色教授として辞職を迫られ退職を余儀なくされる。さらに東京帝大の大森義太郎、九州帝大の石浜知行、向坂逸郎、佐々弘雄らの左翼系学者が、次々と大学を追われることになる。この種の思想弾圧は、軍国化が進むとさらに自由主義系思想にまで進んで行くことになる。
(この年の出来事)
*1928.4.18/ 京都帝大教授川上肇が赤色教授として辞職を迫られる。ほかにも、東京帝大の大森義太郎、九州帝大の向坂逸郎らも、同様に大学を追われる。
*1928.7.1/ 治安維持法の改正をうけて、内務省保安課が拡充強化され、未設置だった各県警察にも「特別高等科(特高)」が設置される。
*1928.9.-/ 英の細菌学者アレグザンダー・フレミングが、アオカビから細菌の繁殖を止める抗生物質「ペニシリン」を発見、結核など伝染病治療に画期的な効果をもたらす。
*1928.10.8/ 北伐に成功した蒋介石が、南京を首都とする国民政府の首席に就任する。
*1928.10.12/ 松竹楽劇部が設立され、第1期生として水の江滝子らが入部、浅草に本格的なレビューが誕生する。32年からは「松竹少女歌劇部(SSK)」となる。
*1928.11.10/ 新天皇裕仁(昭和天皇)の「即位の大礼」が、京都御所紫宸殿で行われる。

群雄割拠といえば勇ましいが・・・。

2020-10-15
まとまりきれないという混乱、混沌は、他国の干渉、侵略を招いた・・・
Facebook佐々木信雄さんの投稿

ここから始まりました。

2020-10-15
嘘がその発端でした。
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1928年(s3)】
◎張作霖爆殺事件
*1928.5.3/ 山東省へ出兵した日本軍が、国民革命軍と衝突。8日、済南総攻撃を開始し、11日には済南城を占領する。(済南事件)
*1928.6.4/ 奉天に引き揚げる途中の張作霖を乗せた列車が関東軍によって爆破される。(張作霖爆殺事件)
 1928年3月、蒋介石が北伐を再開すると、日本も山東省の権益維持のため、中国各地から山東省に部隊を派遣し、日本軍と北伐軍が対峙することになった(第二次山東出兵)。その後5月3日には、北伐軍兵士による略奪・暴行・陵辱・殺人事件がひき起こされ、さらに日本人9人の惨殺死体が発見されると、日本は関東軍からさらなる増派することになる(第三次山東出兵)。
 5月8日、日本軍は市内の日本人保護のために済南城を攻撃、北伐軍を城外へ追い出すとともに、済南城ならびに済南全域を占領した(済南事件)。この事件で中国側軍民に数千人の死者をだすなど、蒋介石の北伐軍は日本軍に対する遺恨をもち、一方で日本の民間人惨殺などから、日本世論の中国に対する感情は悪化した。
 山東出兵では田中内閣の不干渉主義にそって、かろうじて拡大を自重した軍も、関東州の日本軍は政府方針を無視し、満州で実力を維持する奉天軍閥の張作霖を、奉天近郊で列車ごと爆殺する事件を起こした。日本政府は犯人を伏せて「満洲某重大事件」と呼んでいたが、関東軍参謀河本大佐などが計画的に実行した陰謀事件であることが明らかになっている。
 張作霖は、中華民国総統となった袁世凱が死去すると、武力で黒竜江省・吉林省も含めた東三省全域を勢力圏に置き、「満洲の覇者」として君臨ようになっていた。北伐を進める蒋介石の国民党軍とも対峙したが、関東軍は満州支配に邪魔になると考え、北伐軍との戦闘をやめて奉天へ帰還する途上の張作霖の列車を爆破させた。
 この後、関東軍は、柳条湖事件、盧溝橋事件などで暴走を進め、満州事変、日中戦争と大陸にのめりこんでゆく主導的役割を果たすことになった。
(この年の出来事)
*1928.4.18/ 京都帝大教授川上肇が赤色教授として辞職を迫られる。ほかにも、東京帝大の大森義太郎、九州帝大の向坂逸郎らも、同様に大学を追われる。
*1928.7.1/ 治安維持法の改正をうけて、内務省保安課が拡充強化され、未設置だった各県警察にも「特別高等科(特高)」が設置される。
*1928.9.-/ 英の細菌学者アレグザンダー・フレミングが、アオカビから細菌の繁殖を止める抗生物質「ペニシリン」を発見、結核など伝染病治療に画期的な効果をもたらす。
*1928.10.8/ 北伐に成功した蒋介石が、南京を首都とする国民政府の首席に就任する。
*1928.10.12/ 松竹楽劇部が設立され、第1期生として水の江滝子らが入部、浅草に本格的なレビューが誕生する。32年からは「松竹少女歌劇部(SSK)」となる。
*1928.11.10/ 新天皇裕仁(昭和天皇)の「即位の大礼」が、京都御所紫宸殿で行われる。

朴烈大逆事件

2020-10-13
朝鮮人の組織的暴動など懸念した官憲は、無政府主義者 朴烈とその愛人 金子文子を、治安警察法に基づく「予防検束」の名目で検挙した。
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【20th Century Chronicle 1926年(t15/s1)】
◎朴烈大逆事件
*1926.3.25/ 大審院が、朴烈・金子文子夫妻に大逆罪で死刑を宣告する。(4.5 無期懲役に減刑)(朴烈事件/朴烈・文子事件)
*1926.7.23/ 栃木刑務所で服役中の金子文子が、獄中で自殺する。
*1926.7.29/ 大逆罪で服役中の朴烈・金子文子夫妻が睦み合う怪写真が出回り、若槻内閣の責任が問われる。配布した北一輝が検挙される。
 1923年9月1日関東大震災直後の混乱の下、流言飛語が飛び交う中で多くの朝鮮人が、民衆による私刑で殺されたとされる。また、戒厳令が敷かれた震災後の混乱に乗じて、憲兵大尉 甘粕正彦らによってアナーキスト大杉栄・伊藤野枝らが殺される事件(大杉事件)が起こされたりしたが、一方で朝鮮人の組織的暴動など懸念した官憲は、無政府主義者 朴烈(パク・ヨル/ぼく・れつ)とその愛人 金子文子を、治安警察法に基づく「予防検束」の名目で検挙した。
 当初警察当局は、朝鮮民族主義と反日運動に拘わってきた朴が、朝鮮人暴動や爆弾テロを画策したとして逮捕したが、起訴段階で二人の容疑は皇室暗殺を計画したという「大逆罪」に切り替えられた。しかし実際にテロが画策された証拠はほとんどなく、大審院での朴と金子の証言や言動のみに基づいて有罪とされた。
 事件は政治・警察的な思惑からでっち上げられた側面が多い。当初は、朝鮮人暴動計画があったということで、震災直後の朝鮮人殺害に対する批判への収拾策とする意図があったが、さらには、朝鮮独立運動家や社会主義者らへの威圧・弾圧を目的として、起訴容疑を大逆罪に切り替えられることとなった。
 朴烈は、「朝鮮民族独立の英雄」としての名声を得て死ぬ事を良しとしたのか、積極的に大逆計画を認める証言をし、金子も皇室を狙ったような発言をしたため、1926年3月25日両者に死刑判決が下された。しかし続く4月5日には天皇の慈悲と言う名目で恩赦が出され、共に無期懲役に減刑された。しかし両人ともに特赦に激怒し、これを拒否する意志を表明したとされる。
 判決後の7月22日、刑務所に拘置されていた金子文子は自殺(縊死)したと発表されたが、死亡の経緯は不明のままとなった。しかもその直後の7月29日、朴と文子が睦みあっている怪写真が報道関係に公開され、世論は騒然とわき立った。第1次若槻内閣の転覆を計画する北一輝の意向を受けて、西田税が入手・公開したものと言われるが、この写真が政争の具となり議会は空転した。しかし、写真の撮影時が加藤高明内閣時の1925年5月2日であったことなどが判明し、若槻内閣は倒閣を免れた。
 無期懲役刑となった朴烈は、1945年の終戦を迎えるまで刑務所に収容され、解放後には、日本本土や独立後の韓国で政治活動に加わったが、朝鮮戦争中に北朝鮮軍に拘束されスパイ罪で処刑されたとされる。
 金子文子の死後、救援活動をしていた人物の手元に残された文子の原稿などをまとめ、歌集と自伝が刊行されたが、歌集は発禁処分となった。その悲惨な成長期の境遇や、自力で学習し大正期日本の数少ない女性社会主義思想家として成長する姿など、社会思想家だけでなく女権拡張家などにも注目される存在となった。
(この年の出来事)
*1926.8.29/ スウェーデンでの第2回国際女子陸上競技会に単身参加した人見絹江が、個人総合で優勝する。
*1926.6.1/ アメリカ独立150周年を記念して、フィラデルフィアで壮大な万国博が開催され、7万台収容の広大な駐車場が自動車時代を象徴した。
*1926.6.10/ アール・ヌーボーの巨人アントニオ・ガウディ、建築中のサグラダ・ファミリアを残し死去する。
*1926.7.1/ 蒋介石ひきいる国民政府軍が、中国統一のため北伐を開始。
*1926.12.3/ 改造社が「現代日本文学全集」の刊行を開始。円本ブームおこる(1冊1円)。

ある女優の戦前・戦中・戦後・・・、そして43歳の時、突如としてスクーンから消えた。

2020-10-13
原節子という生き方
1935年です。
ゲッペルスと、伯林にて・・・。
「青い山脈」
伯林で彼女を迎えたのは、この方でした。
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