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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

清朝最強の皇帝

2023-11-12
その方は乾隆帝です。
清高宗乾隆帝朝服像
若い頃とお歳を召されてからの頃
乾隆帝(けんりゅうてい)は、の第6代皇帝。清王朝の最盛期を創出する。弘暦(こうれき)、廟号高宗(こうそう)。在世時の元号乾隆を取って乾隆帝と呼ばれる。

清高宗乾隆帝朝服像(ジュゼッペ・カスティリオーネ画、北京故宮博物院蔵)
イエズス会宣教師、ジュゼッペ・カスティリオーネによる乾隆帝肖像画
即位直後の乾隆帝(ジュゼッペ・カスティリオーネ画、1736年)
儀礼用甲冑を着けた乾隆帝(カスティリオーネ画、1758年)
乾隆帝(カスティリオーネ画)
晩年の乾隆帝(北京故宮博物院蔵)

エルサレム攻防

2023-11-09
神殿の丘を頂くエルサレムは、イスラム教徒・ユダヤ教徒・パレスチナ・キリスト教徒の聖地!!
アメリカの国内事情、クリントンの和平工作を潰せ!! 福音派の暗躍(ネオコンの利用)!!
和平の道を模索するフラファトは邪魔だ!! アッバス体制への舵取り・・・。
エルサレムをわが手に、イスラエルの悲願!!

何処に行くのだろう・・・か?

2023-11-04
創価学会婦人部のいまは?(時事通信フォト) © NEWSポストセブン 提供
【公明党最強の集票組織】創価学会婦人部

公明党の得票力の源となってきたのが創価学会婦人部(現・女性部)だ。自民党が依存し、時に振り回されてきた最強の集票組織である。自公の協力関係が揺らぐなか、「最強組織」の内実にノンフィクション作家の広野真嗣氏が迫る。【前後編の前編。後編を読む


 公明党の得票力の源となってきたのが創価学会婦人部(現・女性部)だ。自民党が依存し、時に振り回されてきた最強の集票組織である。自公の協力関係が揺らぐなか、「最強組織」の内実にノンフィクション作家の広野真嗣氏が迫る。
【前後編の後編。前編から読む

最期の切り札は最悪の選択、もう引き返せなっていました。

2023-10-19
第177号 学徒出陣
1943年(昭和18年)10月27日 秋雨煙る明治神宮外苑競技場。
全日本学徒が多年(音声中断)、武技を練り、(音声中断)技を競ったこの聖域に、10月21日朝まだき、出陣学徒壮行の式典、厳かに挙行(音声中断)。 大君に召されて戦いの庭に出で立つ若人。今日こそは省みなくてはるかに宮城を遙拝(ようはい)し奉る。 「東條内閣総理大臣閣下に対して敬礼、頭、中、直れ。」 
〈東條内閣総理大臣〉 「御国の若人たる諸君が勇躍学窓より、征途に就き、祖先の遺風を昂揚し、仇なす敵を撃滅をして皇運を扶翼し奉るの日は今日(こんにち)来たのであります。大東亜十億の民を、道義に基づいてその本然の姿に復帰せしむるために壮途に上るの日は今日(こんにち)来たのであります。私は衷心より諸君のこの門出を御祝い申し上げる次第であります。もとよリ、敵米英におきましても、諸君と同じく幾多の若き学徒が戦場に立っておるのであります。諸君は彼等と戦場に相対(あいたい)し、気魄(きはく)においても戦闘力においても必ずや彼等を圧倒すべきことを私は深く信じて疑わんのであります。」 
〈学生〉 「学徒出陣の勅令、公布せらる。予(か)ねて愛国の衷情を僅かに学園の内外にのみ、迸(ほとば)しめ得たりし生(せい)らは、ここに優渥(ゆうあく)なる聖旨を奉体して、勇躍軍務に従うを得るに至れるなり。豈(あに)、感奮興起せざらんや。生ら今や、見敵必殺の銃剣をひっ提げ、積年忍苦の精進研鑚を挙げて悉(ことごと)くこの光栄ある重任に捧げ、挺身以て頑敵を撃滅せん。生らもとより生還を期せず。誓って皇恩の万一に報い奉り、必ず各位の御期待に背かざらんとす。決意の一端を開陳し、以て答辞となす。昭和18年10月21日、出陣学徒代表。」 
〈東條内閣総理大臣〉 「諸君のめでたき征途にのぼれるところの第一歩にあたりまして、諸君とともに聖上の万歳を心の底から三唱いたしたいと思います。天皇陛下、万歳、万歳、万歳。」
【4Kカラー】学徒出陣 "出陣学徒壮行会"
第二次世界大戦終盤の1943年に兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍する20歳以上の文科系学生を在学途中で徴兵し出征させたことである。
日本国内の学生だけでなく、当時日本国籍であった台湾人や朝鮮人、満州国や日本軍占領地、日系二世の学生も対象とされた。
学徒動員と表記されることもある。
第1回学徒兵入隊を前にした1943年10月21日、東京の明治神宮外苑競技場では文部省学校報国団本部の主催による出陣学徒壮行会が開かれ、東條英機首相、岡部長景文相らの出席のもと関東地方の入隊学生を中心に7万人が集まった。

日本の戦後、すべてはここから始まった。

2023-10-19
そして、今(2023年)とその端緒
【日本語字幕】松岡洋右 国際連盟脱退演説 "我が代表堂々退場す
1933年2月24日、国際連盟特別総会においてリットン報告について審議され、最終的な同意確認において、賛成42票、反対1票、棄権1票、投票不参加1国であり、国際連盟規約15条4項および6項についての条件が成立した。この表決および同意確認直後、席上で松岡洋右日本全権は「もはや日本政府は連盟と協力する努力の限界に達した」と表明し、立場を明確にして総会会場を退去した。
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