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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

この先生は偉い人だと思ったのです。

2022-06-09

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1383
私はいつか金子先生と話をしていて、
この先生は偉い人だと思ったのです。
私は学生時代、
金子先生から唯識の講義を聞いたのです。
その金子先生が私に
「あなたは学生時代からずっと唯識の教学を学んでこられたが
   私も長い間唯識を学んできました。
   しかし自分のものにならないのです」と。
こういう具合にえらく正直な先生です。
私に唯識を講義してくれた先生です。
仏教で「学」、「学ぶ」というのは、
1382
仏教で「学」、「学ぶ」というのは、
世間では学のある人が偉い人だ、
学のない者はつまらない者だというけれども、
仏教ではそうではない。
学が無いということは
学する必要が無いということです。
それを阿羅漢という。
「無学」というのが阿羅漢です。
「有学」というのは学ばねばならない者をいう。
学者といったら我々が学者なのです。
世間と逆でしょう。
本当の、学ぶということが聞法なのです。
1385
たいてい皆、先生になってしまう。
そうでしょう。
私は金子先生に大変親しみがあるのですが、
そう聞かれて「自分は学生ですから」と言ったら、
金子先生が
「いや、学生と発音するから低いようですけれども、
ゆゆしき学生〔がくしょう〕というものがありますからね」と言われた(笑)。
私に唯識を教えた人が、
教えた学生に「あなたの境地は」と、
こういうことを聞くというのは、
えらい先生ではないかね
1387
ある人が皮肉を言ったのです。
曽我先生はそう言っておられますけれども、
先生の話を聞いて
みな分からないから眠っているでないですかと、
誰かが曽我先生に注意した。
そうしたら曽我先生は
「そうではない、みな感動して聞いているのですよ」と(笑)
1388
それから私らの学生時代、曽我先生が名古屋へ布教に行かれた。
そしたら先生が演台に立った瞬間に「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」と、前に座っている連中が声を出して念仏し出した。
すると先生、「まだ早い」と(笑)。
それは、有り難くなるために来ているのです。
有り難くなりたいから来ている。
本当に聞法していないのです。
救われたいのではない、有り難くなりたいのです。
皆、ほとんどそうではないですか。
「まだ早い」と言ったのです、曽我先生は。おもしろいでしょう(笑)

研究会

2022-06-07

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1381

それ以上のことが人間に言えるかね。
「私はこういただいている」と。
それが全部です。
「オマエもこういただけ」という権利は人間には無い。
そういう、出来ないことをやっているのが説教です(笑)。
おそろしいことを始めたものです。
こういう会は、研究会ですから説教は無いでしょう。
語る方が声が届くようにちょっと高くしてあるだけです。
よく聞こえるためにです。
研究会です

仁者

2022-06-04

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1379
釈尊が弟子に対しては「汝」と言わない。
「仁者」でしょう。
これは敬称です。
だから釈尊は人間としておられたのです。
我々も人間だが、
釈尊も人間の形をとっておられたわけです。
人間が人間に対しては、
先生と弟子であっても「あなた」と言うしかない。
どちらも独立者なのですから。
「汝」というのは、
真理が人間に対して言うのです。
1380
真理が、人間に対して、「汝」と。
生きている者と生きている者との間ではそういうことは出来ない。
「あなた」と言うしかない。
だから、
仏教を信じたというのはどういうことかというと、
「人に教える」ということは言えないのです。
説教ということはないのです。
「私はこういただいた」と。
それしか言えないのではないかね。

「親鸞」というのは、見破られた名なのです。

2022-06-02

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1375
真理に触れたら隠れる場所が無いのです。
天親菩薩は我信ずると。
「世尊我一心」と。
親鸞の場合は「親鸞」と、実名を挙げている。
愚禿親鸞と。
「私」とは言わないでしょう。
「私」というのは代名詞です。
「親鸞」は実名でしょう。
こういうところに
外国語に負けてない日本語があるのではないかね。
つまり言ってみれば、
「親鸞」というのは、見破られた名なのです。

親鸞という実名

2022-06-01

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1376
実名というのは代名詞ではないでしょう。
代名詞ならなんぼでも隠れることが出来るわね。
そうではない。
「親鸞」と言うときにはもう隠れる場所が無いと。
本願の中に見出された人間の自覚を「親鸞」と言ってある。
人間が本願を持っているのなら、
なんぼでも観想が許されるけれど、
そうではない。
本願の中に見出された自己です。
これは代名詞ではきかない。
実名なのです。
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