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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

覚りというのは

2022-03-14

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1301
覚りというのは、
迷っている人間に対して
迷っているやつは勝手にせいというのではない。
迷っている人間を助けるために、覚り、
つまり真実自身が、
自分が、迷った人間にならなければならないと。
それで「悲願」というのです。
真実が自分自身で真実を隠して人間に妥協する。
あえて堕落するのです。
それが悲願です。

「自の業識(迷いの主体)を内因として、父母の精血を外縁として、因縁和合して私は生まれた」

2022-03-06
Facebook舩橋哲成さん曰く · 光顔巍巍とは、まさにこのお姿。

Facebook田畑 正久さん曰く


誕生日のお祝いメッセージをありがとうございます。
     「自の業識(迷いの主体)を内因として、父母の精血を外縁として、因縁和合して私は生まれた」との善導大師の受け取りがうなずけるのです。客観的な事実で証明する世界ではなく仏の無量光に照らされる自分の「在り様」への頷きから知らされる世界でしょうか。
     年と共に身体・精神など能力的にはあちこちにほころびを確実に自覚させられます。しかし、仏法の受けとめは遅々としてですが、師や先輩方の受けとめに「そうだな」と得心する世界を頂いています。南無阿弥陀仏の縦糸をいただき、毎日毎日、私の現実(人生とは取り返しのつかない決断の連続である)の横糸を織り込んで行く歩みを続けて行きたいものです。南無阿弥陀仏
皆さんのメーッセイジを読み、下記、梶原師の衆生世間の内容を「そうだな」頷いています。
私の在り様(存在の事実、在り様)……「器世間と衆生世間」:梶原敬一
    私達は、世間の中を生きるだけでなく、私達は世間を生きている。世間には器世間と衆生世間がある。この二つがあります。世間というのは、私達が生きている関係を表すのです。
器世間といったら山であったり川であったり自然のもの、水であったり空気であったり、私達が生きているその環境を表すのです。衆生世間というにはそこで生きて出遇っている命と命の関係です。様々な命との出遇いを衆生世間と言う。それを生きているのです。
    それはただ生きているのではなくて、受用しているのです。受用は「じゅゆう」と読む。この用という字は「ゆう」と「よう」の二つの読み方がありますね。「よう」という時には「もちいる」という。用事をするとかの「よう」ですけど、この「ゆう」というときには、用(はたら)きです。作用という時にこの字を書くでしょう。用事でなくて、作用(さよう)と読みます。けどこれは用(はたら)きの事です。受用(じゅゆう)というと、用(はたら)きを受けることを表すのです。
     こういう世間を生きる事を受用(じゅゆう)すると。どういう事かと言うと、水を飲んだり空気を吸ったりしてそのことが、私自身の身体を作っていくということ。私が生きていることは様々なものを外からのあらゆるものを受け取ってそれを自分自身の命として形としてそこに生きているということを受用(じゅゆう)と言います。それだけじゃない。ものを見たり、音を聞いたり、様々な声を聞いたり、外とのやり取り、関係を生きたりしてそれが私自身を作っているということを受用(じゅゆう)という。
    だから生きるというのは世間を生きるというふうに言いますけれども、決して勝手に生きているわけじゃなくて、世間によって作られている私。そのことによって顕かにされたものは、私自身が私というだけではなくて、この世界と命を分け持ちながら生きているという事に外なりません。さらに言えば、器世間として言われている分だけじゃなくて、衆生世間として言われて人と人との関係の中であっても、自分と繋がって生きている人も皆私です。
     その人達からの用(はたら)きを「此処」の「今」というところに結びつけていくものこそが「私の身」という事です。私に身がある。この身が命というものの形をとっていますけど、この身は世間として表現されるものが、私というものに用いて一つとなった。その時に世間が身になるのです。世間が私という身を作っていくために、私そのものに用(はたら)かなければならない。
そこに世間と身と備える者が如来だというのです。如来とは何かというと、いつもいつもいのちといのちの間につながりを持たせるもの、関係を作らせるものが如来なのです。如来というのは面白い言葉でして、如より来ると書きますけど、それを如より衆生に来るというふうに言うのです。私より先にあって、何かあるということ。(福乗寺法話会記録、2012年、講題「いのちのゆくえ」より)

生きた言葉

2022-02-26

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1286
「教科書になる」のが仏教の死です。
それで
聖典というものを非常に大事にするのは
教科書でないからです。
生きた言葉なのです。
われわれを目覚ましめ、
われわれに自己を回復させる言葉なのです。
言葉というものは、
生きたものなのです。
教科書ではないのです。
仏教が死ぬのは
ぜんぶ教科書になった場合です。

1400年目の御祥月命日

2022-02-22

Facebook 松崎 督さん曰く

1400年目の御祥月命日に合掌。
貴方のご尽力や苦悩なくして、この国に念仏の教えも、他の諸宗も興隆することはなかったでしょう。
残念ながら、奈良や大阪で行われた昨年の1400年忌展示会も、本山や法隆寺での御遠忌も馳せ参じることは叶いませんでしたが、いつかはささやかながら、手勤めで御遠忌を厳修させていただきます。
聖徳太子様の御恩徳の深さに、あらためて南無阿弥陀仏。

真実と方便

2022-02-19

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1279
観経というものは、
親鸞から見ると
方便を通して真実を表わしてあると。
しかし
方便にもいろいろな意味があって、
方便という言葉も一義的ではないのです。
真実と方便というけれども、
その位取りによっては
真実を説かれた教えでも
法性法身からみれば方便なのです。
阿弥陀仏が本願を発されたということ自身が
もう方便なのです。
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