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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

ものを言わなかったら

2022-05-27

Yasuda Rizinさん曰く


1372
前に、明晰かつ判明ということを言ったでしょう。
ギリシャの文化というか、あるいはインドの文化というか。
つまりもっと言えばアーリアの文化です。
アーリア人の伝統でしょう。
明晰にしてかつ判明ということを要求する。
暗示的なことは要求しないのです。
だからあちらではものを言わなかったら
意見が無いということになるのです。

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1373
こちらの、例えば腹でものを言うと。
「腹芸」といったことは外国では通じない。
日本の政治でもなんでもみな腹芸でやるから分からない。
闇取引というのは腹芸です。
そうでしょう。
だからソクラテスでも明晰かつ判明という定義を要求する。
宗教でも、宗教の定義を言ってみよと。
そう要求してくるのです。
その時に、明晰というのは夜が明けたこと。
それが明晰です。

「前念命終、後念即生」に通じる言葉ですね

2022-05-24

田畑 正久さん曰く


「死ぬ前から死んでいる人は、死ぬ時には死なないという教えが西洋にはあるが、鈴木大拙先生はまさにそのようなお方でした。」(鈴木大拙の葬儀の時のスウエ―デン駐日大使の言葉)
浄土真宗の「前念命終、後念即生」に通じる言葉ですね

真理に触れて闇が去るのです。

2022-05-22

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1367
闇を払ってそれから真理に触れるのではないのです。
真理に触れて闇が去るのです。
闇を払うというと、力を入れて闇を抑えなければならないでしょう。
力を入れなければならないのは、闇に力があると思っているからではないかね。
本当に力があるものは妄想ではない。
真理ではないかね。
それが妄想なら、真理にあえば、満足して消えるはずでしょう。

見ということ

2022-05-18

Facebook Yasuda Rizinさん曰く

 

1363

それまでは真理は見ないけれども真理を想うのです。
けれど真理は、想われた真理ではない。
真理そのものというときに「見」という字が使われる。
つまり、見、現です。
真理そのものです。
われわれが考えた真理ではない。
われわれ人間に出来るのは、考えた真理です。
つまりれは心に思いを浮かべた真理です。
それは『観無量寿経』の「観想」でしょう。

否定と肯定は一緒なのです。

2022-05-17

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1362

千年の闇だから闇を破るのに千年かかるというのではない。
マッチ一本で千年の闇が破れる。
マッチ一本が「否定」なのです。
それが「肯定」です。
否定と肯定は一緒なのです。
マッチ一本です。
「死して生きる」ということが出来れば問題はない。
それは死して真理に生きたのではないのです。
真理に触れたから死ぬことが出来たと。
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