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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

恵信尼消息

2022-06-05

Facebook 小栗洋慶さん曰く


親鸞聖人がご往生11/28ー亡くなられて通夜葬儀荼毘収骨を終えた、娘覚信尼さまは12/1母上がいます越後へ手紙を出す。その娘の手紙は12/20に親鸞さまの妻であり、覚信尼の母である恵信尼様のもとに届く。厳冬雪深き越後国ゆえ、その後京への便もなかったろう。年が明けて2/10心待ちにしていた京への便がでるという。どうしても娘に伝えておかねばならぬことがある。82歳の老女は急いで、夫親鸞さまの3つの逸話を書き記す。何度も読み直し、何十年も昔の「にき(日記)」まで調べなおして訂正し正確に事実を伝えようとする。現代の82歳ではない760ン年前の82歳の老女にとっては大仕事だったろう。

【いまはかかる人にてわたらせたまひけりとも、御心ばかりにもおぼしめせ】

ここしばらくずっと、このお言葉が頭をよぎる。いま確かめておかなければ、きっと忘れ去ってしまうだろう。最近はとみに記憶力が低下してチグハグやテレコに記憶しているか全く忘れているか。それはそれで良いのかも知れないが、少しでもご恩を偲ぶよすがを…との思い南無南無

現代語版聖典」
「この文を書き記してお送りするのは、聖人が生きておられた頃
には、いっても仕方のないことと思っていましたが、今となっては、
このようなお方であったということも、せめてあなたのお心にとど
めていただこうと思って、書き記してお送りします。字の上手な人
にきれいに書かせて、お持ちになってください。
 また、聖人のあの絵像一幅が欲しいと思います。あなたがまだ
幼くて八歳であった歳の四月十四日より、聖人がひどい風邪をお
ひきになった時のことなどを書き記しました。

 わたしは今年で八十二歳になりました。一昨年の十一月から去
年の五月までは、今か今かと死ぬ時を待っていましたが、今日まで
生きています。けれども今年の飢饉では、飢え死にしてしまうかも
しれないと思っています。このようにそちらへ手紙を差しあげるの
に、一緒に何もお送りすることができないのはもどかしくてなりま
せんが、どうすることもできません。
 益方殿にも、この手紙の内容を同じようにお伝えください。もの
を書くのも大変ですので、改めての手紙は差しあげません。
 「弘長三年」
  二月十日

恵信尼消息 2
 この文を書きしるしてまゐらせ候ふも、生きさせたまひて候ひしほどは、申しても要候はねば申さず候ひしかど、いまはかかる人にてわたらせたまひけりとも、御心ばかりにもおぼしめせとて、しるしてまゐらせ候ふなり。よく書き候はん人によく書かせてもちまゐらせたまふべし。
 またあの御影の一幅、ほしく思ひまゐらせ候ふなり。幼く、御身の八つにておはしまし候ひし年の四月十四日より、かぜ大事におはしまし候ひしときのことどもを書きしるして候ふなり

この先生は偉い人だと思ったのです。

2022-06-09

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1383
私はいつか金子先生と話をしていて、
この先生は偉い人だと思ったのです。
私は学生時代、
金子先生から唯識の講義を聞いたのです。
その金子先生が私に
「あなたは学生時代からずっと唯識の教学を学んでこられたが
   私も長い間唯識を学んできました。
   しかし自分のものにならないのです」と。
こういう具合にえらく正直な先生です。
私に唯識を講義してくれた先生です。
仏教で「学」、「学ぶ」というのは、
1382
仏教で「学」、「学ぶ」というのは、
世間では学のある人が偉い人だ、
学のない者はつまらない者だというけれども、
仏教ではそうではない。
学が無いということは
学する必要が無いということです。
それを阿羅漢という。
「無学」というのが阿羅漢です。
「有学」というのは学ばねばならない者をいう。
学者といったら我々が学者なのです。
世間と逆でしょう。
本当の、学ぶということが聞法なのです。
1385
たいてい皆、先生になってしまう。
そうでしょう。
私は金子先生に大変親しみがあるのですが、
そう聞かれて「自分は学生ですから」と言ったら、
金子先生が
「いや、学生と発音するから低いようですけれども、
ゆゆしき学生〔がくしょう〕というものがありますからね」と言われた(笑)。
私に唯識を教えた人が、
教えた学生に「あなたの境地は」と、
こういうことを聞くというのは、
えらい先生ではないかね
1387
ある人が皮肉を言ったのです。
曽我先生はそう言っておられますけれども、
先生の話を聞いて
みな分からないから眠っているでないですかと、
誰かが曽我先生に注意した。
そうしたら曽我先生は
「そうではない、みな感動して聞いているのですよ」と(笑)
1388
それから私らの学生時代、曽我先生が名古屋へ布教に行かれた。
そしたら先生が演台に立った瞬間に「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」と、前に座っている連中が声を出して念仏し出した。
すると先生、「まだ早い」と(笑)。
それは、有り難くなるために来ているのです。
有り難くなりたいから来ている。
本当に聞法していないのです。
救われたいのではない、有り難くなりたいのです。
皆、ほとんどそうではないですか。
「まだ早い」と言ったのです、曽我先生は。おもしろいでしょう(笑)

研究会

2022-06-07

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1381

それ以上のことが人間に言えるかね。
「私はこういただいている」と。
それが全部です。
「オマエもこういただけ」という権利は人間には無い。
そういう、出来ないことをやっているのが説教です(笑)。
おそろしいことを始めたものです。
こういう会は、研究会ですから説教は無いでしょう。
語る方が声が届くようにちょっと高くしてあるだけです。
よく聞こえるためにです。
研究会です

仁者

2022-06-04

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1379
釈尊が弟子に対しては「汝」と言わない。
「仁者」でしょう。
これは敬称です。
だから釈尊は人間としておられたのです。
我々も人間だが、
釈尊も人間の形をとっておられたわけです。
人間が人間に対しては、
先生と弟子であっても「あなた」と言うしかない。
どちらも独立者なのですから。
「汝」というのは、
真理が人間に対して言うのです。
1380
真理が、人間に対して、「汝」と。
生きている者と生きている者との間ではそういうことは出来ない。
「あなた」と言うしかない。
だから、
仏教を信じたというのはどういうことかというと、
「人に教える」ということは言えないのです。
説教ということはないのです。
「私はこういただいた」と。
それしか言えないのではないかね。

「親鸞」というのは、見破られた名なのです。

2022-06-02

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1375
真理に触れたら隠れる場所が無いのです。
天親菩薩は我信ずると。
「世尊我一心」と。
親鸞の場合は「親鸞」と、実名を挙げている。
愚禿親鸞と。
「私」とは言わないでしょう。
「私」というのは代名詞です。
「親鸞」は実名でしょう。
こういうところに
外国語に負けてない日本語があるのではないかね。
つまり言ってみれば、
「親鸞」というのは、見破られた名なのです。
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