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闘いの歴史

闘いの記録

B-17Gの機首先端下にある12.7mm 2門のガンタレット

2021-01-22
B-17は強固な防弾装備と多くの防御火器で身を固めていたため、零戦20ミリ機銃ですら効き目は薄く、撃墜は困難であった。
防御火器は試作機で機銃5丁、後期型のG型では実に13丁の12.7 mm M2機関銃を装備していた。 

アメリカの欧州参戦後はアメリカ陸軍の主力爆撃機として活躍し、主にイギリスを基地とした対ドイツへの昼間爆撃に従事した。だが、イギリスで兵力を蓄積しはじめた1942年はトーチ作戦(およびその後の北アフリカの作戦)が開始され、そのために戦力を抽出されてしまったため、ヨーロッパでの本格的な爆撃作戦は実施できなかった。そして戦局が連合軍側優位に傾き、さらに兵力の蓄積が進んだ1943年から昼間爆撃が本格化、フランスへの近距離爆撃で経験を積んでからドイツ本土への爆撃にも出撃するようになった。護衛戦闘機の航続距離が充分でなかった1943年頃まではドイツの迎撃戦闘機により多数の(時には10%を越える)損害が出ていたが、B-17の編隊はコンバット・ボックスで濃密な防御砲火の弾幕を張り、ドイツ戦闘機隊の攻撃を妨害するどころか逆に撃墜することもしばしばだった。ドイツ軍では最も火力が少ない正面からの一撃離脱戦法やFw190による「突撃飛行隊」の編成などで一定の戦果を上げたが、機銃と防御性能の強化により効果が減じられ、1944年以降はB/C型からD型に改良されたP-51マスタングをはじめとする高性能な戦闘機が護衛として随伴すると接近すら難しくなり、B-17の損害は一気に減少した。

また4発機のB-17は頑丈で優れた安定性を持つ機体でもあるため、エンジンの一つや二つが止まっても機体や翼が穴だらけになってもイギリスまで帰ってきたものが多数あった。ドイツ本土への侵攻では、撃墜されてしまうとそれだけ多くの搭乗員を失ってしまうため(脱出しても捕虜になってしまうため)、機体そのものはボロボロになっても貴重な人材を連れ帰ることができるという点は非常に重要だった。そのような特徴は多くの搭乗員に愛され、「空の女王」という異名も授かっている。

以上の特徴から、おもに都市への夜間爆撃を担当したイギリス軍ランカスター爆撃機以上に、ドイツの継戦能力を削ぐ立役者となった。なお、B-17とランカスターの米英2大爆撃機は第二次世界大戦中に各々約60万トンの爆弾を投下した(B-29が日本へ投弾した量は約17万トン)。

ヨーロッパ戦線に投入されたこちらは、独裁者の野望を打ち砕きました。

2021-01-22
飛行するB-17G-35-DL 42-107112(奥) B-17G-70-BO 43-37675(中央) (第532爆撃編隊所属、1944年撮影)
B-17は、エンジンの排気でタービンを回して高空の希薄な空気を十分な密度に圧縮してエンジンに送り込む排気タービン過給器(ターボチャージャー)によって、良好な高高度性能を備えていた
欧州戦線で編隊を組むB-17F
爆撃を行うB-17Gの編隊

元祖は、日本本土を焼き払いました。

2021-01-22
飛行するB-29A-30-BN 42-94106号機 (第472爆撃航空団所属、1945年撮影)
飛行するB-29A-30-BN 42-94106号機 (第472爆撃航空団所属、1945年撮影)
先制アタックは、こちらでした。

只今の最先端です。

2021-01-22
AGM-158巡航ミサイルを投下するB-2 スピリット

戦略爆撃機(せんりゃくばくげきき)は、両戦力が直接衝突する戦場から離れた、敵国領土占領地などを目標にし、工場油田などの生産施設、住宅地商業地を破壊して敵国民士気、さらには生産力そのものである国民の殲滅を目的とする重爆撃機で、初期の大量破壊兵器といえる。

戦力同士の攻防戦に用いられる戦術爆撃とは本質的に異なり、第二次大戦後は爆撃機といえば戦略爆撃機となった感があるが、さらに冷戦時代の戦闘攻撃機戦術核兵器の運用により、戦略爆撃と戦術爆撃の区別が難しくなった。 さらに湾岸戦争における巡航ミサイル、今世紀の『テロとの戦い』での無人爆撃機による遠隔殺戮にいたり、戦術・戦略機の明確な区別はなくなったと見られている。

コンセプトは長距離で高速、核搭載も可能  

2021-01-22


 B-52は長距離を飛べる大型爆撃機として開発され、1952(昭和27)年に初飛行しました。米ソ冷戦時代には先制攻撃や報復攻撃のために、核爆弾を搭載して常時上空待機を行いました。

そして初の実戦参加はベトナム戦争でした。1965(昭和40)年から開始された、いわゆる「北爆」で絨毯爆撃を行うB-52は、ベトナム戦争を象徴するシーンとしてよく知られています。その後、インド洋にあるアメリカ軍の基地、ディエゴ・ガルシア島(イギリス領)を拠点として、湾岸戦争やアフガニスタン、イラク戦争に参加しています。

 B-52以降も、後継機種として様々な戦略爆撃機が開発されます。高速で高高度から核攻撃を行う超音速爆撃機が開発されましたが、アメリカ本土から直接攻撃が可能な大陸弾道ミサイル(ICBM)の配備や敵国の防空ミサイル網の発達により、そのコンセプトは失われます。

 やがて1986(昭和61)年には可変翼の超音速爆撃機B-1、1997(平成9)年には全翼機のステルス爆撃機B-2と、それぞれコンセプトの異なる戦略爆撃機が配備され、B-52と共にアメリカ空軍を支える戦略爆撃機として活躍しています。



闘いの転機

明治宮殿は、1945年(昭和20年)5月25日の空襲で全焼しました。

2021-01-27
明治宮殿は和風木造(御所造り)で、広さ5800坪。屋根には銅瓦がふいてありました。
建物は「奥宮殿」「中段」「表宮殿」の3エリアに分かれていました。

明治宮殿は和風木造(御所造り)で、広さ5800坪。屋根には銅瓦がふいてありました。

2021-01-27
「奥宮殿」はプライベートな生活の場、「中段」は天皇が政務を行う御学問所、内謁見所、侍従たちの詰所があり、「表宮殿」が宮中儀礼のための場所でした。
明治宮殿の憲法発布式
枢密院憲法会議
建物は「奥宮殿」「中段」「表宮殿」の3エリアに分かれていました。
奥宮殿
豊明殿
豊明殿内部
正殿
正殿内部
車寄せ

昭和19年1月26日の本日、東京・名古屋で初の建物疎開。

2021-01-26
Facebook英霊の本日の出来事

昭和19年1月26日の本日、東京・名古屋で初の建物疎開。
日本において當時の人の多くは家屋疎開とも呼んでいた。
空襲により火災が發生した際に重要施設への延焼を防ぐ目的で、防火地帯(防空緑地・防空空地)を設ける為に、計画した防火帯にかかる建築物を撤去する事である。
跡地は、人々の避難先や復舊時のゴミ・資材置き場として役に立ったが、投下された焼夷弾の数が多量だったため、本来の目的である防火帯としての役割はあまり果たさなかったと言われている。
一部の地域では「爆弾が天井に引っ掛かるので、天井板は無くした方が良い」といった説が流れ、残された住宅の天井板だけを撤去する事も行われた。
都市空襲の場合、投下された焼夷弾が屋根を貫通した後に天井板で止まり發火する場合が多く、それを防ぐには有効であったと思われるが、工業地帯等に投下された爆弾の重量は平均500kg~1tであり、薄い木製の天井板の有無で影響を受けるとは考えられない。
建物疎開にあたっては、行政機關がその候補を選定し、選ばれた家屋はほぼ強制的に撤去されたため、當時は「強制疎開」とよばれた。
建物疎開は終戰直前まで行われており、本土決戰に備えて人口2万人以上の小都市でも実施され、全國で約61万戸の建物が除却された。
また、建物の除却には移転補償の給付がなされたが、敷地に關しては買収形態のものと借地形態のものの両方が存在した。
建物の取り壊し作業は軍が破壊作業を行った後に付近住民などが撤去作業を行うという手順が一般的であった。
瓦礫の撤去に携わったのは主に國民學校高等科(12歳~14歳)の生徒(授業の一環として取り入れられていた)や、女性を中心とした「勤労奉仕隊」、病気などで徴兵對象から除外されていた男性などであった。
廣島へ原爆が投下された當時も廣島市内では既に数千人の學童を含む人々が屋外で建物疎開の作業に従事していた。
當日も彼らは既に作業を始めており、炸裂した原爆による被害を受けることとなった。
建物疎開の後は戰後そのまま道路になった場合が多く、代表的な例では横浜市の根岸疎開道路(馬場町~原町間)など数か所、廣島市の平和大通り、京都市の御池通の左京區川端御池から中京区堀川御池間、大阪市道の上新庄生野線の東成區玉津3丁目から生野區林寺2丁目間、都市計画道路難波片江線の生野區鶴橋2丁目付近などがある。
特に横濱のそれらと大阪市道豊里矢田線は地元住民から「疎開道路」と呼ばれている。
(ウィキペディア参照。)

自殺的戦死 山本五十六海軍元帥(1884年4月4日~1943年4月18日ブーゲンビル島上空で戦死)

2021-01-25
Facebook橋本 新さんより ラバウル基地での最後の写真。この後「海軍甲事件」アメリカ軍作戦名ヴェンジェンス作戦がおきる

俘虜記

2021-01-23
Facebook湯浅 宗浩  真珠湾攻撃で初めての日本軍人捕虜となった酒巻和夫氏のトヨタ自動車勤務時代。 昭和31年
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