闘いの歴史
闘いの記録
B-17Gの機首先端下にある12.7mm 2門のガンタレット
アメリカの欧州参戦後はアメリカ陸軍の主力爆撃機として活躍し、主にイギリスを基地とした対ドイツへの昼間爆撃に従事した。だが、イギリスで兵力を蓄積しはじめた1942年はトーチ作戦(およびその後の北アフリカの作戦)が開始され、そのために戦力を抽出されてしまったため、ヨーロッパでの本格的な爆撃作戦は実施できなかった。そして戦局が連合軍側優位に傾き、さらに兵力の蓄積が進んだ1943年から昼間爆撃が本格化、フランスへの近距離爆撃で経験を積んでからドイツ本土への爆撃にも出撃するようになった。護衛戦闘機の航続距離が充分でなかった1943年頃まではドイツの迎撃戦闘機により多数の(時には10%を越える)損害が出ていたが、B-17の編隊はコンバット・ボックスで濃密な防御砲火の弾幕を張り、ドイツ戦闘機隊の攻撃を妨害するどころか逆に撃墜することもしばしばだった。ドイツ軍では最も火力が少ない正面からの一撃離脱戦法やFw190による「突撃飛行隊」の編成などで一定の戦果を上げたが、機銃と防御性能の強化により効果が減じられ、1944年以降はB/C型からD型に改良されたP-51マスタングをはじめとする高性能な戦闘機が護衛として随伴すると接近すら難しくなり、B-17の損害は一気に減少した。
また4発機のB-17は頑丈で優れた安定性を持つ機体でもあるため、エンジンの一つや二つが止まっても機体や翼が穴だらけになってもイギリスまで帰ってきたものが多数あった。ドイツ本土への侵攻では、撃墜されてしまうとそれだけ多くの搭乗員を失ってしまうため(脱出しても捕虜になってしまうため)、機体そのものはボロボロになっても貴重な人材を連れ帰ることができるという点は非常に重要だった。そのような特徴は多くの搭乗員に愛され、「空の女王」という異名も授かっている。
以上の特徴から、おもに都市への夜間爆撃を担当したイギリス軍のランカスター爆撃機以上に、ドイツの継戦能力を削ぐ立役者となった。なお、B-17とランカスターの米英2大爆撃機は第二次世界大戦中に各々約60万トンの爆弾を投下した(B-29が日本へ投弾した量は約17万トン)。
ヨーロッパ戦線に投入されたこちらは、独裁者の野望を打ち砕きました。
元祖は、日本本土を焼き払いました。
只今の最先端です。
戦略爆撃機(せんりゃくばくげきき)は、両戦力が直接衝突する戦場から離れた、敵国領土や占領地などを目標にし、工場や港、油田などの生産施設、住宅地や商業地を破壊して敵国民の士気、さらには生産力そのものである国民の殲滅を目的とする重爆撃機で、初期の大量破壊兵器といえる。
戦力同士の攻防戦に用いられる戦術爆撃とは本質的に異なり、第二次大戦後は爆撃機といえば戦略爆撃機となった感があるが、さらに冷戦時代の戦闘攻撃機と戦術核兵器の運用により、戦略爆撃と戦術爆撃の区別が難しくなった。 さらに湾岸戦争における巡航ミサイル、今世紀の『テロとの戦い』での無人爆撃機による遠隔殺戮にいたり、戦術・戦略機の明確な区別はなくなったと見られている。
コンセプトは長距離で高速、核搭載も可能
B-52は長距離を飛べる大型爆撃機として開発され、1952(昭和27)年に初飛行しました。米ソ冷戦時代には先制攻撃や報復攻撃のために、核爆弾を搭載して常時上空待機を行いました。
そして初の実戦参加はベトナム戦争でした。1965(昭和40)年から開始された、いわゆる「北爆」で絨毯爆撃を行うB-52は、ベトナム戦争を象徴するシーンとしてよく知られています。その後、インド洋にあるアメリカ軍の基地、ディエゴ・ガルシア島(イギリス領)を拠点として、湾岸戦争やアフガニスタン、イラク戦争に参加しています。
B-52以降も、後継機種として様々な戦略爆撃機が開発されます。高速で高高度から核攻撃を行う超音速爆撃機が開発されましたが、アメリカ本土から直接攻撃が可能な大陸弾道ミサイル(ICBM)の配備や敵国の防空ミサイル網の発達により、そのコンセプトは失われます。
やがて1986(昭和61)年には可変翼の超音速爆撃機B-1、1997(平成9)年には全翼機のステルス爆撃機B-2と、それぞれコンセプトの異なる戦略爆撃機が配備され、B-52と共にアメリカ空軍を支える戦略爆撃機として活躍しています。