本文へ移動

闘いの歴史

闘いの記録

海軍です。

2020-10-22
局地戦は、海軍で!
B29の真下に潜lり込めればですが・・・。
中島 J1N 月光 (昭和14年 - 昭和20年) ---
- 全長 : 12.13 m
- 全高 : 4.56 m
- 全幅 : 17 m
- 空虚重量 : 4 480 kg
- 最大離陸重量 : 8 184 kg
- 最大速度 : 507.4 km/h

陸軍です。

2020-10-21
中島 キ84 四式戦闘機 疾風 (昭和17年 - 昭和20年) ---
- 全長 : 9.92 m
- 全高 : 3.39 m
- 全幅 : 11.2 m
- 空虚重量 : 2 660 kg
- 最大離陸重量 : 4 170 kg
- 最大速度 : 682 km/h

陸軍です。

2020-10-19
因みに、帝国皇軍には、空軍は存在しませんでした。
加藤隼戦闘隊の搭乗機です。
 中島 キ43 一式戦闘機 隼 (昭和14年 - 昭和20年) 
- 全長 : 8.92 m
- 全高 : 3.27 m
- 全幅 : 10.84 m
- 空虚重量 : 1 910 kg
- 最大離陸重量 : 2 925 kg
- 最大速度 : 530 km/h

零戦

2020-10-18
FacebookHiroshi Hosonoさんの投稿より
零式艦上戦闘機。日本海軍が1940年から1945年にかけて運用していた戦闘機です。開発は三菱重工業。連合国側からはゼロファイター、ジーク(Zeke)とも呼ばれていました。投入された太平洋戦争勃発前の日中戦争(支那事変)から太平洋戦争初期にかけ、3,000 kmの長大な航続距離・20mm機関砲2門の重武装・優れた運動性能で、米英の戦闘機に対し優勢でしたが、大戦中期以降は、アメリカ陸海軍の対零戦戦法の確立、F4UコルセアやF6Fヘルキャットなど新鋭戦闘機の投入で劣勢となりました。しかし後継機「烈風」の開発が遅れたことにより終戦まで日本海軍航空隊の主力でした。
 開発は1937年(昭和12年)10月5日に海軍から提示された「十二試艦上戦闘機計画要求書」に端を発します。十二試艦戦は、主力艦同士の砲撃戦を有利に進めるため、敵の弾着観測機を追い払うことが主な任務と想定されていました。日本海軍は要求仕様として高度4000mで速力270ノット(時速500km)、巡航速度で6時間以上滞空できる航続力、強力な20mm機銃の搭載などを挙げ、三菱重工業も持てる技術力をすべて投入し、それを実現しました。十二試艦戦は試作機のまま実戦に投入され、その実力を証明すると、1940(昭和15)年7月に零式艦上戦闘機として制式採用。太平洋戦争の敗戦までに1万機余りが製造され、日本の航空機史上、最大の生産機数を記録しました 。
 特に、日中戦争及び太平洋戦争前半はその運動性能と航続距離を生かし、敵戦闘機を圧倒したといわれます。操縦性もいいことから初級者にも扱いやすい機体でした。しかし、戦争半ばになると、米軍のF6FやF4U、P-38やP-47などが登場したほか、後継機の開発は致命的なまでに遅延しました。零戦自体も改良を重ねたものの装甲の薄さや、エンジンの出力限界にともなう速力不足、搭乗員の技量低下、工作精度の著しい悪化、それによる稼働率低下などもあいまって、戦闘機として急速に色褪せていきました。また一部の機体が米軍に鹵獲されたことによって機体特性が明らかになり、弱点を徹底的に突かれる戦い方が浸透したことが大きな原因でもありました。米軍は日本陸海軍に比して、こういった新戦術を誰でも分かるよう、様々なマニュアルで浸透させることが巧みであり、日本軍はソフトウェアの側面でも大幅に劣後していたのです。しかしF6Fヘルキャット等、敵新型機に全く通用しないわけではなく、1945年2月の関東防空戦では改めて零戦の格闘能力の脅威が報告されました。ポートダーウィン戦(1942年2月19日)ではイギリス軍のスピットファイアを一蹴もしています。
 マリアナ沖海戦(1944年6月19日〜20日)ではレーダーにより管制された多数の戦闘機と新兵器近接信管(VT信管)(ただし近年ではこの海戦でのVT信管の効果は疑問視されている)を配備した対空砲(VT信管使用率20%)に阻まれ大きな戦果がなく、アメリカ軍に占領されたマリアナ諸島などから日本本土に襲来する新型爆撃機、ボーイングB-29の迎撃戦においては零戦の高高度性能不足で撃墜困難のため、他の戦闘機で迎撃がほとんどでした。登場時こそ高性能を誇った零戦でしたが、後継機の開発が順調に進んだ陸軍に比べ、海軍は後継機の開発がうまくいかず、零戦は終戦まで主力機として使用され、性能でもアメリカやイギリスの新鋭機に敵わなくなりました。ちなみに後継機として「烈風」が開発中でした。もっとも開発はエンジンの選定や開発チームメンバーの病気なども相まって戦時中には間に合わず、水上戦闘機から改造された局地戦闘機である「紫電改」などが後継機の代替とされました。
 日本の降伏による終戦に伴い、残存していた零戦のほとんどは破棄されましたが、破壊を免れた機体やレプリカが、日本やアメリカの各地の航空博物館や基地などで見る事ができます。一部には現在も飛行可能なレプリカもあります。

戦争と平和のモニュメントだそうです。

2020-10-17
Facebook戦艦ミズーリ記念館の投稿です。
浮かぶ戦艦ミズーリと沈んだままの戦艦アリゾナin 真珠湾

闘いの転機

思いは届きませんでした。

2020-10-22
Facebook佐々木信雄さんの投稿
 思想的深まりもなく、事後の明確な運営方針もなく、全体を統率するリーダーもなく、一時の心意気と義憤だけに突き動かされた「維新」などは成功するべくもなく、昭和天皇の怒りのもとに鎮圧された。非公開・弁護人なし・上告なしの特設軍法会議において、わずか約2ヵ月の審理で主謀者の安藤輝三、栗原安秀、村中孝次、磯部浅一ら青年将校17名に死刑の判決、民間の北一輝とその弟子西田税らは別の裁判で翌年に死刑が宣告された。

軍靴の音が、帝都に響きました。

2020-10-22
昭和維新決行は、お上の激昂される事態となりました、
Facebook佐々木信雄さんの投稿

【20th Century Chronicle 1936年(s11)】

◎二・二六事件
*1936.2.26/ 陸軍皇道派青年将校が約1400名の兵を率い、首相・陸相官邸、内大臣私邸、警視庁、東京朝日新聞などを襲撃する。(2・26事件)
*1936.2.29/ 戒厳司令部がラジオで「兵に告ぐ」を放送、反乱事件が収束へ。
*1936.7.5/ 東京軍法会議で2・26事件に判決。17名に死刑、5名に無期禁固。12日、15名に死刑執行。
 

 1936(昭11)年2月26日未明、日本の陸軍皇道派の青年将校らは天皇親政を求めて、1400名にわたる下士官兵を率いて決起する。彼らが指揮する部隊は各方面を分担し、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監、牧野伸顕前内大臣を襲撃、総理大臣官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞社を占拠した。
 

 決起青年将校らは陸軍首脳に「昭和維新」の断行を迫り、天皇の承認を信じて陛下の御聖断を要請したが、側近らを襲撃され統帥権を犯された昭和天皇は激怒し武力鎮圧を命じた。政府は翌日27日未明に戒厳令を布告、蜂起部隊を反乱軍と規定し降伏を迫り、29日からは「兵に告ぐ」のラジオ放送を始め、アドバルーンや宣伝ビラを繰り出して帰順勧告が開始された。やがて投降が始まり、最強硬派安藤輝三大尉の自決未遂を最後に全員投降、4日間に及んだ反乱クーデターは鎮圧された。
 

 事件の背景には、統制経済による高度国防国家への改造を計画した陸軍の中央幕僚たち(統制派)と、政財界の堕落した特権階級を排除し天皇親政の実現を図る革新派の青年将校ら(皇道派)の対立があったと言われる。これには、陸大卒の軍幕僚キャリア組と、士官学校から下士官というノンキャリア組の対立構造を見ることもできる。
 

 陸軍中枢は、皇軍派青年将校の動きを危険思想として監視させており、1934(昭9)年11月、クーデタ-を企図したとして皇道派の村中孝次大尉や磯部浅一主計を逮捕した(陸軍士官学校事件)。さらに翌年7月、皇道派がリーダーとする真崎甚三郎教育総監が罷免され、皇道派と統制派との反目は度を深めた。これらの遺恨から、統制派の中心人物とされた永田鉄山陸軍省軍務局長が皇道派の相沢三郎中佐に斬殺される事件が起こる(相沢事件)。
 

 これらの事件を受け、皇道派排除の流れに危機を感じる青年将校らは、「蹶起趣意書」をしたためクーデターを実行しようとするが、そのリーダーとなると特定しがたい。士官学校事件で軍現役から排除された村中や磯部は、真崎甚三郎大将や川島陸軍大臣を訪れ担ぎ出すことを意図したが、ともに言を左右して曖昧な態度を示した。
 

 青年将校らが属する東京の師団歩兵部隊第1師団の満州への派遣が決まると、青年将校らは決起すべきタイミングが来たと考えた。彼らの思想的指導者とされる北一輝や西田税も、時期尚早と考えていたようであり、実際に決起した将校の中には、彼らの思想的影響を受けたものは意外に少なかったとされる。結局、村中や磯部が、現役である野中四郎大尉、安藤輝三大尉、栗原安秀中尉などと申し合わせて決行したことになる。
 

 思想的深まりもなく、事後の明確な運営方針もなく、全体を統率するリーダーもなく、一時の心意気と義憤だけに突き動かされた「維新」などは成功するべくもなく、昭和天皇の怒りのもとに鎮圧された。非公開・弁護人なし・上告なしの特設軍法会議において、わずか約2ヵ月の審理で主謀者の安藤輝三、栗原安秀、村中孝次、磯部浅一ら青年将校17名に死刑の判決、民間の北一輝とその弟子西田税らは別の裁判で翌年に死刑が宣告された。
 

 その後、粛軍の名のもとに皇道派を蹴落とし主導権を握った統制派は、永田鉄山亡き後の統制派を牛耳った東条英機に率いられ、日中戦争を開始し、日本はファシズムへの道を本格的にたどることになった。
 

(この年の出来事)
*1936.2.5/ 全日本職業野球連盟が結成され、東京巨人軍など7チームが加盟する。 
*1936.3.9/ 広田弘毅内閣が、陸軍の介入で難航の末に成立。
*1936.5.18/ 内閣が陸・海軍大臣現役武官制を復活、これにより陸・海軍の意向で組閣が難航する。
*1936.11.7/ 帝国議会議事堂(現国会議事堂)が落成する。

戦後は、お上の人間宣言で始まりました。

2020-10-21
15歳の上皇様
Facebook永井由紀夫さんの投稿
初々しさを残しつつも、すっと背筋を伸ばしたたたずまいからは気品が漂う。
学生服姿で写真左に立つのは、皇太子時代の上皇様。1949(昭和24年)4月2~4日、初めて岡山県を訪問された際のひとこまだ。
当時15歳。
学習院中等科卒業後の春休みを利用し、岡山、広島県など山陽路を巡った。

戦後という時代の始まりは、再び銃を手にすることでした。

2020-10-21
6.9 防衛庁設置法と自衛隊法(防衛2法)が公布され、7月1日、陸海空の自衛隊が発足する。
Facebook佐々木信雄さんの投稿
『Get Back! 50's / 1954年(s29)』
◎陸海空自衛隊が発足
○6.9 防衛庁設置法と自衛隊法(防衛2法)が公布され、7月1日、陸海空の自衛隊が発足する。
 日本を占領した連合国軍は、当初日本の軍事力を完全に無力化する予定であった。しかしソ連が核保有国となり冷戦構造が顕著になるとともに、大陸では中国人民共和国が成立し、さらに1950年に朝鮮半島で戦争が勃発すると、全く状況が変わってきた。日本に駐留の米軍は、その主力を朝鮮半島に向けざるを得ず、空白となる日本の治安維持は、日本自体が担う必要に迫られ「警察予備隊」を組織させた。
 1951年、サンフランシスコ講和条約が成立すると、同時に(旧)日米安全保障条約も締結される。これは、占領軍が撤退すると同時に、米軍の継続駐留や基地の存続を認め、日本の防衛は日本自身が主体となり、米軍はこれを援助するというものであった。その趣旨を明確にするために翌1952年、警察予備隊は「保安隊」と改組された。
 1954年、安保条約を具体的に補完するため「日米相互防衛援助協定」が結ばれ、米国は日本に駐留するとともに日本に軍事支援を与え、その支援を受けて、日本は自国の防衛のために軍備を整えることが義務付けられた。これにより日本は、防衛の目的に限り再軍備する事を認められ、それに対応して保安隊は「自衛隊」と改組され、事実上の自国防衛軍となった。
 とはいえ自衛隊は、設立当初から現在に至るまで、論議の的になり続けてきた。詳細には立ち入らないが、憲法九条との関係で、自衛隊は軍隊であるとかないとか、無意味な空論が続けられてきた。自衛隊は名実ともに自衛軍であり軍隊である。問題は、それが憲法で認められ得る軍隊なのかどうか。もし認められないなら、憲法を変更するかどうか、それだけの問題だろう。
 とここまで書いて、50年前の高校生の時に、こっそりローカル新聞に投稿した内容と全く同じなのに気付いた。クラスの女子に気付かれて恥ずかしい思いをしたが、とにかく50年間自分の見解が変わっていないことよりも、50年間政治状況が全く変わっていないことの方に驚かされた(笑)
*この年
朝鮮特需による好景気が終わる/電気洗濯機・冷蔵庫・白黒テレビ(or掃除機)が「三種の神器」となる/ヘップバーン・カット大流行/東映娯楽映画シリーズで中村(萬家)錦之助・東千代之介などのアイドル誕生
【事物】短波放送/パートタイマー/ラジオの深夜放送
【流行語】死の灰/スポンサー/水爆マグロ/ロマンスグレー
【歌】お富さん(春日八郎)/岸壁の母(菊池章子)/原爆許すまじ
【映画】七人の侍(黒沢明)/二十四の瞳(木下恵介)/ローマの休日(米)
【本】伊藤整「女性に関する12章」/三島由紀夫「潮騒」/ローゼンバーグ夫妻「愛は死を越えて」

この選択は、誰が何と言おうと、間違いでした!

2020-10-21
学徒出陣壮行会が行われました。
Facebook英霊の本日の出来事9l
昭和18年10月21日の本日、明治神宮外苑競技場で出陣學徒壮行式を挙行致しました。
第二次欧州大戰終盤の昭和18年に兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍する20歳以上の文科系(および農學部農業経済學科などの一部の理系學部の)學生を在學途中で徴兵し出征させたことである。
日本國内の學生だけでなく、當時日本國籍であった臺灣人や朝鮮人、満洲國や日本軍占領地、日系二世の學生も對象とされた。
學徒動員と表記されることもある。
「概要」
日本は昭和12年以来、當初は中華民國との支那事變、続いて昭和16年からは亜米利加・英吉利など聯合國との大東亞戰爭を続けていた。
特に亜細亜・太平洋地域に及ぶ廣大な戰線の維持や昭和17年以降の戰局悪化で戰死者数が増加したため、次第に兵力不足が顕著になっていった。
従来、兵役法などの規定により大學・高等學校・専門學校(いずれも舊制)などの學生は26歳まで徴兵を猶豫されていた。
しかし兵力不足を補うため、次第に徴兵猶豫の對象は狭くされていった。
まず昭和16年10月、大學、専門學校などの修業年限を3ヶ月短縮することを定め同年の卒業生を對象に12月臨時徴兵検査を実施して、合格者を翌昭和17年2月に入隊させた。
この昭和17年には、さらに豫科と高等學校も對象として修業年限を6ヶ月間短縮し、9月卒業、10月入隊の措置をとった。
そして、さらなる戰局悪化により翌昭和18年10月1日、當時の東條内閣は在學徴集延期臨時特例(昭和18年勅令第755號)を公布した。
これは、理工系と教員養成系を除く文科系の高等教育諸學校の在學生の徴兵延期措置を撤廃するものである。
この特例の公布・施行と同時に昭和十八年臨時徴兵検査規則(昭和18年陸軍省令第40號)が定められ、同年10月と11月に徴兵検査を実施し丙種合格者(開放性結核患者を除く)までを12月に入隊させることとした。
この第1回學徒兵入隊を前にした昭和18年10月21日、東京の明治神宮外苑競技場では文部省學校報國團本部の主催による出陣學徒壮行會が開かれ、東條英機首相、岡部長景文相らの出席のもと関東地方の入隊學生を中心に7万人が集まった。
出陣學徒壮行會は、各地でも開かれた。
しかし翌年の第2回出陣以降、壮行會は行われなかった。
學徒出陣によって陸海軍に入隊することになった多くの學生は、高學歴者であるという理由から、陸軍の幹部候補生・特別操縦見習士官・特别甲種幹部候補生や、海軍の豫備學生・豫備生徒として、不足していた野戰指揮官クラスの下級将校や下士官の充足にあてられた。
昭和18年10月には教育ニ関スル戰時非常措置方策が閣議決定され、文科系の高等教育諸學校の縮小と理科系への転換、在學入隊者の卒業資格の特例なども定められた。
さらに翌昭和19年10月には徴兵適齢が20歳から19歳に引き下げられ、學徒兵の総数は13万人に及んだと推定される。
「對象」
昭和18年の徴兵對象者拡大の際、學徒出陣の對象となったのは主に帝國大學令及び大學令による大學(舊制大學)・高等學校令による高等學校(舊制高等學校)・専門學校令による専門學校(舊制専門學校)などの高等教育機関に在籍する文科系學生であった。
彼らは各學校に籍を置いたまま休學とされ、徴兵検査を受け入隊した。
これに對して理科系學生は兵器開發など、戰爭継続に不可欠として徴兵猶豫が継続され、陸軍・海軍の研究所などに勤労動員された。
ただし、農學部の一部學科(農業経済學科や農學科)は「文系」とみなされて徴兵對象となった。
また、教員養成系學校(師範學校)の理系學科(数學、理科)に在籍する者も猶豫の制度が継続された。
「學徒出陣の実施」
昭和18年10月21日、東京都四谷区の明治神宮外苑競技場で「出陣學徒壮行會」が文部省主催、陸海軍省等の後援で実施された。壮行會の様子は社團法人日本放送協會(NHK)が2時間半にわたり実況中継(アナウンサー:志村正順)を行い(外部リンク参照)、また映画「學徒出陣」が製作されるなど、劇場化され軍部の民衆扇動に使われた。
秋の強い雨の中、観客席で見守る多くの人々(引き続き徴兵猶豫された理工系學部生、中等學校(舊制)生徒、女學徒などが計96校、約5万名が學校ごとに集められた)の前で東京都・神奈川縣・千葉縣・埼玉縣の各大學・専門學校からの出陣學徒(東京帝國大學以下計77校)の入場行進(行進曲:観兵式分列行進曲「扶桑歌」 奏楽:陸軍戸山學校軍楽隊)、宮城(皇居)遙拝、岡部長景文部大臣による開戰詔書の奉読、東條首相による訓辞、東京帝國大學文學部學生の江橋慎四郎による答辞、海ゆかばの斉唱、などが行われ、最後に競技場から宮城まで行進して終わったとされる。
出陣學徒は學校ごとに大隊を編成し、大隊名を記した小旗の付いた學校旗を掲げ、學生帽・學生服に巻脚絆をした姿で小銃を担い列した。
壮行會を終えた學生は徴兵検査を受け、昭和18年12月に陸軍へ入營あるいは海軍へ入團した。
入營時に幹部候補生試験などを受け将校・下士官として出征した者が多かったが、戰況が悪化する中でしばしば玉砕や沈没などによる全滅も起こった激戰地に配属されたり、慢性化した兵站・補給不足から生まれる栄養失調や疫病などで大量の戰死者を出した。
昭和19年末から昭和20年8月15日の敗戰にかけて、戰局が悪化してくると特別攻撃隊に配属され戰死する學徒兵も多数現れた。
全國で學徒兵として出征した對象者の総数は日本政府による公式の数字が發表されておらず、大學や専門學校の資料も戦災や戰後の學制改革によって失われた例があるため、未だに不明な点が多い。
出征者は約13万人という説もあるが推定の域を出ず、死者数に関してはその概数すら示す事が出来ないままである。
ただし、當時の文部省の資料によれば當時の高等教育機関就學率(大學・専門學校・舊制高等學校などの総計)は5%以下であり、さらに理工系學生は引き続き徴兵猶豫されたため學徒兵の実数は決して多くなかった。
しかしその多くが富裕層の出身であり、将来社會の支配層となる豫定の男子であった大學生が「生等もとより生還を期せず」(江橋慎四郎の答辞の一節)という言葉とともに戰場に向かった意味は大きく、日本國民全體に総力戰への覚悟を迫る象徴的出来事となった。
(ウィキペディア参照。)
TOPへ戻る