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闘いの歴史

闘いの記録

愛新覚羅溥儀と溥傑

2020-09-30
満州国皇帝とその弟君
溥儀
溥傑

レーニン と ニコライ2世一家

2020-09-29
レーニンは「四月テーゼ」を発表し、臨時政府をブルジョワ政権とし、支持しないこと。「祖国防衛」という名の戦争継続を拒否することなどを宣言し、ボルシェビキのリーダーとして復帰した。
退位後監禁されていたニコライ2世とその家族は、反革命側に奪還され再擁立される恐れが生じたため、一家7人とも銃殺されその血筋は断絶した。
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1917年(t6)】
◎ロシア十月革命
*1917.11.7/ 「ロシア十月革命」、ボリシェビキがケレンスキー臨時政府を倒し、ソビエト政権を樹立する。
 「二月革命」では、「臨時政府」と「ペトログラード・ソビエト(メンシェビキ主導)」との二重政権であり、対独戦争の続行と講和終戦での内部対立があった。二月革命勃発時、レーニンは亡命地スイスに居たが、「封印列車」で戦争相手のドイツ国内通行するという秘策で急遽帰国した。敵国ドイツも、ロシアの内部混乱を助長する意図で、レーニンの通過を許可した。
 レーニンは「四月テーゼ」を発表し、臨時政府をブルジョワ政権とし、支持しないこと。「祖国防衛」という名の戦争継続を拒否することなどを宣言し、ボルシェビキのリーダーとして復帰した。しかしケレンスキー主導の臨時政府は、レーニンは敵国ドイツのスパイとしてロシアに送られたと宣伝した。
 その後、兵士たちの反臨時政府の武装デモが起るが鎮圧され、扇動したとされたボリシェビキに対する弾圧が強まった。レーニンは一旦地下に潜ったが、軍の反乱などで弱体化した寄せ集めの臨時政府に対して、やがてレーニン率いるボルシェビキは、急速に支持を拡大し、ペトログラード・ソビエト内でも、メンシェビキを駆逐して主導権を握った。
 もとから暴力革命を主張するボルシェビキは、ソビエトで多数派を占めると、即時武装蜂起を主張し、ソビエト内に軍事革命委員会を作らせて武装蜂起の準備を進めた。軍事革命委員会の指令下でボリシェビキの軍隊・赤衛軍は、1917年11月7日、ペトログラードの政府施設の占拠を開始し、翌日には、軍事革命委員会が「臨時政府は打倒され軍事革命委員会に権力が移った」とする宣言を発表した。翌未明には、臨時政府が置かれていたペトログラードの冬宮が制圧され臨時政府メンバーは逮捕された。
 十月革命では、二月革命で発足した立憲民主党(カデット)主導の臨時政府が倒され、臨時政府と並存していたボリシェビキ主導のソビエト(労働者・農民・兵士の評議会)へと権力が集中され、新政府としてレーニンを議長とする「人民委員会議」が設立された。
 ボルシェビキは旧体制時から憲法制定議会を要求していたため、政権奪取後、制定議会の議員を選ぶ普通選挙を実施した。しかし、ボルシェビキが第一党を確保できない結果に終わると、人民委員会議は憲法制定議会を強制的に解散させ、ここに「ボルシェビキ一党独裁」が成立する。そして翌年1月には「ロシア社会主義連邦ソビエト共和国」の成立が宣言され、ボルシェビキも「ロシア共産党」と改名し、ロシアは、世界初の共産党一党独裁共産主義国家となった。
 共産主義国家の安定には、まだまだ日時を要した。内部的には「ロシア内戦」(1917年-1922年)が続き、資本主義列強は、共産主義国家阻止のため対ソ干渉戦争を仕掛けてきた。各地で旧軍の将校らが反革命の軍事行動を始め、これら雑多な反革命軍は「白軍」と総称された。ソビエト政府側は、軍事人民委員となったトロツキーの下で「赤軍」を創設して戦った。
 この内戦と干渉戦は、ボリシェビキの一党独裁を強めた。革命直後に創設された秘密警察のチェーカーは、自由に逮捕や処刑を行う権限を与えられた。レーニンに対する暗殺未遂事件を起こると、政府は「赤色テロル」を宣言して激しい報復を行った。こんな状況下で、退位後監禁されていたニコライ2世とその家族は、反革命側に奪還され再擁立される恐れが生じたため、一家7人とも銃殺されその血筋は断絶した。
ドキュメンタリー『ソ連の歴史』
 革命の流れが分かりやすく編集されたドキュメンタリー映画。第二回あたりまでが、上記に該当する。 https://www.youtube.com/watch?v=09awF4y1Xls
(この年の出来事) 
*1917.2.1/ ドイツ、「無制限潜水艦作戦」を再開。アメリカの参戦のきっかけとなる。
*1917.3.20/ 理化学研究所の設立が認可される。
*1917.4.6/ アメリカ、ドイツに対し宣戦布告。第一次世界大戦の趨勢は、大きな転機を迎える。
*1917.9.12/ 大蔵省令で事実上の金輸出を禁止する。金解禁は1930年になる。
*1917.11.2/ イギリスが「パルフォア宣言」を発表。パレスチナにユダヤ人国家の建設を支援。

生体解剖

2020-09-29
Facebook佐々木信雄さんの投稿

 

『Get Back! 40's / 1948年(s23)』
(米軍捕虜生体解剖事件)
○3.11 [神奈川] 横浜軍事裁判所で、九州大学生体解剖事件の軍事裁判が始まる。(1945.5 米軍捕虜8人に対して行われた生体実験殺人)
 戦争末期の1945年5月、撃墜された米軍のB-29爆撃機が九州阿蘇山中に墜落し、生存搭乗員9名が捕虜となった。指令部からは、尋問のため機長だけ東京に送り、後は各軍司令部で処理すべしという指令が出され、西部軍司令部は裁判をせずに、残された8名を死刑と決定した。これを知った九州帝国大学卒で病院詰見習士官の小森卓軍医と石山福二郎主任外科部長(教授)は、生体解剖に供することを軍に提案し認められた。
 生体解剖は1945年5月17日から6月2日にかけて行われ、軍から監視要員が派遣され、指揮および執刀は石山教授が行った。終戦後GHQが事件について詳しく調査し、九州大学関係者14人、西部軍関係者11人が逮捕された。首謀者の一人とされた石山教授は、生体解剖については否認したうえ、調査中に独房で遺書を書き記し自殺し、小森卓軍医は空襲のため死亡している。
 1948年8月に横浜軍事法廷で、西部軍責任者2名、九大医師3名が絞首刑とされ、立ち会った医師18人が有罪となった。これらの手術が銃殺刑の代わりの、生存を考慮しない生体実験手術であることは、立ち会った関係者の目には明らかであった。後に作家遠藤周作は小説『海と毒薬』を著し、不可避的に立ち会わされた医学生や看護婦の目を通して、危機的状況の下では、惰性に流されて倫理感を喪失してしまう日本人の性質を描き出している。
*この年
郵便料金・鉄道・新聞など倍々値上げ/女性のロングスカート、男性のアロハシャツやリーゼントヘアが流行/日本脳炎で死者2620人
【事物】国民の祝日/新制大学/ナイター/110番/プロ競輪
【流行語】老いらくの恋/鉄のカーテン/〜個人として(西尾末広の答弁)
【歌】異国の丘(竹山逸郎・中井耕造)
【映画】酔いどれ天使(黒沢明)/夜の女たち(溝口健二)/美女と野獣(仏)
【本】自由国民社「現代用語の基礎知識」/「美しい暮らしの手帖」創刊/竹山道雄「ビルマの竪琴」

李香蘭から山口淑子へ   Facebook小林 知茂 さんの投稿

2020-09-27
山口淑子(李香蘭) 米国の有名ファッションデザイナー 親の墓参りの為に帰国 てんやわんやの東京の休日 東宝オールスター出演

雪風

2020-09-25
Facebook林正男さんの投稿
“奇跡の駆逐艦” 旧日本海軍「雪風」、戦後に台湾で活躍
(台北 24日 中央社)旧日本海軍によって佐世保海軍工廠(長崎県)で建造され、戦後に中華民国海軍に引き渡されて長年活躍した駆逐艦がある。すでに現役を引退し解体されたが、1971年に舵輪といかりが広島県江田島の海上自衛隊第1術科学校にある教育参考館に運ばれ、往年の面影を今に伝えている。
日本海軍時代の艦名は「雪風」。レイテ沖海戦や坊ノ岬沖海戦などに出撃するも、大きな損傷を受けることはなく、「奇跡の駆逐艦」と呼ばれた。戦時賠償艦としてほかの艦艇33隻と中華民国海軍に引き渡されることが決まったのは1947年。「丹陽」と改名され、政府のフィリピン視察や国外に住む華僑慰問などの任務などに当たった。
一時は日本海軍最後の主力駆逐艦として日本側から返還の要望があったが実現せず、その後修復不能な損傷が生じたため、解体。舵輪といかりだけでなく、スクリューと艦鐘は海軍軍官(士官)学校(高雄市)で保存されており、日台友好の証として、新たな役割を果たしている。

闘いの転機

思いは届きませんでした。

2020-10-22
Facebook佐々木信雄さんの投稿
 思想的深まりもなく、事後の明確な運営方針もなく、全体を統率するリーダーもなく、一時の心意気と義憤だけに突き動かされた「維新」などは成功するべくもなく、昭和天皇の怒りのもとに鎮圧された。非公開・弁護人なし・上告なしの特設軍法会議において、わずか約2ヵ月の審理で主謀者の安藤輝三、栗原安秀、村中孝次、磯部浅一ら青年将校17名に死刑の判決、民間の北一輝とその弟子西田税らは別の裁判で翌年に死刑が宣告された。

軍靴の音が、帝都に響きました。

2020-10-22
昭和維新決行は、お上の激昂される事態となりました、
Facebook佐々木信雄さんの投稿

【20th Century Chronicle 1936年(s11)】

◎二・二六事件
*1936.2.26/ 陸軍皇道派青年将校が約1400名の兵を率い、首相・陸相官邸、内大臣私邸、警視庁、東京朝日新聞などを襲撃する。(2・26事件)
*1936.2.29/ 戒厳司令部がラジオで「兵に告ぐ」を放送、反乱事件が収束へ。
*1936.7.5/ 東京軍法会議で2・26事件に判決。17名に死刑、5名に無期禁固。12日、15名に死刑執行。
 

 1936(昭11)年2月26日未明、日本の陸軍皇道派の青年将校らは天皇親政を求めて、1400名にわたる下士官兵を率いて決起する。彼らが指揮する部隊は各方面を分担し、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監、牧野伸顕前内大臣を襲撃、総理大臣官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞社を占拠した。
 

 決起青年将校らは陸軍首脳に「昭和維新」の断行を迫り、天皇の承認を信じて陛下の御聖断を要請したが、側近らを襲撃され統帥権を犯された昭和天皇は激怒し武力鎮圧を命じた。政府は翌日27日未明に戒厳令を布告、蜂起部隊を反乱軍と規定し降伏を迫り、29日からは「兵に告ぐ」のラジオ放送を始め、アドバルーンや宣伝ビラを繰り出して帰順勧告が開始された。やがて投降が始まり、最強硬派安藤輝三大尉の自決未遂を最後に全員投降、4日間に及んだ反乱クーデターは鎮圧された。
 

 事件の背景には、統制経済による高度国防国家への改造を計画した陸軍の中央幕僚たち(統制派)と、政財界の堕落した特権階級を排除し天皇親政の実現を図る革新派の青年将校ら(皇道派)の対立があったと言われる。これには、陸大卒の軍幕僚キャリア組と、士官学校から下士官というノンキャリア組の対立構造を見ることもできる。
 

 陸軍中枢は、皇軍派青年将校の動きを危険思想として監視させており、1934(昭9)年11月、クーデタ-を企図したとして皇道派の村中孝次大尉や磯部浅一主計を逮捕した(陸軍士官学校事件)。さらに翌年7月、皇道派がリーダーとする真崎甚三郎教育総監が罷免され、皇道派と統制派との反目は度を深めた。これらの遺恨から、統制派の中心人物とされた永田鉄山陸軍省軍務局長が皇道派の相沢三郎中佐に斬殺される事件が起こる(相沢事件)。
 

 これらの事件を受け、皇道派排除の流れに危機を感じる青年将校らは、「蹶起趣意書」をしたためクーデターを実行しようとするが、そのリーダーとなると特定しがたい。士官学校事件で軍現役から排除された村中や磯部は、真崎甚三郎大将や川島陸軍大臣を訪れ担ぎ出すことを意図したが、ともに言を左右して曖昧な態度を示した。
 

 青年将校らが属する東京の師団歩兵部隊第1師団の満州への派遣が決まると、青年将校らは決起すべきタイミングが来たと考えた。彼らの思想的指導者とされる北一輝や西田税も、時期尚早と考えていたようであり、実際に決起した将校の中には、彼らの思想的影響を受けたものは意外に少なかったとされる。結局、村中や磯部が、現役である野中四郎大尉、安藤輝三大尉、栗原安秀中尉などと申し合わせて決行したことになる。
 

 思想的深まりもなく、事後の明確な運営方針もなく、全体を統率するリーダーもなく、一時の心意気と義憤だけに突き動かされた「維新」などは成功するべくもなく、昭和天皇の怒りのもとに鎮圧された。非公開・弁護人なし・上告なしの特設軍法会議において、わずか約2ヵ月の審理で主謀者の安藤輝三、栗原安秀、村中孝次、磯部浅一ら青年将校17名に死刑の判決、民間の北一輝とその弟子西田税らは別の裁判で翌年に死刑が宣告された。
 

 その後、粛軍の名のもとに皇道派を蹴落とし主導権を握った統制派は、永田鉄山亡き後の統制派を牛耳った東条英機に率いられ、日中戦争を開始し、日本はファシズムへの道を本格的にたどることになった。
 

(この年の出来事)
*1936.2.5/ 全日本職業野球連盟が結成され、東京巨人軍など7チームが加盟する。 
*1936.3.9/ 広田弘毅内閣が、陸軍の介入で難航の末に成立。
*1936.5.18/ 内閣が陸・海軍大臣現役武官制を復活、これにより陸・海軍の意向で組閣が難航する。
*1936.11.7/ 帝国議会議事堂(現国会議事堂)が落成する。

戦後は、お上の人間宣言で始まりました。

2020-10-21
15歳の上皇様
Facebook永井由紀夫さんの投稿
初々しさを残しつつも、すっと背筋を伸ばしたたたずまいからは気品が漂う。
学生服姿で写真左に立つのは、皇太子時代の上皇様。1949(昭和24年)4月2~4日、初めて岡山県を訪問された際のひとこまだ。
当時15歳。
学習院中等科卒業後の春休みを利用し、岡山、広島県など山陽路を巡った。

戦後という時代の始まりは、再び銃を手にすることでした。

2020-10-21
6.9 防衛庁設置法と自衛隊法(防衛2法)が公布され、7月1日、陸海空の自衛隊が発足する。
Facebook佐々木信雄さんの投稿
『Get Back! 50's / 1954年(s29)』
◎陸海空自衛隊が発足
○6.9 防衛庁設置法と自衛隊法(防衛2法)が公布され、7月1日、陸海空の自衛隊が発足する。
 日本を占領した連合国軍は、当初日本の軍事力を完全に無力化する予定であった。しかしソ連が核保有国となり冷戦構造が顕著になるとともに、大陸では中国人民共和国が成立し、さらに1950年に朝鮮半島で戦争が勃発すると、全く状況が変わってきた。日本に駐留の米軍は、その主力を朝鮮半島に向けざるを得ず、空白となる日本の治安維持は、日本自体が担う必要に迫られ「警察予備隊」を組織させた。
 1951年、サンフランシスコ講和条約が成立すると、同時に(旧)日米安全保障条約も締結される。これは、占領軍が撤退すると同時に、米軍の継続駐留や基地の存続を認め、日本の防衛は日本自身が主体となり、米軍はこれを援助するというものであった。その趣旨を明確にするために翌1952年、警察予備隊は「保安隊」と改組された。
 1954年、安保条約を具体的に補完するため「日米相互防衛援助協定」が結ばれ、米国は日本に駐留するとともに日本に軍事支援を与え、その支援を受けて、日本は自国の防衛のために軍備を整えることが義務付けられた。これにより日本は、防衛の目的に限り再軍備する事を認められ、それに対応して保安隊は「自衛隊」と改組され、事実上の自国防衛軍となった。
 とはいえ自衛隊は、設立当初から現在に至るまで、論議の的になり続けてきた。詳細には立ち入らないが、憲法九条との関係で、自衛隊は軍隊であるとかないとか、無意味な空論が続けられてきた。自衛隊は名実ともに自衛軍であり軍隊である。問題は、それが憲法で認められ得る軍隊なのかどうか。もし認められないなら、憲法を変更するかどうか、それだけの問題だろう。
 とここまで書いて、50年前の高校生の時に、こっそりローカル新聞に投稿した内容と全く同じなのに気付いた。クラスの女子に気付かれて恥ずかしい思いをしたが、とにかく50年間自分の見解が変わっていないことよりも、50年間政治状況が全く変わっていないことの方に驚かされた(笑)
*この年
朝鮮特需による好景気が終わる/電気洗濯機・冷蔵庫・白黒テレビ(or掃除機)が「三種の神器」となる/ヘップバーン・カット大流行/東映娯楽映画シリーズで中村(萬家)錦之助・東千代之介などのアイドル誕生
【事物】短波放送/パートタイマー/ラジオの深夜放送
【流行語】死の灰/スポンサー/水爆マグロ/ロマンスグレー
【歌】お富さん(春日八郎)/岸壁の母(菊池章子)/原爆許すまじ
【映画】七人の侍(黒沢明)/二十四の瞳(木下恵介)/ローマの休日(米)
【本】伊藤整「女性に関する12章」/三島由紀夫「潮騒」/ローゼンバーグ夫妻「愛は死を越えて」

この選択は、誰が何と言おうと、間違いでした!

2020-10-21
学徒出陣壮行会が行われました。
Facebook英霊の本日の出来事9l
昭和18年10月21日の本日、明治神宮外苑競技場で出陣學徒壮行式を挙行致しました。
第二次欧州大戰終盤の昭和18年に兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍する20歳以上の文科系(および農學部農業経済學科などの一部の理系學部の)學生を在學途中で徴兵し出征させたことである。
日本國内の學生だけでなく、當時日本國籍であった臺灣人や朝鮮人、満洲國や日本軍占領地、日系二世の學生も對象とされた。
學徒動員と表記されることもある。
「概要」
日本は昭和12年以来、當初は中華民國との支那事變、続いて昭和16年からは亜米利加・英吉利など聯合國との大東亞戰爭を続けていた。
特に亜細亜・太平洋地域に及ぶ廣大な戰線の維持や昭和17年以降の戰局悪化で戰死者数が増加したため、次第に兵力不足が顕著になっていった。
従来、兵役法などの規定により大學・高等學校・専門學校(いずれも舊制)などの學生は26歳まで徴兵を猶豫されていた。
しかし兵力不足を補うため、次第に徴兵猶豫の對象は狭くされていった。
まず昭和16年10月、大學、専門學校などの修業年限を3ヶ月短縮することを定め同年の卒業生を對象に12月臨時徴兵検査を実施して、合格者を翌昭和17年2月に入隊させた。
この昭和17年には、さらに豫科と高等學校も對象として修業年限を6ヶ月間短縮し、9月卒業、10月入隊の措置をとった。
そして、さらなる戰局悪化により翌昭和18年10月1日、當時の東條内閣は在學徴集延期臨時特例(昭和18年勅令第755號)を公布した。
これは、理工系と教員養成系を除く文科系の高等教育諸學校の在學生の徴兵延期措置を撤廃するものである。
この特例の公布・施行と同時に昭和十八年臨時徴兵検査規則(昭和18年陸軍省令第40號)が定められ、同年10月と11月に徴兵検査を実施し丙種合格者(開放性結核患者を除く)までを12月に入隊させることとした。
この第1回學徒兵入隊を前にした昭和18年10月21日、東京の明治神宮外苑競技場では文部省學校報國團本部の主催による出陣學徒壮行會が開かれ、東條英機首相、岡部長景文相らの出席のもと関東地方の入隊學生を中心に7万人が集まった。
出陣學徒壮行會は、各地でも開かれた。
しかし翌年の第2回出陣以降、壮行會は行われなかった。
學徒出陣によって陸海軍に入隊することになった多くの學生は、高學歴者であるという理由から、陸軍の幹部候補生・特別操縦見習士官・特别甲種幹部候補生や、海軍の豫備學生・豫備生徒として、不足していた野戰指揮官クラスの下級将校や下士官の充足にあてられた。
昭和18年10月には教育ニ関スル戰時非常措置方策が閣議決定され、文科系の高等教育諸學校の縮小と理科系への転換、在學入隊者の卒業資格の特例なども定められた。
さらに翌昭和19年10月には徴兵適齢が20歳から19歳に引き下げられ、學徒兵の総数は13万人に及んだと推定される。
「對象」
昭和18年の徴兵對象者拡大の際、學徒出陣の對象となったのは主に帝國大學令及び大學令による大學(舊制大學)・高等學校令による高等學校(舊制高等學校)・専門學校令による専門學校(舊制専門學校)などの高等教育機関に在籍する文科系學生であった。
彼らは各學校に籍を置いたまま休學とされ、徴兵検査を受け入隊した。
これに對して理科系學生は兵器開發など、戰爭継続に不可欠として徴兵猶豫が継続され、陸軍・海軍の研究所などに勤労動員された。
ただし、農學部の一部學科(農業経済學科や農學科)は「文系」とみなされて徴兵對象となった。
また、教員養成系學校(師範學校)の理系學科(数學、理科)に在籍する者も猶豫の制度が継続された。
「學徒出陣の実施」
昭和18年10月21日、東京都四谷区の明治神宮外苑競技場で「出陣學徒壮行會」が文部省主催、陸海軍省等の後援で実施された。壮行會の様子は社團法人日本放送協會(NHK)が2時間半にわたり実況中継(アナウンサー:志村正順)を行い(外部リンク参照)、また映画「學徒出陣」が製作されるなど、劇場化され軍部の民衆扇動に使われた。
秋の強い雨の中、観客席で見守る多くの人々(引き続き徴兵猶豫された理工系學部生、中等學校(舊制)生徒、女學徒などが計96校、約5万名が學校ごとに集められた)の前で東京都・神奈川縣・千葉縣・埼玉縣の各大學・専門學校からの出陣學徒(東京帝國大學以下計77校)の入場行進(行進曲:観兵式分列行進曲「扶桑歌」 奏楽:陸軍戸山學校軍楽隊)、宮城(皇居)遙拝、岡部長景文部大臣による開戰詔書の奉読、東條首相による訓辞、東京帝國大學文學部學生の江橋慎四郎による答辞、海ゆかばの斉唱、などが行われ、最後に競技場から宮城まで行進して終わったとされる。
出陣學徒は學校ごとに大隊を編成し、大隊名を記した小旗の付いた學校旗を掲げ、學生帽・學生服に巻脚絆をした姿で小銃を担い列した。
壮行會を終えた學生は徴兵検査を受け、昭和18年12月に陸軍へ入營あるいは海軍へ入團した。
入營時に幹部候補生試験などを受け将校・下士官として出征した者が多かったが、戰況が悪化する中でしばしば玉砕や沈没などによる全滅も起こった激戰地に配属されたり、慢性化した兵站・補給不足から生まれる栄養失調や疫病などで大量の戰死者を出した。
昭和19年末から昭和20年8月15日の敗戰にかけて、戰局が悪化してくると特別攻撃隊に配属され戰死する學徒兵も多数現れた。
全國で學徒兵として出征した對象者の総数は日本政府による公式の数字が發表されておらず、大學や専門學校の資料も戦災や戰後の學制改革によって失われた例があるため、未だに不明な点が多い。
出征者は約13万人という説もあるが推定の域を出ず、死者数に関してはその概数すら示す事が出来ないままである。
ただし、當時の文部省の資料によれば當時の高等教育機関就學率(大學・専門學校・舊制高等學校などの総計)は5%以下であり、さらに理工系學生は引き続き徴兵猶豫されたため學徒兵の実数は決して多くなかった。
しかしその多くが富裕層の出身であり、将来社會の支配層となる豫定の男子であった大學生が「生等もとより生還を期せず」(江橋慎四郎の答辞の一節)という言葉とともに戰場に向かった意味は大きく、日本國民全體に総力戰への覚悟を迫る象徴的出来事となった。
(ウィキペディア参照。)
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