本文へ移動

闘いの歴史

闘いの記録

ここから始まりました。

2021-01-13
Facebook秋元良文さんより

 


「世界初の実用ヘリコプター」
Fw61。
初飛行1936年、6月26日ベルリンにある運動競技場の屋内で展示飛行を行う。
生産数2機。
Fa223。
初飛行1940年8月3日、生産数11機、終戦後2機が米軍に接収される。
FⅠ282。
初飛行1941年運用開始42年、生産数23機以上。
1,000機生産されることになっていたが工場が爆撃を受けて量産は実行されず。
地中海、エーゲ海で試験的に船団護衛任務に運用、米軍にも接収される。

落下傘といえば、パレンバンですが・・・。

2021-01-12
昭和17年1月11日に、その作戦は決行されました。

昭和17年1月11日の本日、海軍落下傘部隊がセレベス島メナドに奇襲降下しました。

落下傘部隊の奇襲作戰は、セレベス島の北部ミナハサ州攻略に際して初めて敢行しました。
帝國海軍特別陸戰隊が、メナドおよびケマに敵前上陸したのに呼応して、敵手中のカカス飛行場目指しで敢行し、敵基地を一挙にわが手に収め、しかる後、海空よりの両部隊の聯絡を完成して、14日までにミハナサ州一帯の敵要地を攻略しました。
横一特がセレベス島北端のメナド(マナド)攻略作戰において落下傘降下を実施し、ランゴアン飛行場占領に成功した。
ついでティモール(チモール)島攻略作戰において、横三特がクーパン飛行場を狙った降下作戰を実行したが、地上戰斗に手間取り大きな成果を得ることはできなかった。
メナド降下作戰は陸軍に先駆けた日本最初の空挺作戰であったが、陸軍空挺部隊が予定するパレンバン空挺作戰の企図秘匿のため、その戰果はすぐには公表されず、1ヶ月以上後の大本營發表でパレンバン空挺作戰の成功とほぼ同時の發表となった。
なお、飛行場のみならず、東亜細亜屈指の産油量を誇る油田地帯・製油所という、南方作戰における日本軍の最重要戰略目標を僅かな損害で攻略した陸軍空挺部隊(第一挺進團)の功は海軍の功よりはるかに大きく、目立つ結果となり、陸軍への對抗意識が根強い海軍関係者の一部では不満が生じた。
また、日本軍落下傘部隊を謳った軍歌として大ヒットした『空の神兵』は、後に陸軍空挺部隊を描いた同名の映画『空の神兵』の主題歌になり、後述の通り陸軍空挺部隊は大戰後期にも数度の空挺作戰を行っているため、知名度や戰功の点からみて海軍空挺部隊の働きは陸軍空挺部隊より劣るものとなってしまった。
もっとも、海軍空挺部隊についても報道員が撮影した降下映像をもとにした短編ニュース映画や、大戰末期になるものアニメ映画『桃太郎 海の神兵』が公開されたこともあり、國民にある程度は存在を知られることになる。
(ウィキペディア参照。)
Facebook英霊の本日の出来事

帝国海軍です。

2021-01-06
三菱零式水上観測機
Facebook金敷瑞貴さんの投稿

東洋の真珠

2021-01-06
デヴィ・スカルノという生き方
Facebook浅見俊彦さんの投稿
【デヴィ夫人】
【デヴィ夫人】
こんなミステリアスで国際社会を渡り歩いた日本人はいまだかっていないのではないでしょうか。
赤坂の有名高級クラブ「コバカバーナ」で働く。
1959年19歳の時に、インドネシアの開発援助に伴い、東日貿易の秘書と言う名目で、スカルノ大統領のもとにおくりこまれた。
1962年スカルノ大統領と正式に結婚、4人の夫人のうちの第三夫人となる。
1965年軍事クーデターによりスカルノが失脚、デヴィ夫人はフランスへ亡命。
妖艶な美貌、フランス社交界の華
「東洋の真珠」
あのアランドロンとも交際。


不毛地帯とデヴィ夫人

フジテレビ開局50周年記念連続ドラマの最後として不毛地帯が始まった。
この不毛地帯は、山崎豊子の原作で、過去ベストセラーにもなった名作である。
ドラマ化に際して書店などでも平積みされており、ぜひ一度読んで欲しい大作でもある。
この作中の人物は、実在の人物をモデルにしているらしいことは、出版当時から噂されており、
主人公の壱岐正中佐は、瀬島龍三(1911‐2007)氏であることがつとに有名である。
軍歴や、その後伊藤忠での活躍と、小説で描かれる経歴がほとんど同じであることがわかっている。
その他、第1回にも登場したクラブ「ル・ボア」の浜中紅子(天海祐希が演じている)は、テレビ等で見かける「デヴィ夫人」であることも有名である。
※ドラマでは母親がやっているバーという設定になっていた。
「デヴィ夫人」とは、本名根本七保子さんといい、東京都立三田高等学校定時制部を中退後に赤坂の有名高級クラブ「コパカバーナ」のホステスとして働いていた。
その後、来日したインドネシアのスカルノ大統領の元に、丸紅から「東日貿易の秘書」として送り込まれ、その後スカルノ大統領の第3夫人として数々の対日本の貿易等にも関与したといわれている。スカルノ失脚後、数々の変遷を経て、ある時期からデヴィ夫人として日本の芸能界のご意見番として登場して以降はみなさんご存知の通りである。
なお、主人公である壱岐こと瀬島氏は、後に瀬島機関と呼ばれる組織を動かし伊藤忠を総合商社へと押し上げる原動力となり、伊藤忠商事会長まで務め、さらにはその能力を買われ数々の政審会等で活躍することになる。
特に中曽根康弘政権では、土光臨調(第二次臨時行政調査会)で政権を支えたといわれている。

勲一等瑞宝章、逝去後に従三位が贈られている。


レジスタンス

2021-01-06
2021年10月には96歳になられます。
Facebook橋本 新一さんの投稿



ナチスを苦しめた女性。
シモーヌ・セグアン 彼女のコードネーム、ニコール・ミネト 
彼女は18歳で自由フランス軍で、レジスタンス活動に参加。
シャルトルやパリ解放に参加。
中尉まで昇進しいくつかのメダルを授与され。
戦後小児科の看護師として活躍。

闘いの転機

昭和19年1月26日の本日、東京・名古屋で初の建物疎開。

2021-01-26
Facebook英霊の本日の出来事

昭和19年1月26日の本日、東京・名古屋で初の建物疎開。
日本において當時の人の多くは家屋疎開とも呼んでいた。
空襲により火災が發生した際に重要施設への延焼を防ぐ目的で、防火地帯(防空緑地・防空空地)を設ける為に、計画した防火帯にかかる建築物を撤去する事である。
跡地は、人々の避難先や復舊時のゴミ・資材置き場として役に立ったが、投下された焼夷弾の数が多量だったため、本来の目的である防火帯としての役割はあまり果たさなかったと言われている。
一部の地域では「爆弾が天井に引っ掛かるので、天井板は無くした方が良い」といった説が流れ、残された住宅の天井板だけを撤去する事も行われた。
都市空襲の場合、投下された焼夷弾が屋根を貫通した後に天井板で止まり發火する場合が多く、それを防ぐには有効であったと思われるが、工業地帯等に投下された爆弾の重量は平均500kg~1tであり、薄い木製の天井板の有無で影響を受けるとは考えられない。
建物疎開にあたっては、行政機關がその候補を選定し、選ばれた家屋はほぼ強制的に撤去されたため、當時は「強制疎開」とよばれた。
建物疎開は終戰直前まで行われており、本土決戰に備えて人口2万人以上の小都市でも実施され、全國で約61万戸の建物が除却された。
また、建物の除却には移転補償の給付がなされたが、敷地に關しては買収形態のものと借地形態のものの両方が存在した。
建物の取り壊し作業は軍が破壊作業を行った後に付近住民などが撤去作業を行うという手順が一般的であった。
瓦礫の撤去に携わったのは主に國民學校高等科(12歳~14歳)の生徒(授業の一環として取り入れられていた)や、女性を中心とした「勤労奉仕隊」、病気などで徴兵對象から除外されていた男性などであった。
廣島へ原爆が投下された當時も廣島市内では既に数千人の學童を含む人々が屋外で建物疎開の作業に従事していた。
當日も彼らは既に作業を始めており、炸裂した原爆による被害を受けることとなった。
建物疎開の後は戰後そのまま道路になった場合が多く、代表的な例では横浜市の根岸疎開道路(馬場町~原町間)など数か所、廣島市の平和大通り、京都市の御池通の左京區川端御池から中京区堀川御池間、大阪市道の上新庄生野線の東成區玉津3丁目から生野區林寺2丁目間、都市計画道路難波片江線の生野區鶴橋2丁目付近などがある。
特に横濱のそれらと大阪市道豊里矢田線は地元住民から「疎開道路」と呼ばれている。
(ウィキペディア参照。)

自殺的戦死 山本五十六海軍元帥(1884年4月4日~1943年4月18日ブーゲンビル島上空で戦死)

2021-01-25
Facebook橋本 新さんより ラバウル基地での最後の写真。この後「海軍甲事件」アメリカ軍作戦名ヴェンジェンス作戦がおきる

俘虜記

2021-01-23
Facebook湯浅 宗浩  真珠湾攻撃で初めての日本軍人捕虜となった酒巻和夫氏のトヨタ自動車勤務時代。 昭和31年

学徒散華の記録

2021-01-23
富安俊助中尉(早稲田大・飛行予備学生13期、22歳)とエンタープライズ(USS Enterprise, CV-6)
Facebook橋本 新一


1945年5月14日緩降下後背面宙返りで垂直逆落としに体当りエンタープライズの前部エレベータの後部に激突炎上しエレベーターは吹き飛び船体に穴が開き2.2メーター浸水、ダメコン班が30分で火災を鎮火、エレベーターホールで富安中尉の遺体を発見。
遺体は米兵並みに丁重に水葬され、2020年に富安中尉の機体の一部と遺体にあった50銭札も家族に返還。

闘いには、旗印が必要でした。

2021-01-23
明治7年1月23日の本日、明治天皇が新編の近衛歩兵第一・第二聯隊に軍旗を親授なさいました。
Facebook英霊の本日の出来事より


明治7年1月23日の本日、明治天皇が新編の近衛歩兵第一・第二聯隊に軍旗を親授なさいました。
日本陸軍最初の歩兵聯隊は、明治7年1月20日西郷隆盛率いる御親兵を母體として誕生します。
この聯隊には大正・昭和の二代に亘る天皇が皇太子時代に、それぞれ聯隊付きとして在籍しました。
近衛歩兵第二聯隊は、近衛歩兵第一聯隊と同日に軍旗を親授された日本陸軍最古の歩兵聯隊です。
TOPへ戻る