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終戦

闘いすんで 陽が暮れて・・・

アメリカ占領下の日本

2024-03-23
アメリカ占領下の日本 第1巻 大日本帝国解体  企画・制作:ウォークプロモーション
アメリカ占領下の日本 第2巻 最高司令官マッカーサー 企画・制作:ウォークプロモーション
アメリカ占領下の日本 第3巻 東京裁判 企画・制作:ウォークプロモーション

「今日で敗戦とも知らず…

2024-01-21
「今日で敗戦とも知らず…」玉音放送直前に“知られざる戦い”出撃した兵士の手記(2023年8月15日)
1945年8月15日の正午、日本の敗戦が伝えられた『玉音放送』。
1945年8月15日の正午、日本の敗戦が伝えられた『玉音放送』。
しかし、その終戦の日にも戦闘が起きていました。
 玉音放送の約8時間前。
千葉県房総半島沖には、連合国の艦隊が迫っていました。
アメリカ海軍第三艦隊、航空母艦を何隻も保有する巨大艦隊でした。
日本軍もすぐ迎撃に向かいます。 
零戦の飛行士だった阿部三郎さん。
8月15日の戦闘を手記に残しています。 
阿部三郎中尉の手記より:『当方は、今日で敗戦と知らず、今日から本格的な反攻を始める初日と張り切って出撃した』 玉音放送の約7時間前。阿部さんの部隊は、千葉の茂原航空基地から出撃。連合国103機に対し、わずか十数機で立ち向かいました。 
阿部三郎さんの手記より:『たちまち乱戦となった。至近距離まで近づいた。敵は気配を察したのか、一瞬筆者と視線が合った。彼の表情に絶望が走った。発射レバーを引いた途端、彼の頭が半分ほど吹き飛んだ。風防が真っ赤になった』 阿部さんの零戦も被弾し、都内を流れる江戸川に不時着しました。
 阿部三郎さんの手記より:『時計を見ると朝の六時だった。おかしい。感覚ではもう昼はとうに過ぎているはずだ。(中略)それほど緊張していたのだろう』 そのわずか15分後。連合国は、日本の降伏を知り、前線の部隊に攻撃停止命令を出します。阿部さんは、基地に戻ると、黒板に書かれた戦闘記録で、5人の仲間が戦死したことを知りました。 戦いを終えた阿部さんの様子を妹の百合子さんは、鮮明に覚えていました。 
阿部三郎さんの妹・百合子さん(90):「兄が帰って来たときは、鷹のような目をしていました。人間の目じゃなかった。人殺しの目ですね。軍刀を持って、6畳の部屋に正座したまま、1週間くらい口をきかなかった。あのとき、死のうと思ったらしい」
 阿部三郎さんの手記より:『自分が生き残ったのに、死んでいった戦友に対する後ろめたさと、それと相反する、もう死ななくていいんだという密かな解放感など、局外者には理解してもらえない感情が胸の底から込み上げてきた』 しかし、日本軍の攻撃は、まだ終わっていませんでした。“最後の特攻”を行ったのです。 玉音放送の2時間前。千葉と茨城の基地から10機以上が出撃。18名の特攻隊員が、この日に亡くなりました。最後の1機が飛び立った30分後、日本は終戦を迎えます。 8月15日に戦った阿部三郎さんは、玉音放送で敗戦を知りました。 戦後、かつての上官が口にした言葉を手記に残しています。 
阿部三郎中尉の手記より(上官の言葉):『もし、敗戦を知っていたら、出撃はさせなかった。そうすれば、何人ものパイロットを殺さずにすんだ』 日本軍が正式に停戦命令を出したのは翌日、8月16日のことでした。 
【冒頭映像出典:TheLastBomb-Identifier:342-SFP-193】 “終戦の日の象徴”でもある玉音放送は、天皇があくまで国民に敗戦を知らせたもので、“停戦命令”ではありません。ただ、停戦命令が出たのも、日本はアメリカに比べ時間がかかっていました。 “日本の降伏”から日米両国の海軍に「停戦命令が出されるまで」を確認します。まず、日本が降伏することを連合国に伝えたのは、玉音放送の前日、8月14日午後11時。これを受け、アメリカが房総沖にいた第三艦隊に停戦命令を下したのが15日午前6時15分。一方、日本は翌日16日になってからです。
 なぜ、日本軍は遅れたのか。太平洋戦争の日本軍などを研究する埼玉大学・一ノ瀬俊也教授は「降伏を伝えて、現場の各部隊に反乱が起き、降伏ができなくなることを大本営が警戒し、“段階的に停戦命令を出していった”と考えられる」といいます。 大本営が、海軍の司令部に出した指令を見てみます。16日の指令では『即時戦闘行動を停止すべし』と書かれていますが、『停戦交渉が成立するまでの間は、自衛目的の戦闘は妨げない』としていて、条件付きの停戦命令でした。 次に指令が出されたのは19日で、『一切の戦闘行動停止』と書かれていますが、その期限は『22日午前0時にする』としています。しかも『現在の中国方面は追って定める』と例外を認めています。 一ノ瀬教授は「敗戦国は、降伏を受け入れることよりも、実は味方の強硬派の反発を抑える方が難しいという側面もある」と、当時の状況を分析しています。
 [テレ朝news] https://news.tv-asahi.co.jp

【初告白】硫黄島の戦い 上官命令で1人帰還…玉砕前になぜ?旧日本兵の秘話|ABEMAドキュメンタリー

2023-12-20
※2021年8月18日放送にアベマで放送したものです 
◆内容 太平洋戦争で最も壮絶だったと言われる「硫黄島の戦い」。 
1944年、米軍の攻撃で負傷した豊島厳一さんは、硫黄島の壕の中の病院へと収容された。
 すぐに手術が必要だったが、装備も医薬品もなく症状は悪化、自決を覚悟する。
 そんな中、突然上官に呼び出され「明日、内地から飛行機が来るのでそれに乗って帰れ。
上の命令だ」と言われる。 
島には多くの患者がいるのに、その飛行機に乗ったのは豊島さんだけだった。
 一体なぜ自分だけが?
そして、帰還を命じた上官とは?
硫黄島玉砕の前に起こった秘話を100歳の旧日本兵が初めて語る。

陸軍中野学校 

2023-12-18
【前編】陸軍中野学校 元将校が見た“終戦”(2022年8月18日)
【後編】陸軍中野学校 元将校が語る“情報”(2022年8月18日)

1949 BBC 東京ブギウギ / 笠置シヅ子

2023-11-16
日本映画 昭和女優の軌跡 ♪女優は歌う♪ リンゴの唄・銀座カンカン娘・東京キッド・夜来香 他
昭和女優の軌跡
※ 並木路子さん ♪リンゴの唄♪ /「そよかぜ」昭和20年10月10日公開 1945年。
 ※ 高峰秀子さん ♪銀座カンカン娘♪ /「銀座カンカン娘」昭和24年8月16日公開 1949年。 
※ 美空ひばりさん ♪東京キッド♪ /「東京キッド」昭和25年9月9日公開 1950年。 
※ 江利チエミさん ♪Too Young♪   ♪Come on-a My House♪ /「猛獣使いの少女」昭和27年6月5日公開 1952年。江利チエミさん映画デビュー作品です。 
※ 山口淑子さん ♪夜来香♪ /「東京の休日」昭和33年4月15日公開 1958年。山口淑子さん芸能生活20周年記念および女優引退記念作品です。
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