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終戦

闘いすんで 陽が暮れて・・・

玉音放送の後に起こった最後の空戦

2023-05-25
神立 尚紀 の意見
「日本ニュース第194号」(昭和19年2月16日公開)「南海の激戦場 ニューギニア・ソロモンの激闘」より、戦果の褒美に司令官から清酒が届けられ、喜ぶ零戦搭乗員たち(1) © 現代ビジネス
玉音放送の後に起こった「最後の空戦」を戦い抜いた「零戦搭乗員」のあまりに壮絶すぎる半生

玉音放送の後に起こった最後の空戦

ここからは筆者が浅からぬ縁をもつことができた小町定(終戦時飛曹長)のその後の歩みを見てみよう。小町は、昭和19年1月17日の空戦のときは二〇四空の下士官兵の総元締ともいえる「先任搭乗員」の立場だった。筆者が、「小町さん、どうしてこのニュース映像、いちばんうしろに映ってるんですか?もっと前に出たらよかったのに」と聞くと小町は、「先任搭乗員が前に出ると若い連中が緊張するからね。こんなときは若い搭乗員を前面に出してやらなきゃ」と答えた。

重傷を負っても、悪化した戦局はベテラン搭乗員を休ませてくれない。小町はわずか2ヵ月の入院ののち、京都府の日本海側に急造された練習航空隊・峯山海軍航空隊の教員となり、まもなく准士官である飛行兵曹長に進級。昭和20(1945)年6月、横須賀海軍航空隊(横空)に転勤、ここで終戦を迎えた。

しかし、日本本土上空の戦いは、まだ終わっていなかった。

玉音放送は国民に終戦を告げるものではあっても「停戦命令」ではなく、大本営が陸海軍に、自衛のための戦闘をのぞく戦闘行動を停止する命令を出したのは8月16日午後のこと。8月19日、海軍軍令部は、支那方面艦隊をのぞく全部隊にいっさいの戦闘停止を命じるが、その期限は8月22日零時だった。これは、ラジオ放送で戦時に自粛していた音楽や娯楽番組、天気予報が復活し、灯火管制が解除されたのと同じタイミングである。

「自衛のための戦闘は可」とされていた8月18日、日本本土を偵察飛行に飛来した米陸軍の四発新型爆撃機・コンソリデーテッドB‐32ドミネーター2機を、横空の零戦、紫電改、雷電計10数機が邀撃した。横空では終戦が告げられてもなお、機銃弾を全弾装備した戦闘機が列線に並べられ、搭乗員たちは戦う気概をみなぎらせて指揮所に待機していた。

「敵大型機、千葉上空を南下中」

との情報に、搭乗員たちは色めきだった。

「それ、やっつけろ!と、みんな気が立っていますから、われがちに飛び上がった。私は紫電改に乗って、真っ先に離陸しました。誰からも命令された覚えはないし、いちいちお伺いをたてている暇なんかありません。東京湾の出口付近で追いついて、ラバウル、トラックで鍛えた直上方からの攻撃で一撃。敵機に20ミリ機銃弾が炸裂するのが見えました。余勢をかって急上昇して、伊豆半島の上でもう一撃。相手はとにかく、降下しながら全速で逃げるものだから、紫電改でも二撃が精いっぱいでした。零戦だったら、とてもあそこまで追えなかったと思います」

と、小町は回想する。このB-32は墜落こそ免れたが、機銃の射手が1人、機上戦死した。この件に関して米軍からのクレームはなく、これが日本海軍戦闘機隊の最後の空中戦闘になった。

郷里に帰るも…

停戦命令が発効すると、横空では、搭乗員を優先的に郷里に帰すことになり、小町も8月23日、退職金がわりの証券1枚と汽車の切符がわりの伝票1枚だけを受け取り、追い立てられるようにして横須賀をあとにした。

ところが、石川県の郷里の駅に着いてみると、駅員が「そんな伝票のことは聞いていない」と通してくれず、挙句の果てにキセル乗車の疑いまでかけられて、復員早々、駅員と喧嘩になってしまった。証券のほうも、銀行へ行くと「そんな話は聞いてない」と換金に応じてくれなかった。複数の横空関係者によると、退職金を現金で受け取れた隊員もいたが、航空隊にある現金が底を尽くと、残りは横浜正金銀行の証券渡しになったという。

「そのときは帝国海軍の大ペテンにひっかかった思いでした。恨み骨髄、もう金輪際、国のために命なんか懸けてやるもんか、と思いましたよ」

郷里に帰ってみると、戦時中は熱狂的に迎えてくれた村人たちの目が、妙に冷ややかになっているのが肌で感じられた。陰で「戦犯」呼ばわりされているのも耳に入ってくる。小町は自分を知る者が誰もいない東京に出る決心をした。

とはいえ、東京に出たからといってすぐに仕事があるわけではない。小町は海軍に入る前に勤めた会社の伝手を頼って釘を6樽手に入れ、それを売り歩く行商を始めた。するとそのうち、国鉄蒲田駅前の建築会社で、釘を売るために軒下を貸してくれることになった。やがて字が上手で計算が得意なことが社長に気に入られ、いつしかその会社で働くようになった。

そして社長のすすめで材木商を営むようになるが、店主の小町が材木について素人なのに、客のほうは全員がプロ。買い叩かれるばかりで、毎日店を開けるたび、客が来るのが怖かったという。

材木商をしばらくやったあと、建築会社を始める。材木商とちがい、各専門職に仕事を任せ、自分は号令をかける立場でいられるというのがその理由だった。しかしこの仕事も、心ない客に代金を払ってもらえず、出来上がりに根拠のないクレームをつけられて訴えられるなど、けっして楽な商売ではなかった。

苦しいながらも伸びてきた建築会社だったが、小町は、近代的なビルの時代に対応することに限界を感じ始めた。そこで、自分のビルを持つことを決意、ある銀行に融資を申し込む。

「銀行が、一週間かけて近所を聞き回ったり、人物調査をしたらしいです。あとで支店長が言ってましたが、『小町さんは口は悪いけど、腹のなかは空っぽで、どんなことがあっても約束は守る、信用できる人ですよ』と、誰かが言ってくれたらしいです。それで融資にOKが出まして、しかもオイルショックでインフレになる直前に建てたものだから、建築費も安く上がった。それで家賃も安くできたから、テナントはあっという間に埋まりました」

昭和48(1973)年、「グランタウンビル」の完成である。釘の行商から身を起こして、都内の駅前一等地のビルのオーナーになったのだ。

『おそるべき 君等の乳房(ちぶさ) 夏来(きた)る』

2023-05-25
facebook 北原照久さん曰く
戦前の三ツ矢サイダーのポスターです。
今日の言葉は西東三鬼の俳句で『おそるべき 君等の乳房(ちぶさ) 夏来(きた)る』
戦前の三ツ矢サイダーのポスターです。
色々な解釈がありますが、僕は戦争が終わり自由になった喜びを詠っていると思います。
防空頭巾、モンペを履いていた女性が、戦争が終わってスカートに白いブラウス、その胸元を見た西東三鬼が自由を謳歌している女性に向けて詠んだのでしょう。
短い言葉に平和と自由になった喜びが表現されていると思います。
まさに想像力とその時代の情景までが浮かんでくる言葉のアートですね。
画像をタップして見てくださいね。

山下奉文 大将 マニラ軍事裁判 一部映像 山下将軍の声

2023-05-22

最期の闘い

2023-05-18
NHK戦艦武蔵の最期 シブヤン海海戦
【WoWS】坊ノ岬沖海戦 ~沖縄ヘ突入セヨ~

映画「戦艦大和」 1953年(昭和28年) カラー化

2023-05-17
『戦艦大和』(せんかんやまと)は、1953年6月15日に公開された、
新東宝製作・配給による戦争映画。 AIでカラー化・高画質化しました。 
日本映画で初めて戦艦大和を題材とした作品。
原作は吉田満の『戦艦大和ノ最期』。
教導として戦艦大和の副長であった能村次郎が参加している。
 大和の造形物は製作費200万円をかけた本編セットや、1/44と1/70の二種類のミニチュアが用意され、新東宝発足以来初めて大規模な特撮となった。
 あらすじ 
天一号作戦における戦艦大和とその乗員たちの奮闘と悲劇を描いた作品。 昭和20年4月、軍令部は連合艦隊で残った戦艦大和を沖縄に出撃させる「水上特攻」を第二艦隊に命令した。大和乗組員は、様々な思いが交錯するなかで三田尻沖での最後の夜を過ごす。4月6日午後、大和は沖縄に向けて出撃するが、早くも米潜水艦は大和を発見、平文で報告する。大和は偽装のため進路を鹿児島県南方海上を西にとるが、米航空機部隊は7日正午過ぎから曇り空のなか大和に襲いかかる…。
戦艦大和・その栄光と終焉 .日本海海軍の象徴としての?.....
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