本文へ移動

ちょい話①【親鸞編】

仰せを蒙りて【アーカイブス 音声・映像データ編】

帰依三宝

2021-04-04
Facebookしんらん響流館さん曰く
「全戦没者追弔法会2021」で焼香される修如上人

御本尊還座式記念講演(2016年3月31日 池田勇諦氏)

2021-04-19
https://youtu.be/1E7iLqQA_RQ

御本尊還座式記念講演では、池田勇諦氏(真宗大谷派講師・同朋大学名誉教授)に「御本尊・阿弥陀仏は音聲仏」の講題でお話いただきまし­た。

 【御本尊還座式】
 2016年3月31日、真宗本廟の阿弥陀堂の御修復にともない、2011年より仮阿弥陀堂(御影堂九字之間)に安置されていた御本尊・阿弥陀如来が阿弥陀堂に還座する「御本尊還座式(ごほんぞんげんざしき)が執り行われました。

六字名号、金子大栄先生の御染筆です。

2021-08-30
Facebook 阪下大介さん曰く

今日は、1つの詩を紹介させて頂きます。 題名は、親鸞讃歌(宗祖を憶ふ)。

2021-07-23
この詩は昭和23年金子大栄先生68歳の時に作られた詩、 金子先生がご覧になった人間親鸞の姿が描かれております。

親鸞讃歌(宗祖を憶ふ)

昔 法師あり
親鸞と名づく
殿上に生れて庶民の心あり
底下となりて高貴の性を失わず

己にして愛欲のたち難きを知り
俗に帰れども道心を捨てず
一生凡夫にして
大涅槃の終りを期す

人間を懐かしみつつ 人に昵(なづ)む能(あた)わず
名利の空なるを知り 離れ得ざるを悲しむ
流浪の生涯に 常楽の故郷を慕い
孤独の淋しさ 万人の悩みを思う

聖教を披(ひら)くも 文字を見ず
ただ言葉のひびきをきく
正法を説けども師弟をいわず
ひとえに同朋の縁をよろこぶ

本願を仰いでは
身の善悪をかえりみず
念仏に親しんでは
自ら無碍の一道を知る

人に知られざるを憂えず
ただ世を汚さんことを恐れる
己身の罪障に徹して
一切群生の救いを願う

その人逝(ゆ)きて数世紀
長(とこしな)えに死せるが如し
その人去りて七百年
今なお生けるが如し
その人を憶いてわれは生き
その人を忘れてわれは迷う
曠劫多生の縁
よろこびつくることなし
この詩は、金子先生の随筆集『くずかご』の中に収められています。
千葉県松戸市にある浄土真宗のお寺・天真寺。
今回の掲載にあたっては、こちらのプログより

引文させていただきました。
https://blog.goo.ne.jp/tenshinji/e/1e0efbb290708cd6bf344457f6cf3405

天真寺ホームページ
http://tenshin.or.jp/


金子大栄著 『親鸞』

2021-07-23
Facebook 阪下大介さん曰く

仰せを蒙りて【音声・映像データ編】

真宗大谷派東本願寺【公式】 - YouTube

2021-04-06
法要をズーム・イン、法話はリプレイができます。

ラジオ放送『東本願寺の時間』

2020-12-08

訃報

2021-11-29

大谷大学名誉教授の幡谷 明(はたや あきら)氏(93歳)が、2021年11月26日(金)にご逝去されましたのでお知らせいたします。

【11/26 讃仰講演会】親鸞聖人讃仰講演会

2021-11-27
親鸞聖人の顕かにされた本願念仏のみ教えを共に学び、親鸞聖人を讃仰する講演会を11月26日から28日まで各日18時から20時30分まで開催いたします。
 26日(金)18時から20時30分 
・「祈りの念仏と感謝のお念仏」 淺田 正博氏(本願寺派勧学・龍谷大学名誉教授) 
・「「摂取不捨」という成仏道 ―願生と往生―」 小川 一乘氏(大谷大学名誉教授)

【資料】

20211126 小川一乘氏資料


東井義雄「仏の声を聞く」

2021-11-27

顕彰碑(東光寺近く)
「拝まない者も おがまれている
拝まないときも おがまれている」

仰せを蒙りて【文字データ編】

報恩ということ

2020-11-15

九州鸞音忌

2021-11-12
50回忌法要の記念誌が出来上がりました。

蓮如の教学についての二考察

2021-11-12
著者 稲葉秀賢 出版社 大谷出版社 刊行年 昭和24年

邂逅(かいごう)

2021-11-10
宗祖としての親鸞聖人に遇う
「飛躍する偶然性」 (藤井 祐介 教学研究所嘱託研究員)

九鬼周造は著書『「いき」の構造』で知られる哲学者である。九鬼は一九三五(昭和一〇)年に発表した『偶然性の問題』の結論において、突然に『浄土論』に言及している。九鬼は『浄土論』のうち「観仏本願力遇無空過者」(聖典一三七頁)を引いて、次のように述べている。

〔略〕「遇ふ」のは現在に於て我に邂逅する汝の偶然性である。「空しく過ぐるもの無し」とは汝に制約されながら汝の内面化に関して有つ我が未来の可能性としてのみ意味を有つてゐる。不可能に近い極微の可能性が偶然性に於て現実となり、偶然性として堅く掴まれることによつて新しい可能性を生み、更に可能性が必然性へ発展するところに運命としての仏の本願もあれば人間の救ひもある。〔略〕(『九鬼周造全集』第二巻、岩波書店、二五九―二六〇頁)

九鬼にとって偶然性は動きのない、静止したものではない。偶然性は、必然性へと飛躍する、動的なものとして語られている。このような偶然性の解釈に関連して興味深いことは、九鬼が「自然」をも動的なものとして理解していることである。田中久文氏によれば、

「九鬼は既に『偶然性の問題』において、偶然と必然とをつなぐものとして『自然』や『運命』というものを問題にしていたが、この『自然』というものが晩年の九鬼の思索の一つの中心になっていく」(田中久文『九鬼周造』、ぺりかん社、一五八頁)。

九鬼は「日本的性格」において、日本文化の特色の一つとして「自然」を挙げ、次のように述べている。

〔略〕自然に従ふといふことは諦めの基礎をなしてゐる。
〔略〕なほ親鸞に「自然」といふ思想があるのもそこから理解することができる。〔略〕行者のはからひでなく自然の利益であるからそこにおのづから諦念が湧いて来るのである。〔略〕(『九鬼周造全集』第三巻、二八三―二八四頁)

ここでは「諦念」との関係において「自然」が静的なものとして語られている。だが、一方、九鬼は、「自然」のうちに「生きる力の意気といふ動的な迫力」をも見る。「自然」には静的な面と同時に、動的な面もあると言うのである。

〔略〕自然とはおのづからな道であつた。道はたとへおのづからな道であつても苟くも道である以上は踏み行かなければならぬ。その踏み行く力が意気である。〔略〕(同上、二八六頁)

先の『偶然性の問題』では前後の文脈に関係なく、実に突然に『浄土論』が引かれていた。なぜ、『浄土論』なのだろうか。――ここからは推測になるが、親鸞聖人の言葉に触発されて、九鬼は偶然性を動的なものとして理解したのではないだろうか。「自然」についての理解が先にあって、その後、偶然性を動的なものとして理解しているかのようである。『偶然性の問題』に『浄土論』が引かれていることも九鬼が親鸞聖人に遇ったという一事を念頭に置かなければ、説明がつかないように思われる。

(『ともしび』2010年1月号掲載)

お問い合わせ先

〒600-8164 京都市下京区諏訪町通六条下る上柳町199
真宗大谷派教学研究所
TEL 075-371-8750 FAX 075-371-8723

親鸞聖人の生涯

2021-01-25
Hp九州教区「よみもの」より
TOPへ戻る