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闘いの歴史

闘いの記録

帝国陸軍

2021-01-03
日本機の液冷エンジンのかっこよさは異常w 日本陸軍 三式戦 II型 飛燕 涙滴風防型
Facebook森 一理さんの投稿
日本陸軍第244戦隊 戦隊長小林照彦搭乗機(昭和20年1月)飛燕1型丙

鹵獲機のB-17 、丸裸にしても、ただ驚くだけ、正に宝の持ち腐れ・・・か⁉

2021-01-01
記録によると開戦時フィリピンに在機していたB-17はD型が1機、E型が2機完全な形で日本軍に鹵獲されている。
Facebook森 一理さんの投稿

帝国海軍です。

2020-12-31
昭和15年12月31日の本日、海軍、二式大型飛行機艇試作一號が完成致しました。
昭和15年12月31日の本日、海軍、二式大型飛行機艇試作一號が完成致しました。
二式飛行艇、舊日本海軍が第二次欧州大戰中に九七式飛行艇の後継機として実用化した4發大型飛行艇。
初飛行は昭和16年。
略符號は「H8K」。
レシプロエンジン装備の飛行艇としては當時世界最高の性能を誇る傑作機とされる。
通称は二式大艇。
二式大型飛行艇とも言う。
なお、輸送型は「晴空」と呼ばれていた。
九七式飛行艇の後継機として、同じく川西航空機で生産された。 
聯合軍におけるコードネームは「Emily」。
「要求性能」
1930年代の日本海軍は、華盛頓海軍軍縮條約・倫敦條約によって對米劣勢を余儀なくされた艦艇勢力を補うため、陸上基地から發進して洋上の敵艦隊を捜索・攻撃する長距離攻撃機(雷撃・爆撃機)を装備することを構想し、中型飛行艇(中艇)/大型飛行艇(大艇)、中型陸上攻撃機(中攻)/大型陸上攻撃機(大攻)という發動機の双發・四發、發進基地の水陸に差を設けた體系を計画した。
その一環として最初に実用化された大艇が九七式飛行艇であり、最大速度は385km/時・魚雷2發を搭載した攻撃過加重状態での航続距離は約5000kmに達した。九七式飛行艇の更新用機材として「十三試大型飛行艇」として開發が始められた二式飛行艇は、攻撃飛行艇として、當時諸外國が一般的に飛行艇に求めていた性能を上回るものが要求された。
海軍の要求性能の一部を列記する。
最高速度…240ノット(444km/h)以上 
當時の主力戰斗機九六式艦上戰斗機と同等。
同時期の英國4發飛行艇サンダーランドの最高速度336km/時と比べると100km/時以上速い。
航続距離…偵察時7400km以上、攻撃時6500km以上 
いずれも一式陸上攻撃機やB-17爆撃機の5割増。
B-29爆撃機と比べても、30%近く長い。
20mm機關砲多数を装備した強力な防御砲火、防弾装甲。
雷撃を容易にするため小型機並の良好な操縦性。
1t爆弾または800kg魚雷2發搭載可能。
「開發経緯」
第一次欧州大戰が終わると列強各國は軍縮に転じ、軍艦の建造を自粛する海軍休日に入った。
日本海軍は仮想敵國の1つである亜米利加海軍に對する数的劣勢を航空戰力で補うことを企図し、海軍航空本部は昭和12年7月に「航空軍備に關する研究」をまとめる。
航続距離の長い大型陸上攻撃機を運用することを想定したが、日本が第一次欧州大戰後に國際聯合から委任統治領として託された南洋諸島の基地整備は難しく、大型飛行艇によるアウトレンジ戰法を模索するようになる。
川西航空機が開發した九七式飛行艇は、この構想を現実のものとした。
一方で4發エンジンを持つ大型陸上機を推す意見も強く、昭和13年4月18日に海軍航空本部技術部は「十三年度試製飛行機計画要求案摘要」で『十三試大型飛行艇』(川西)・中島十三試大型陸上攻撃機(深山)(中島飛行機)の計画要求案をまとめた。
中島の深山は、川西の二式大艇にとって文字通りライバルであった。
十三試大艇の正式試作發令は同年8月21日である。
飛行艇は、陸上機に比べると水面からの離着水のために「船」と「飛行機」の性質を併せ持たねばならず、機體は大きくなりがちで艇底の形状も空気抵抗が大きく、速度において陸上機より不利であった。
海軍側の要求は、陸上機なみの攻撃力を備え、大航続力をもった、高速機という、當時の飛行艇の水準をはるかに超える過酷なものであった。
製作担當の川西航空機は、九七式飛行艇を設計した菊原静男技師を設計主務者に任命し、設計制作を行った。
九七式飛行艇で自信をつけていた菊原は「よしきた」という気持ちで張り切ったという。
最重点目標は航続距離であった。
1939年(昭和14年)9月に第二次欧州大戰が勃發、日本と英吉利や亜米利加などとの緊張も高まる中、和田操航技廠長は昭和15年中に本機を完成させるよう厳命する。
同年12月29日、十三試大艇は川西鳴尾工場で完成、翌日試験飛行を行う。
方向舵の不安定さはすぐに解消されたが、過荷重重量28tで離水テストを実施したところ飛沫のためプロペラ先端が曲がり離水不能となる。
度重なる水槽実験の結果、艇體の小改造と波押さえ装置(通称かつおぶし)を装備することで飛沫を押さえることに成功。
1941年(昭和16年)3月26日に試作1號機が領収され、昭和17年2月5日に『二式飛行艇11型 H8K1』として制式採用が決定した。
先行していた本命の「深山」が失敗作となる中、二式大艇は高性能の四發大型飛行艇として完成した。
菊原は、「深山」の不運は失敗機である亜米利加のダグラスDC-4Eをベースにした事とした上で、二式飛行艇はゼロから基礎設計を行えたこと・重量管理統制が成功したことが両機の差になったと回想している。
「技術的特徴」
二式飛行艇の技術的特徴を列記する。
エンジンは當時最強だった三菱の火星シリーズと適切なプロペラ設計
細長い主翼と狭い胴體。
主翼のアスペクト比(主翼の付け根から先端までの長さ(翼長)を平均翼弦長で割った値、主翼の縦と横の比率・細長さを示す指標)は9に達し航続力と速度の調和を図った。
一般の飛行艇の胴體は、着水時の安定性を考慮し幅廣に作られていたが、本機では空氣抵抗を減らすためスリムになり、九七式飛行艇より約10%幅を抑えた一方で背の高い独特な形状となった。
軽量化と強度を両立するため波板構造や零式艦上戰斗機と同じ超々ジュラルミンの採用。
「採用」
操縦性を良くする親子フラップの採用
胴體前部下面の波消し装置(通称かつおぶし)の採用 
試作機が水上滑走中に高く波飛沫を巻き上げ、プロペラや尾翼を損傷したことから採用され、滑走中に生じる波飛沫を抑えることに成功。
このほかの機内設備としては機體前後部や上部の銃座は大型の20mm機銃に合わせて動力銃座を採用、胴體や主翼の燃料タンク(全14個、合計17080ℓ)には防弾を施し、索敵や哨戒では24時間近い長距離飛行を行うことから便所や仮眠用のベッド、食品を保管する冷蔵庫も設けられ、無線室も胴體前部と後部の2か所備えた。
なお、本機は胴體を細長く設計したことから水上滑走中に機體が跳ね上がるポーポイズ現象が起こりやすく、對策として機首ピトー管に横棒(「カンザシ」と呼ばれた)を取り付け、これと風防に描かれた細い横線を基準にして機體角度を保ったまま操縦することで解決した。
ただし川西で製作したマニュアルが前線部隊では全く読まれず、事故が続發した。
昭和19年2月-5月の実験で機體を改造することなく、操縦方法の改善により事故を押さえられることが判明した。
防水塗料の粗悪さから水密は不完全で、事故豫防のためにも底に溜まった水をバケツで汲み出す作業は欠かせなかった。
戰爭終盤になると機體疲労が進み、水漏れの傾向に拍車をかけている。
「派生機」
―H8K3―
二式大艇22型。
二式大艇12型(H8K2)の翼端フロートと後部上方20㎜機銃を引き込み式にし、空気抵抗を減らして飛行性能を向上させることを意図した機體。
1943年(昭和18年)2月13日に領収飛行を行って性能実験を行ったが、重量2トン増加、性能は原型機と全く變わらない上に水上性能も低下、2機の試作のみで終わった。
2機は第八〇一航空隊で実戰任務につき、たびたびB-24リベレーター爆撃機と誤認されたという。
1945年(昭和20年)3月に2機とも夜間索敵任務にて未歸還となった。
―輸送型―
海軍は十三試大艇の開發中から輸送型の改造を計画していた。
1942年はじめに海軍から川西に試作指示があり、十三試大艇試作1號機を輸送型H8K1-Lに改造、1943年11月30日に納入した。
仮称「晴空」三二型(H8K2-L)として、1943年に11機、1944年に24機が完成した。
1945年に二式大艇二三型(H8K4)を改造した「晴空」三三型(H8K4-L)も試作されたが、量産されなかった。
二式飛行艇輸送型の総生産機は36機であった。
―陸上爆撃機型―
二式大艇開發後、川西社内では次の機體開發について3案があり、強風を陸上機化した戰斗機開發、新型艦上攻撃機開發案、本機を陸上機化した爆撃機の開發案で、結局戰斗機開發が選択された。
なお、この二式大艇陸上機化案に「海軍でG9Kの記號を豫えた」とする説があるようだが、こうしたプランは公式のものではなく、海軍の実用機試製計画にも取り上げられていない。
実用機試製計画「K-100」が与えられていたのは、護改双發の十七試陸上攻撃機だった。
「活躍」
大型高速で充分な防御火器を装備した本機は聯合國パイロットから「フォーミダブル(恐るべき)」機體と呼ばれた(英國航空評論家ウィリアム・グリーン)。
制式採用直後の1942年(昭和17年)3月4日には、大航続力を生かして3機で真珠灣を再空襲した(K作戰)。
だが3月7日のミッドウェー島長距離偵察で、K作戰大艇隊指揮官橋爪寿雄大尉機が米軍戰斗機の迎撃で撃墜され、二式大艇最初の戰斗喪失機となった。
ミッドウェー作戰では本機が長距離偵察を行う計画であったが、米軍の妨害や天候のため実施されなかった。
その後も高速と航続力を生かしてエスピリッツサント島や濠太剌利本土、セイロン島、カルカッタといった長距離の偵察・爆撃に活躍した。
ソロモン諸島方面に投入された第八〇二航空隊の本機は、水上機母艦「秋津洲」の支援を受けて活動している。
1943年11月には、亜米利加軍のP-38ライトニング双發戰斗機3機と40分交戰した玉利義男大尉機が1機を撃退し、自機もエンジン2基停止と230箇所被弾、乗員1名負傷という状態で歸還、その後日本本土に戻された。
さらに1944年以降は、既に前線においては有効な編隊を組む事すら難しくなっていた日本軍多發機の中にあって、防御が弱かった一式陸攻などに比べると遥かに聯合軍にとって危険な相手だった。
B-25ミッチェルやB-17といった亜米利加軍の大型陸上機を積極的に追撃して撃墜した記録もある。
その攻撃力から「空の戰艦」などとも呼ばれた。
このように頑丈な本機であったが、1945年に入ると太平洋戰線においては聯合國軍に對して戰況が悪化して制空権が奪われ、敵戰斗機の攻撃が増えると足の遅さに加え重防御も耐え切れず、消耗していった。
機體を短時間で退避、隠蔽させることも難しく、基地や水上に置かれたまま聯合國軍機の空襲で破壊されたものもあった。
さらに川西航空機の生産力が局地戰斗機紫電改に集中したこともあって1943年末の時点で生産数が低下、1944年は二式大艇12型33機・輸送型「晴空」24機、1945年はわずか2機の生産であった。
製造に大量の資材を使い、航空燃料の消費も多かったことも、生産打ち切りの一因とされる。
また1945年3月の第二次丹作戰(銀河による長距離特攻作戰)に代表される長距離の索敵・誘導任務、トラックやラバウルといった孤立した基地への強行輸送・搭乗員救出などを行ったこともあって、成果を挙げると同時に損害も出している。
補充も望めない中、第五航空艦隊(宇垣纏司令長官)所属の二式大艇はレーダーを搭載して夜間索敵に活躍したが、亜米利加軍や英吉利軍らの夜間戰斗機・哨戒機の迎撃により少なからず被害を出している。
例えば前述の丹作戰・梓隊で特攻機を誘導した二式大艇3機のうち、生田中尉機は生還、杉田中尉機はPB4Y-2(B-24の哨戒機型)に撃墜され、長峯飛行兵曹長機はメレヨン島に不時着して水没処理され搭乗員は潜水艦で歸投した。
五航艦の二式大艇隊は、2月10日から終戰まで27機・約250名を失った。
終戰時に完全な状態で残っていたのは二式大艇5機、晴空6機のわずか11機であり、うち8機は終戰から数日で処分、もしくは移動中の事故で失われたため、進駐してきた聯合國軍から機體の引き渡しが通達されたときは詫間基地に残された3機を残すのみとなっていた。
また、海軍甲事件で戰死した山本五十六のあとを継いで聯合艦隊司令長官となった古賀峯一海軍大将が移動中に遭難し殉職した時には二式飛行艇の輸送機型「晴空」に乗っていた(海軍乙事件)。
古賀長官の1番機は燃料7割、福留繁聯合艦隊参謀長の2番機は燃料8割の時点で空襲警報があったため離陸、熱帯低氣圧に遭遇して墜落したのである。
なお、空襲警報は誤報であった。
通信科・暗號・氣象關係員が搭乗した3番機は無事に到着した。
「諸元」
正式名称       二式飛行艇一二型
略符號         H8K2
全幅           38.00m
全長           28.13m
全高           9.15m
翼面積         160m²
自重           18,400kg
正規全備重量     24,500kg
最大重量        32,500kg
發動機         三菱火星22型(離昇1,850馬力)
最高速度       465km/h(高度5,000m)
一一型433km/h
一二型470km
航続距離        7,153km(偵察過荷)
一二型8223km(同)
武装           20mm旋回銃5門、7.7mm旋回銃4門(3門は予備)
爆装           爆弾最大2t(60kg×16または250kg×8または800kg×2)
または航空魚雷×2
乗員          10 - 13名
「設計主務者について」
設計主務者である菊原静男技師は、その後海軍局地戰斗機「紫電」「紫電改」の設計を担當。
終戰後、川西航空機の後身である新明和工業で、再度國産飛行艇PS-1の制作に携わった。
(ウィキペディア参照。)

易々と死んでもらう訳にはいかないのでありました。

2020-12-29
東条元首相逮捕の顛末
1945年(昭和20年)9月11日:戦犯として逮捕される直前に拳銃自殺を図るも未遂に終わった東条英機・元陸軍大臣および参謀総長。
自殺を予測していたアメリカ軍はあらかじめ救急車を用意しておくという用意周到さで、
銃声が聞こえると一斉に踏み込んで治療を施し、
東條氏は奇跡的に九死に一生を得ることとなります。
後に東京裁判でA級戦犯として起訴され、
絞首刑が執行されています。 

P38

2020-12-27
山本長官機は、こちらから撃墜されました。
P-38 ライトニング(Lockheed P-38 Lightning)は、ロッキード社が開発し、アメリカ陸軍などで運用された三胴設計の双発単座戦闘機です。
1930年代後半、アメリカでは戦略型爆撃機B-17フライングフォートレスの開発が始まっていました。
アメリカ軍はそのような爆撃機に対抗する必要性も同時に認識していた為、迎撃用戦闘機を各メーカーに発注しました。
その際の要求として「最高速度580km/h」「上昇力は高度6500mまで6分以内」等 と言ったものでした。その要求をクリアしたのは、ロッキード社でした。それ以降改良が重ねられ1939年の9月にP-38として正式採用されました。
その時の最高速度は675km/hまで達していました。
 欧州では、戦略爆撃機の主力掩護戦闘機として活躍しました。
だが機体特性が類似するドイツ軍機(Bf109等)には苦戦を強いられました。
1943年6月、イタリア軍に鹵獲され数機のB-17が撃墜された記録があります。
後続であるP-51やP-47に役目を譲っていく事になりますが、終戦まで性能を生かして偵察機や爆撃機として活躍しました。 
太平洋では開戦当初、日本機に対し格闘性能で劣るP-38は辛酸を舐めさせられました。
簡単に撃墜できる事からP-38の名前からとって「ペロハチ(ペロりと喰えるP-38)」と呼ばれてしまいました。
だが、その最高速度を生かした一撃離脱戦法に切り替えると評価は一変。
日本のパイロットからは「双胴の悪魔」と呼ばれるようになり、立場は狩られる側から狩る側へと逆転しました。
1943年4月18日には連合艦隊司令長官・山本五十六搭乗機である一式陸攻を撃墜しています。
 日本軍機撃墜数は約3800機でF6F、F4Uに次ぐ第3位でした。
 しかし当初重視されていた一撃離脱戦法も、実際に使ってみるとそれほど上手くいかない事も分かりました。
P-38の主翼は厚く、速度が上がると(速度による空気の圧縮が進んでいくと)激しい振動を起こすことが明らかになったのです。
また欧州ではFw190のような新型機が登場して性能的に後れを取るようになり、速度では互角でも運動性では単発機に勝てないことが判明しました。
以降はアフリカ方面で戦闘爆撃機として活躍していくようになりました。
同様に日本相手では、速度で上回ったため一撃離脱さえ出来れば有利でしたが、一旦速度や高度を落としてしまえばなす術が無くなってしまいました。
さらに三式戦闘機による一撃離脱にも対策が進みつつありました。
また高高度迎撃機として開発されながらも日独共に自慢の火力で相手をしなければならないほどの重武装の爆撃機は少なかったのです。
そのため、P-38F以降は後部胴体(双胴)内部に爆弾倉を追加し、長距離戦闘爆撃機として主に太平洋で活躍していく事になります。
太平洋戦線では飛行場と目標が離れていることが多く、他の戦闘機では目標までたどり着けなかったからです。
 戦後にアメリカ陸軍のレシプロ戦闘機がP-51改めF-51に統一された後、他の用途に転用されることもなく、海外に展開していたP-38の多くは現地で廃棄処分となり消えていき、1949年までに全機が退役、一部はイタリア空軍に送られ、1956年まで使われていました。
またホンジュラスやドミニカ、中国にも少数機が売却されています。

闘いの転機

昭和19年1月26日の本日、東京・名古屋で初の建物疎開。

2021-01-26
Facebook英霊の本日の出来事

昭和19年1月26日の本日、東京・名古屋で初の建物疎開。
日本において當時の人の多くは家屋疎開とも呼んでいた。
空襲により火災が發生した際に重要施設への延焼を防ぐ目的で、防火地帯(防空緑地・防空空地)を設ける為に、計画した防火帯にかかる建築物を撤去する事である。
跡地は、人々の避難先や復舊時のゴミ・資材置き場として役に立ったが、投下された焼夷弾の数が多量だったため、本来の目的である防火帯としての役割はあまり果たさなかったと言われている。
一部の地域では「爆弾が天井に引っ掛かるので、天井板は無くした方が良い」といった説が流れ、残された住宅の天井板だけを撤去する事も行われた。
都市空襲の場合、投下された焼夷弾が屋根を貫通した後に天井板で止まり發火する場合が多く、それを防ぐには有効であったと思われるが、工業地帯等に投下された爆弾の重量は平均500kg~1tであり、薄い木製の天井板の有無で影響を受けるとは考えられない。
建物疎開にあたっては、行政機關がその候補を選定し、選ばれた家屋はほぼ強制的に撤去されたため、當時は「強制疎開」とよばれた。
建物疎開は終戰直前まで行われており、本土決戰に備えて人口2万人以上の小都市でも実施され、全國で約61万戸の建物が除却された。
また、建物の除却には移転補償の給付がなされたが、敷地に關しては買収形態のものと借地形態のものの両方が存在した。
建物の取り壊し作業は軍が破壊作業を行った後に付近住民などが撤去作業を行うという手順が一般的であった。
瓦礫の撤去に携わったのは主に國民學校高等科(12歳~14歳)の生徒(授業の一環として取り入れられていた)や、女性を中心とした「勤労奉仕隊」、病気などで徴兵對象から除外されていた男性などであった。
廣島へ原爆が投下された當時も廣島市内では既に数千人の學童を含む人々が屋外で建物疎開の作業に従事していた。
當日も彼らは既に作業を始めており、炸裂した原爆による被害を受けることとなった。
建物疎開の後は戰後そのまま道路になった場合が多く、代表的な例では横浜市の根岸疎開道路(馬場町~原町間)など数か所、廣島市の平和大通り、京都市の御池通の左京區川端御池から中京区堀川御池間、大阪市道の上新庄生野線の東成區玉津3丁目から生野區林寺2丁目間、都市計画道路難波片江線の生野區鶴橋2丁目付近などがある。
特に横濱のそれらと大阪市道豊里矢田線は地元住民から「疎開道路」と呼ばれている。
(ウィキペディア参照。)

自殺的戦死 山本五十六海軍元帥(1884年4月4日~1943年4月18日ブーゲンビル島上空で戦死)

2021-01-25
Facebook橋本 新さんより ラバウル基地での最後の写真。この後「海軍甲事件」アメリカ軍作戦名ヴェンジェンス作戦がおきる

俘虜記

2021-01-23
Facebook湯浅 宗浩  真珠湾攻撃で初めての日本軍人捕虜となった酒巻和夫氏のトヨタ自動車勤務時代。 昭和31年

学徒散華の記録

2021-01-23
富安俊助中尉(早稲田大・飛行予備学生13期、22歳)とエンタープライズ(USS Enterprise, CV-6)
Facebook橋本 新一


1945年5月14日緩降下後背面宙返りで垂直逆落としに体当りエンタープライズの前部エレベータの後部に激突炎上しエレベーターは吹き飛び船体に穴が開き2.2メーター浸水、ダメコン班が30分で火災を鎮火、エレベーターホールで富安中尉の遺体を発見。
遺体は米兵並みに丁重に水葬され、2020年に富安中尉の機体の一部と遺体にあった50銭札も家族に返還。

闘いには、旗印が必要でした。

2021-01-23
明治7年1月23日の本日、明治天皇が新編の近衛歩兵第一・第二聯隊に軍旗を親授なさいました。
Facebook英霊の本日の出来事より


明治7年1月23日の本日、明治天皇が新編の近衛歩兵第一・第二聯隊に軍旗を親授なさいました。
日本陸軍最初の歩兵聯隊は、明治7年1月20日西郷隆盛率いる御親兵を母體として誕生します。
この聯隊には大正・昭和の二代に亘る天皇が皇太子時代に、それぞれ聯隊付きとして在籍しました。
近衛歩兵第二聯隊は、近衛歩兵第一聯隊と同日に軍旗を親授された日本陸軍最古の歩兵聯隊です。
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