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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

鈴木大拙と柳宗悦

2022-10-18

facebookしんらん交流館さん曰く


鈴木大拙と柳宗悦

柳宗悦は、学習院高等科で仏教哲学者の鈴木大拙と哲学者の西田幾多郎に英語とドイツ語を学び、特に鈴木大拙とは、東洋・西洋という対立を超える視点を持ち合わせていたことから、終生師と仰いだといわれます。
1945(昭和20)年、大拙を訪ねた柳は、『日本的霊性』などの著書を贈られ、妙好人を深く知ることとなり、富山の五箇山の赤尾の道宗の足跡を、訪ね、また、鳥取で因幡の源左の調査につながりました。
大拙は後継者として柳を望んだともいわれ、大拙よりも先に亡くなった柳の死を非常に悼みました。

しんらん交流館ギャラリー展「柳宗悦がであった土徳~人と自然がはぐくんだ越中富山の美~」展を12月15日まで開催中。

しんらん交流館ホームページ
https://jodo-shinshu.info/2022/09/27/33041/ 
鈴木大拙館ホームページ
https://www.kanazawa-museum.jp/daisetz/

土徳

2022-10-18
【しんらん交流館ギャラリー展「柳宗悦がであった土徳~人と自然がはぐくんだ越中富山の美~」】

facebookしんらん交流館さん曰く


【しんらん交流館ギャラリー展「柳宗悦がであった土徳~人と自然がはぐくんだ越中富山の美~」】

土徳
この土徳という言葉は、富山県の南砺地方一帯にある精神風土を表した、柳宗悦による造語とされています。
南砺では、何十世代にもわたって積み重ねられたお念仏の生活、あらゆるものにありがたいと感謝しあう人々の心が土地に染み込み、目に見えない力として人々を育んでいます。
土徳ははじめから在るものではなく、自然と過去と現代の人がともに作りあげてきた土地のあじわいといえます。
しんらん交流館ギャラリー展「柳宗悦がであった土徳~人と自然がはぐくんだ越中富山の美~」展を12月15日まで開催中。
しんらん交流館ホームページ

富山の土徳を伝える「水と匠」HPより、
柳宗悦を引き寄せた土徳(どとく)の地今につづく信仰と「城端別院善徳寺」もあわせてご覧ください、

漢訳ということ

2022-10-16

facebook Yasuda Rizinさん曰く


1504
日本の聖書は、
これは日本人が直接ラテン語から翻訳したのではないのです。
漢訳を通して翻訳している。
キリスト教の聖書は
中国のほうに先に行っていたのです。
だから中国で先に翻訳された。
漢訳です。
それを参考にして
日本人が日本語の聖書を作ったのです。

和ということ

2022-10-06
暁烏敏の扁額「以和為貴」
暁烏敏の扁額

facebook杉原 米和さん曰く


《 ことばの栞 200    》
暁烏敏の扁額「以和為貴」
 暁烏敏(あけがらすはや・1877〜1954)は、真宗大谷派の僧侶。仏教近代化の旗頭だった念仏僧。清沢満之を師とし、藤原鉄乗、高光大船と共に「加賀の三羽烏」と云われた。以前、私は白山市北安田の明達寺を訪ねたことがある。境内には、生涯師と仰いだ清沢満之の像を安置した「臘扇堂」がある。「十億の母の歌」の歌碑などもある。
 
「十億の人に十億の母あらむも
 わが母にまさる母ありなむや」
         暁烏敏

中村久子という生き方

2022-10-06

「手足なくとも生かさるる人生に絶望なし」

中村久子さん(1968年死去)をご存じでしょうか。3歳で病気のために両手足を失うも、すさまじい努力と強い精神で、家事も仕事も自分で切り開いて生き抜いた人です。苦しみを引き受け「人間としてどう生きるか」を求め続けた久子さんの生涯を紹介します。

「料理も、裁縫も、掃除も、何でも見事にする人でした」

来日したヘレン・ケラー女史が『私より偉大な人』とたたえた女性・中村久子さんを、多くの方に知ってほしいのです。〉読者の鎌宮百余(かまみや・ももよ)さんから届いた手紙をきっかけに、編集部は一路、岐阜・高山市へ向かいました。 飛騨の小京都と呼ばれる高山市。この街で120年余り前に生まれた中村久子さんは、幼くして両手足を失うという過酷な運命を背負いながら、72年の生涯を全うした女性です。 「明るくて、曲がったことが大嫌いな人でした」と振り返るのは、手紙をくれた読者の鎌宮さん。久子さんが幼少期に暮らした家と、鎌宮さんの実家が近所で親戚のような付き合いをしていたことから、「久子おばさんは、私を孫のようにかわいがってくださいました」と話します。 「あれは小学3年の夏休み。久子おばさんが家に来て、短い腕でスイカをきれいに召し上がる様子をじっと見ていた私は、思わず『おばちゃん、どうしてスイカの汁がこぼれんの?』と聞いたんです。すると『最初に果汁を吸うのよ』と優しく教えてくれました。きっと、どうしたらきれいに食べられるのか、研究に研究を重ねられたのだと思います。料理でも、裁縫でも、掃除でも、手足のないことをこちらが忘れてしまうほど、何でも見事にする人でした」 久子さんは食事をするとき、短い右腕に巻いた包帯にお箸を差し、茶碗を左腕に乗せて、人の手を借りずにきれいに食べました。裁縫をするときは、縫い針を口にし、短い両腕で布を持ち、一針ずつ前へ縫い進めてゆきます。字を書くときは、太い字は筆を口に含んで、細い字は筆を右腕と右頬に挟んで書きました。 「久子おばさんは筆まめでした。私が20歳の頃、いただいた手紙にすぐ返事を書かずにいたら、『手のある人は筆不精ね』と言われ、何も言い返せませんでした」と鎌宮さんは回想します。 久子さんが亡くなった当時、23歳だった鎌宮さんは「最期の3か月間、おそばで看護させていただきました」と話します。 「本人が献体を希望して、遺体は岐阜大学医学部で解剖されました。体中がボロボロで、先生方は『生前、どれだけ苦しかったか……この体でよく72年間生きられました。お見事としか言いようがありません』と泣きながらおっしゃったそうです」 その死から約50年。久子さんの生涯は、いったいどのようなものだったのしょう。鎌宮さんの記憶やご本人が遺した記録をひも解いてゆきます。
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