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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

自利利他

2020-04-06
曇鸞大師の意(こころ)と主張
曇鸞大師の眼

623
私が非常に面白いと思うのは、誰が言い出したことか知りませんが、菩薩の十地ということです。
一歩一歩歩くから十地になるのです。
十という数に意味はない。
曇鸞大師は一歩一歩などということを考えるのは低い立場だと。
十地の教えというようなものも一時の方便だというようなことを言っている。

 

·627

誰が言い出したのか、トライアンドエラーと言うのです。
とにかくまぁ英米の考えでしょう。
ドイツのような考え方ではないのです。
非常に面白い考え方だと思う。
それでこれは偶然に思ったのだけれども、これが十地なのです。
トライアンドエラー、エラーアンドサクセス、というように失敗を無限に超える。
修道というものはものを積み重ねていくのが修道と思うけれども、そうではない。減らしていくのが修道です。
これが間違いだと知ってだんだん減らしていくのです。


624

曇鸞大師は一乗とか大乗とか他力ということを叫ばれたけれども、
しかし
曇鸞大師が言おうとするのは仏道を言おうとするのです。
飛躍があるのです。
超越、飛躍です。
こういうのが曇鸞大師の主張です。
その一歩一歩というものはどういうことかと。
まず最初は考えずにやれということです。考えていないでやってみよ、というわけです。
百年考えても一歩も動かなかったら何もやらないことだと。やるということから人間が出発するのです。
これが大事なことです。

同朋会運動について

2020-04-06
Yasuda Rizin

619

ある意味では大ざっぱでいかなければならない場合もあるでしょう。
こせこせせずに、大ざっぱで大きくいかなければならないこともあるのです。
そういう点も大事です。
念仏の共同体というものが他の共同体と区別される一点はどこにあるのかと。
教学という事実が他の共同体から念仏の共同体を区別する唯一の点なのです。
その教学というものの事業は何かというと、同朋活動(同朋会運動)というものだと。


 

620
同朋活動は一時的な運動ではないのです。
同朋の会を無数に作るということが唯一の事業だと。
だから同朋会というのは末端に在るのです。
どこに同朋会があるか、実績はどうかといえば、会が開かれていることしかないのです。
寺に皆を集めて法事をつとめてもそれは同朋会にはなりません。

 

 

621
そういう意味で大きく分ける点も必要なのです。
一番大きく分けた言葉が自利利他ということでしょう。
思想問題、宗教問題は何かというと自利利他円満ということが最も大きく仏教を摑んだ言葉です。
自利利他です。
自らも救われ他も救われるということです。
自利利他ということのほかに宗教問題はない。
つまり人間が完成することです。


 

622
自利利他で人間が完成するということが仏道だと。
人間をやめることが仏道ではない。
人間が人間として成就するということが自利利他円満です。
それが仏道だと。
これほど大きな掴み方はないでしょう。
ただ問題は、自利利他を考えている時にはなんでも自利利他円満ができると思うのです。
やってみると円満はできない。
だからこれが実践問題です。

親鸞にとっての源信僧都と法然上人

2020-04-03
真向かいになるということ

601
本願は、
初めに「国に地獄、餓鬼、畜生あらば正覚をとらじ」と。
「国」の願です。
これが大事なのです。
国というようなことは、
どこから出てきたのかということです。
これは非常に深い問題ではないかと思うのです。
なにかそこには、
本願というものは人間の祈りを、
人間に先立って、言い当てたと。
国というものは
天から降ってきたものではないでしょう。
人間の祈りなのでしょう。


 

603
人間の深奥の要求というものを、
人間に先立って、却って自己の問題とすると。
自己といっても
別に自己というものがあるわけではない。

宗教心です。
もっと言えば菩提心でしょう。

その菩提心が

人間の祈りを人間に先立って

自己の問題とすると。
こういうものが
本願というものだろうと思うのです。

 

604

観経疏の中に「弥陀の本国四十八願」という言葉があります。
本国の願だから本願なのでしょう。
そういうように、人間に先立って人間の問題を自己の問題とすると。
それが菩提心です。
宗教心です。
したがって、
そこに人間の予想を超えて
それが応えられていると。
人間は、
その人間に先立つような問題を持っているものが、
実は人間なのです。
不思議なことです。
自分の考えで考えた祈りではないのです。

考えよりも先に人間は問題を持っている。
 

605

それは人間の考えで解決できたと言えない。
言えないけれどもあきらめるわけにはいかないと。
そういう問題を菩提心というものが自覚してくるのです。
こういうように、
宗教心というものは人間と無関係にあるものではない。
人間そのものが
人間では出来ないような問題を持っている。
それが人間なのです。
それでないと
国土の本願というようなものが出てくるはずかないでしょう。
本願はどこか天から降ってきたようなものではないのです。


 

606
菩提心が人間の問題を自己の問題としているのが本願です。
だから人間は本願において自己に遇うわけです。
それで答えは南無阿弥陀仏が答えです。
これは思い通りになったのではない。
「予想を超えて」答えられている。


607
国の願は三悪趣が無いというような意味だったのです。
国は非常に低いところから始まっているのです。
それは本願というものは論文ではないので、
非常に低いところから出発しているのです。
三悪趣の無い国を祈ると。
これは源信僧都の言葉というのが非常に深いのです。
私は思いますけれども、
親鸞は初めは法然上人よりも源信僧都を慕われたのだろうと思います。
法然とは性格が正反対みたいなのです。


608
源信僧都というのは非常に内観的な人だったと思うのです。
それに対して法然上人は頑固者だったのではないかと思うのです。
その頑固というものの意味の深さはあとで分かってきたのです。
頑固ということは今の言葉で言えば
「知識人ではない」ということです。
知識人でないという意味は、ものを横から見ないというのです。


609
何でも第三者の立場に立つのが知識人です。
ものを横から見るのです。
横から見たら往相だの還相だのということはありはしない。
そうでしょう。
横から見れば往相も還相もない。
船に乗って我々は往相でいくのです。
そうすると岸は向こうから来るでしょう。
そうでしょう。
こちらの船に景色がどんどん向こうから近づいてくると。
そうすると自分が流れを遡っていることです。
だから自己が往なら、自己をとりまく景色は還です。
往還と。
そういうように世界が流動しているでしょう。
第三者にそんなことはありはしない。
船から降りてみよと。
何も船が往っているのではないと。
船から降りれば、傍観すれば往も還も無い。
そうでしょう。なにも「行」がない。
それが第三者です。


610

知識人、インテリゲンチャというのはそういうところに居るのです。
だからそういう人はその場その場の答えを出す。
それも多少は意味はある。
けれども、いざという場合は立場をすぐ変えてしまう。
変節する。
その時その時は巧みな答えを出すけれども、出ないようになると「これは私の考えだ」というような具合ですぐやめてしまうのです。
そういうところに知識人の不信任というものがあるのではないかね。あてにならない。

611

あてにすることが出来ない。
インテリゲンチャというのはその時その時で都合のいい答えを出してくれる便利な人です。
それはあてにできないでしょう。
だから法然のその頑固、知識人でないというところに初めて本当の人だと。
その人の言っている言葉には多少矛盾があっても頑固一徹だと。
こういうところに初めて、その人が生きていると、信頼できるのです

われわれにはちゃんと『御文』がある。

2022-11-10
facecbookYasuda Rizinさん曰く


1520

1520
『教行信証』を『御文』に。
これは容易ならないことでしょう。
誰もあんな具合に噛み砕けない。
そうでしょう。
消化していない。
ちょっと覗いてやめているわね(笑)。
蓮如上人という人は、そういうご苦労をされた人ではないかね。
まぁ今の日本の何々党でも『資本論』のようなものを振り回して、民衆だと言いながら民衆に通じない言葉ばかりしゃべっているわね。
だからあれは『御文』がないのです。
われわれにはちゃんと『御文』がある。
1525
蓮如上人の時というのは、今のような門徒はありはしないのです。
門徒も寺族も無い時代です。
蓮如さんの時には門徒制度は無いのです。
あれは家康から出来たことです。
政治勢力の下に宗教を封じ込んだわけですね。
京都の南禅寺の、金地院の住職に命じて造らせた制度です。
宗教政策ですね。
それがこんにちまで続いている。

第231回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」➂

2022-10-26
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki)

諸仏国土の共通の善根には、阿弥陀の一切衆生を救済せずにはおかない誓願が響いている。一切衆生の無上仏道への道筋が、阿弥陀の誓願によって、平等の大道として開示されているからである。大道であるからには、衆生の条件や状況を問わず、苦悩の有情(諸有として現実に存在している生存者)がある限り、平等に歩むことができる道でなければならない。その一切衆生に平等に呼びかける方法が、「諸有の衆生が名を聞く」(聞名)という方向性において開示されているのである。

 名とは一般的には言葉であり、いわゆる名詞である。本願において呼びかける名は、単なる名詞でなく、「聞かれるべき名」として、救われるべき衆生に対し、救い得るはたらきを内に蓄えている願心の言葉である。その言葉としての名の意味が衆生に聞き届けられるとき、名の具足する意味がはたらいて、衆生に本願の功徳が施与されるのである。本願の名は単に固有のものを指す名詞ではなく、本願によって「名が行である」とされる所以なのである。

 こういうことであるから、「名」が本願の選択摂取した「行」であるということには、名の意味が衆生によって聞き届けられる必要がある。そこに、親鸞が「行・信」という課題を展開された意味があるのである。すなわち、本願の誓う行とは、有縁の衆生が自分の意欲で行う行為という意味ではなく、諸仏によって平等に讃嘆される名となった行であるとされているのである。そのことをしっかりと聞いて信じ受け止めることが、衆生の救われる条件として待たれているのである。

 天親菩薩は『浄土論』に、この本願の聞名の道理を菩薩道の道理として展開している。『無量寿経』にある法蔵願心の因果の道理を、『浄土論』における菩提心の因果に照らし合わせると、どうなるのであろうか。『浄土論』では、菩薩道の五念門(自利・利他)は、利他の「回向門」において極点に達する。このことを、論主は「回向を首として大悲心を成就するを得るがゆえに」(「回向為首得成就大悲心故」)と述べている。

 この回向の因果の展開に、浄土を建立するという『無量寿経』の展開を差し挟むわけだが、それはどういう意味なのであろうか。ここに実は、曇鸞の『論註』の解釈において、回向には、「往相・還相」の二回向という菩提心の方向性を表すが如き言葉が出される必然性がある。この回向を往還の「二回向」に展開するという曇鸞の了解をくぐって、本願の仏道を「行・信・証」として解明することができると気づかれたのが、親鸞であった。こういう次第で、親鸞の『教行信証』の著述が誕生したのである。この天親の語る菩薩道は、『無量寿経』に照らせば、法蔵願心の菩提心の展開であり、その回向成就は、阿弥陀の大悲の回向成就であるというのである。

(2022年11月1日)

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