本文へ移動

ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

「門」ということ

2022-06-26

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1398
だから「門」ということも、
もっと言えばこれが「南無」ではないかね。
南無がほしいのです。
阿弥陀仏ばかりを求めても出てこない。
阿弥陀仏が南無になった。
だから我々は南無において阿弥陀仏に触れると。
南無阿弥陀仏の前に阿弥陀仏南無がある。
こう言うことが出来るでしょう。
南無がよく分からないのです。
それを南無を忘れて阿弥陀仏ばかりを探すのです。
そうするとそれは観想です。
観見ではない。
「道」、人は、道がほしいのです。
1397
二階から梯子が降りて来た。
それが登り得るという確信でしょう。
こちらがかけたものは届いているかどうかわからないでしょう。
浄土に生まれたいということは、
もっと徹底していえば
浄土に生まれるような「道」がほしいということです。
そうでしょう。
求道の道です。
人は、道がほしいのです。

善導様です。

2022-06-16

Facebook 根津美術館さん曰く


【阿弥陀如来:つながる教え】*English below.
浄土教を大成した唐代の僧・善導(613~81)が念仏を唱えたところ、口中から仏が現れたといいます。善導は浄土教で重要視される『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』の注釈書である『観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)』を著し、「南無阿弥陀仏」と口に出して唱える称名念仏を重要視しました。この著作は日本にも大きな影響を与え、源信が著した「往生要集」にもその内容が頻繁に引用されています。浄土宗の開祖である法然は、この「往生要集」を通じて善導の教えに触れ、そして生涯にわたり浄土宗の祖として崇めました。本作は、法然の夢に現われた善導の下半身が金色に輝き、法然の念仏布教を讃えたとする説話に基づいています。(-7/3)
・善導大師像 日本・室町時代 15世紀 当館蔵

浄土の問題は『観経』ではどうかというと、

2022-06-16
光は空気です。

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1389
浄土の問題は『観経』ではどうかというと、
韋提希夫人が初めて願に目覚めた時に
「我いま極楽世界の阿弥陀仏の所〈みもと〉に生まれんと楽〈ねが〉う」
と言った。
釈尊はそれまで沈黙を守っていた。
何も答えなかった。
言葉で韋提希を取り扱わない。
光です。
光は空気です。
沈黙の力
1390
夫人の前で釈尊はただ知らん顔していたのではない。
沈黙しておられたのです。
沈黙の力です。
問いには答えなかった。
けれども、答えなかったということは壁ではないのです。
沈黙ということは、
壁という面もあるけれども、
ただの壁ではないのです。
答えない限り壁ですけれども、
勝手にせよというような壁ではない。
何かそこに「空気」というようなものがあったのでしょう。
闇を照らすというのが沈黙の意味です。
1391
闇を照らすというのが沈黙の意味です。
ただ答えなかったわけではないのです。
それはどういうことかというと、自分が出した愚痴が、自分に返ってくる。
ですから答えないのです。
愚痴を取り上げない。
すると言った自分に返ってくるでしょう。
そのことから韋提希は韋提希自身を内観するようになった。
それまでは外を観ていたのです。
Facebook 宮岳文隆さんのコメント
曽我量深先生は、
例えば『曽我量深選集』第三巻中
「『二河喩』と『観経』」等によれば、
全く違う見方をしておられますね。
すなわち、
イダイケの恨みの言葉によって
胸中に大動乱を感じられたのは
釈尊ご自身であって、
答えなかったのではなく
実は一言も発することができなかったのだと

恵信尼消息

2022-06-05

Facebook 小栗洋慶さん曰く


親鸞聖人がご往生11/28ー亡くなられて通夜葬儀荼毘収骨を終えた、娘覚信尼さまは12/1母上がいます越後へ手紙を出す。その娘の手紙は12/20に親鸞さまの妻であり、覚信尼の母である恵信尼様のもとに届く。厳冬雪深き越後国ゆえ、その後京への便もなかったろう。年が明けて2/10心待ちにしていた京への便がでるという。どうしても娘に伝えておかねばならぬことがある。82歳の老女は急いで、夫親鸞さまの3つの逸話を書き記す。何度も読み直し、何十年も昔の「にき(日記)」まで調べなおして訂正し正確に事実を伝えようとする。現代の82歳ではない760ン年前の82歳の老女にとっては大仕事だったろう。

【いまはかかる人にてわたらせたまひけりとも、御心ばかりにもおぼしめせ】

ここしばらくずっと、このお言葉が頭をよぎる。いま確かめておかなければ、きっと忘れ去ってしまうだろう。最近はとみに記憶力が低下してチグハグやテレコに記憶しているか全く忘れているか。それはそれで良いのかも知れないが、少しでもご恩を偲ぶよすがを…との思い南無南無

現代語版聖典」
「この文を書き記してお送りするのは、聖人が生きておられた頃
には、いっても仕方のないことと思っていましたが、今となっては、
このようなお方であったということも、せめてあなたのお心にとど
めていただこうと思って、書き記してお送りします。字の上手な人
にきれいに書かせて、お持ちになってください。
 また、聖人のあの絵像一幅が欲しいと思います。あなたがまだ
幼くて八歳であった歳の四月十四日より、聖人がひどい風邪をお
ひきになった時のことなどを書き記しました。

 わたしは今年で八十二歳になりました。一昨年の十一月から去
年の五月までは、今か今かと死ぬ時を待っていましたが、今日まで
生きています。けれども今年の飢饉では、飢え死にしてしまうかも
しれないと思っています。このようにそちらへ手紙を差しあげるの
に、一緒に何もお送りすることができないのはもどかしくてなりま
せんが、どうすることもできません。
 益方殿にも、この手紙の内容を同じようにお伝えください。もの
を書くのも大変ですので、改めての手紙は差しあげません。
 「弘長三年」
  二月十日

恵信尼消息 2
 この文を書きしるしてまゐらせ候ふも、生きさせたまひて候ひしほどは、申しても要候はねば申さず候ひしかど、いまはかかる人にてわたらせたまひけりとも、御心ばかりにもおぼしめせとて、しるしてまゐらせ候ふなり。よく書き候はん人によく書かせてもちまゐらせたまふべし。
 またあの御影の一幅、ほしく思ひまゐらせ候ふなり。幼く、御身の八つにておはしまし候ひし年の四月十四日より、かぜ大事におはしまし候ひしときのことどもを書きしるして候ふなり

この先生は偉い人だと思ったのです。

2022-06-09

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1383
私はいつか金子先生と話をしていて、
この先生は偉い人だと思ったのです。
私は学生時代、
金子先生から唯識の講義を聞いたのです。
その金子先生が私に
「あなたは学生時代からずっと唯識の教学を学んでこられたが
   私も長い間唯識を学んできました。
   しかし自分のものにならないのです」と。
こういう具合にえらく正直な先生です。
私に唯識を講義してくれた先生です。
仏教で「学」、「学ぶ」というのは、
1382
仏教で「学」、「学ぶ」というのは、
世間では学のある人が偉い人だ、
学のない者はつまらない者だというけれども、
仏教ではそうではない。
学が無いということは
学する必要が無いということです。
それを阿羅漢という。
「無学」というのが阿羅漢です。
「有学」というのは学ばねばならない者をいう。
学者といったら我々が学者なのです。
世間と逆でしょう。
本当の、学ぶということが聞法なのです。
1385
たいてい皆、先生になってしまう。
そうでしょう。
私は金子先生に大変親しみがあるのですが、
そう聞かれて「自分は学生ですから」と言ったら、
金子先生が
「いや、学生と発音するから低いようですけれども、
ゆゆしき学生〔がくしょう〕というものがありますからね」と言われた(笑)。
私に唯識を教えた人が、
教えた学生に「あなたの境地は」と、
こういうことを聞くというのは、
えらい先生ではないかね
1387
ある人が皮肉を言ったのです。
曽我先生はそう言っておられますけれども、
先生の話を聞いて
みな分からないから眠っているでないですかと、
誰かが曽我先生に注意した。
そうしたら曽我先生は
「そうではない、みな感動して聞いているのですよ」と(笑)
1388
それから私らの学生時代、曽我先生が名古屋へ布教に行かれた。
そしたら先生が演台に立った瞬間に「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」と、前に座っている連中が声を出して念仏し出した。
すると先生、「まだ早い」と(笑)。
それは、有り難くなるために来ているのです。
有り難くなりたいから来ている。
本当に聞法していないのです。
救われたいのではない、有り難くなりたいのです。
皆、ほとんどそうではないですか。
「まだ早い」と言ったのです、曽我先生は。おもしろいでしょう(笑)
TOPへ戻る