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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

宗正元先生の次のような言葉に出遇いました。

2022-03-26

Facebook 宮岳文隆さん曰く


宗正元先生の次のような言葉に出遇いました。
「南無阿弥陀仏は『汝、苦しみ悩んでおる者よ』と、そういうふうに苦しみ悩んでおる者を呼びかけ、苦しみ悩んでおる者に『心をこめて』呼びかけている言葉です。つまり、『心をこめて』という意味は、『敬い』と『愛情』を込めて呼びかけている言葉です。何か可哀そうだ、苦しみ悩んでいる者よ、可哀そうだなあ……といって呼びかけているのではないのです。そこに、無限の限りない敬いですね。それはどういう敬いかというと、自分の父母として、そこから私は生まれて来たんだと、自分の親として、限りない尊敬と、深い愛の心をもって『苦しみ悩んでおる者よ』と呼びかけておる、そういう言葉です」
「それまでは何か呼びかけがあるんだなあ、というような雲をつかむような話ですけど、ほんとに気が付いてみれば、これ程身近に、どのように生きてよいか分からない私どもを、呼びかけている言葉がある。
 そして、どのように生きてよいか分からない私どもにすべてを託しているのですね。そこから生まれるんだ、と。生まれ出てくる新しいいのちが、そういう人に一切を託しておる。生まれ出ようとするものが、唯、ひたすら、どうしてよいか分からない人を呼びかけ続けておる。
 だから、妙な言い方ですが、ある意味では、生れ出ようとするものが、親を求めているといってもよいのです」
「どういう人であろうと、法蔵菩薩と言われるようなそういう精神、そういう魂が生れ出る可能性を持っているのです。その人がどういう人であろうと、必ず法蔵菩薩と言われるような法蔵精神が生れ出て来る。そういう意味の人間信頼なのです」
「お念仏のほうは、呼びかけているその人自身の中から、法蔵菩薩が生れ出ようとして呼びかけているわけですけど、それを聞いている私どもの方は、それを自分に呼びかけている、そういう言葉だとは露知らずに、何を言っているのだろうか、と。外のことを考えているわけですね」
(『雲集』298号20頁~22頁掲載。昭和51年3月の仏教東北連区集会の記録「道を求めて」より転載したもの)

私は、南無阿弥陀仏を私どもの親様といただいてきましたが、実は南無阿弥陀仏のほうが、私どもを、自分を生み出してくださる親として手を合わせて呼びかけてくださっているなんて!こんな破天荒な、愛情のこもったことを言ってくださる方がおられるでしょうか!本当にびっくりです!

証と信

2022-03-22
Facebook Yasuda Rizinさん曰く 、
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仏教全体がそうなっているでしょう。
しかし親鸞は、
その困難な証は、必ずしも出来ないというわけ

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仏教全体がそうなっているでしょう。
しかし
親鸞は、その困難な証は、必ずしも出来ないというわけではない
と言っているのです。
本当に出来ないものが信だと。
こんな言葉はちょっと世界中に無いのではないかね。
真理を覚って仏に成るのは、
楽だというわけではないけれども、
必ずしも困難ではないと。
信が出来ないのだと。



「呼応」ということ

2022-03-19
藤原正遠先生の言葉

Facebook 宮岳文隆さん曰く


「私の道が開けたり、物欲のために迷わされなくなったり、
人生に光明が照らしたりするところには、
本願念仏のお働きくださる場所はないのです」  

清沢先生の言葉

Facebook 宮岳文隆さん曰く


清沢満之先生は「他力の救済」の中で、
「我、他力の救済を念ずるときは、我が世に処するの道開け、我、他力の救済を忘るるときは、我が世に処するの道閉ず。我、他力の救済を念ずるときは、我、物欲のために迷わさるること少なく、我、他力の救済を忘るるときは、我、物欲のために迷わさるること多いし。我、他力の救済を念ずるときは、我が処するところに光明照らし、我、他力の救済を忘るるときは、我が処するところに黒闇覆う」
このように述べておられます。

正遠先生は、この清沢先生の言葉を受けて、このように応答しておられるのですね。
正遠先生における「他力の救済を念ずる」中身です。
こういうのを「呼応」というのだろうと思います。

聖人』の『聖』という字

2022-03-17
「中国では
    どうも『聖人』の『聖』という字は  
     「聴く」という意味があるらしい」(河合隼雄・心理学者)

 河合先生の指摘されているように、
「聖」は、耳・口・王に分けることができる。
「聖人」は、
 神様のお告げを聞いて道理が分かる人の意味でもある。
関係を育む
関係を育む
 「一人の人格と他の人格との結びが人間関係であるとすれば、
      この相互間の結びを通して
     人が互いに影響し合う人格的なふれ合いを
     人格的な相互関係ということができる。
     この関係を生きることによって 
 人は人間らしく成長する」
   (小林純一・心理学者)
 人は人と会うことで、人となる。
   関係を育むことが、日々の生活でも大切だと思う。
 成長のためには、良き人と出会うことである。

覚りというのは

2022-03-14

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


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覚りというのは、
迷っている人間に対して
迷っているやつは勝手にせいというのではない。
迷っている人間を助けるために、覚り、
つまり真実自身が、
自分が、迷った人間にならなければならないと。
それで「悲願」というのです。
真実が自分自身で真実を隠して人間に妥協する。
あえて堕落するのです。
それが悲願です。
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