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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

西田幾多郎

2022-01-27
Facebook 菊池進さん曰く



「他力といわず、
   
     自力といわず、

      一切の宗教は

    この愚禿の二字を味うに外ならぬのである。」

西田幾多郎

異安心として大谷派から誤解された人です。

2022-01-24
親鸞の精神を現代に生かした人が清沢満之です。

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


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清沢満之という人が出られて、現代とか近代に親鸞の精神が復活したのです。
これは大谷派に出られたので大谷派が自慢するようだけれどもそうではないのです。
親鸞の精神を現代に生かした人が清沢満之です。
その意義を大谷派が自慢するというようなことを言うから間違ってくるのです。
むしろ異安心として大谷派から誤解された人です。

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


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その清沢満之の教団変革というものはいまだに完成しない。
今のような騒動が起こるのもまだ清沢精神が徹底していないからです。
今でもまだ混乱しているのは、それほど教団変革というものが困難ということです。
清沢満之は落在ということを言ったのです。
解脱が脱落になり脱落が落在になった。
これはもう本当に落ち切ったのではないかね。

人間の範疇

2022-01-21

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


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現前に、おいてある問題が解決できないのなら、人は解決をやめるより仕方がない。
やめられないなら行き詰るよりほか仕方がない。
そのように、問題がもつれる場合は、やめるか、あるいは行き詰ってしまうかです。
人間の範疇には、その2つしかないでしょう。
けれども、問題が解けないというなら、その問いをもつ立場を変えなければならないのです。
超越ということ

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


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自分を変えなければならない。つまり立場を変えるのです。
こういうところに超越ということがあるのでしょう。
いま立っている立場を変える。
問題を変えるのではない。
問題は変えるわけにはいかないでしょう。
立場を変えれば、解けない問題がおのずと解けてくる。

人間として生まれて、しばらくすると自我意識が発達してきます。

2022-01-17

Facebook 畑 正久さん曰く



大分合同新聞医療欄 「今を生きる」第407回
(令和3年8月23日掲載) 医療文化と仏教文化(233)
     人間として生まれて、しばらくすると自我意識が発達してきます。自我意識すなわち「思いの我」が出るのは4,5歳ぐらいでしょうか。その自我は自分の身体を管理支配するかのような振る舞いをします。しかし、それも生身の尽きる前にはなくなります。「思いの我」は主人公のように生きていますが、生物学的には「生きている身」の中の一部分だからです。
     とある自殺の名所があり、そこから道に出てきた男がいたので、村の人が「どうなすったんですか」と聞いたら、その男が「高い木で上で首をくくろうとしたら、枝が折れて落っこちた」と言うのです。それで「大丈夫ですか」と聞いたら、「いや、びっくりした。死ぬかと思った」と。自我は追い詰められて自死しようとしたのでしょう。それなのに、枝が折れて落ちた瞬間にハッと目覚めた。このエピソードには「本当は死ぬ気がないのに死のうとしている」人間の愚かさが歴然と現れています。
     また、某新聞に70代女性の次のような投書がありました。
     私は生まれつき体が弱く、祖父の結核が感染して活発な生徒ではなかった。県立高女を受験したが、結核のために不合格になりました。戦争中、虚弱児と障害児は非国民とさげすまされた。しかし、健康で県立高女に行った友人は,動員された軍需工場で、米機の機銃掃射によって命を失った。
     22歳の時に大量の血を吐いて絶対安静となり、悲観して私は死を決意しました。どの梁(はり)にひもをかけて首をつろうかと天井を眺めていたら、その天井がメラメラと燃え出したのです。私は思わず、ハダシで外へ飛び出した。近所の人が駆けつけてくれて鎮火しました。床に戻って私は考えました。「火事に驚いて逃げ出したのは、本当は生きたかったのだ」と。
     この女性は「生きている身」すなわち「思いの我」を含めた全体の私の本音の心に気付いたのです。多くの因や縁が仮に和合して生かされ、支えられ、願いをかけられて存在する「生きている身」は、自我の分別の善悪、損得、勝ち負けの思いを超えて、現実を受容して生きているのです。

忌中も無ェ!喪中も無ェ!日本仏教の一つ「浄土真宗」の特徴的な思想を解説

2022-01-17

「日本人は無宗教」?油断は禁物

科学技術が発達し、合理主義的な考え方が当たり前の世の中です。しかもそんな中、私たち日本人は常々「無宗教」などと言われており、これだけ見てみると現代の日本人はおよそ宗教的信仰心など持ち合わせていないように感じられますね。

現に、かつては大真面目に信じられていた習慣で、今では「迷信」として退けられているものもたくさんあります。そういう意味では、私たちの中の宗教的信仰心は、昔に比べればだいぶ洗い流されているのでしょう。

しかし、それなのに、身内が亡くなった時の作法だけは今でもきっちり守られます。これも考えてみると不思議なことです。

例えば、身内が亡くなると「喪中」として、いつもと異なるお正月を過ごすのが一般的です。初詣はもちろん、新年の挨拶やおせち料理の内容なども制限されます。これらは、宗教や宗派ごとのルールに基づいています。


さて、ところが普通の宗派とは異なり、浄土真宗では「喪中」「忌中」の概念がなく、行動の制限がないとされています。これは浄土真宗のみに特徴的なことです。

宗教的信仰心が薄まっているからと言って油断していると、こういった宗派ごとの作法の違いを知らずにびっくりしてしまうことがあるかも知れません。浄土真宗ならではの特徴的な教えと作法を、以下で説明していきます。

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