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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

『左訓・字訓・語訓辞典』が完成いたしました。

2022-04-19
細川行信門下の長兄(田代俊孝師)の労作です。
出版元は、京都の法蔵館です。

*こちらの書籍は未刊です。現在、予約のみを受け付けております。

親鸞聖人自身の言葉による真宗用語辞典が誕生! 
親鸞聖人の著書の中に記された語註や用語説明を丹念に集めた、言葉の意味やそれがどのような意図で使われているかを正しく理解するために必要不可欠な辞典。現代文や解説付き。

【 推薦のことば 】
聖人の言葉の理解と遣いようが知れる最初の辞典   赤松徹眞(本願寺史料研究所長)
行き届いた編集内容は学びの羅針盤   池田勇諦(真宗大谷派董理院院長)
聖人の言葉の意味を確かめる座右の書   小川一乗(真宗大谷派真宗教学学会会長)
聖人の言葉を新たな角度から理解する助けに   徳永一道(浄土真宗本願寺派勧学寮頭)
厳密な教義理解に大いに資する   前田專學(東京大学名誉教授)

※推薦文の全文は、こちらをご覧ください。

願といえばもう行の実践概念です。

2022-04-17

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1334
「願」ということの意味は、
願いというものは作願というように「行」なのです。
願といえばもう行の実践概念です。
実践概念ですけれども、
実践概念の意識内容はどういうものかというと「欲」なのです。
欲というものによって願が成り立っている。
願は欲から始まる。
欲によって成り立った行を願という。
「願行具足」というのです。

教育ということは

2022-03-31

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1318
教育の問題が今、行き詰っています。
教育ということは
何か偉い先生から偉くない子どもが教えを受けると、
だいたい言うと
これが間違った考えです。
実際は、
子どもから教えを聞き出すのが
教師というものではないかね。
おもしろいことがあるのです。
それは
私の友達に訓覇君という人がいるのですが、
学生時代に
高光大船という人の教えを聞きに行ったのです。
教養の中には本願は無かった

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1324
その裸になった人間の中に動いている本願に出遇ったのです。
教養の中には本願は無かった。
教学を剥奪されてみたらその底に本願があったのです。
本願に出遇ったのです。
だから親鸞は、流罪になったおかげであったと。
流罪になったおかげで、本願に遇うことが出来たと。
流罪から教えられたのです。

忽然念起

2022-03-31

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1317
嘘というのは、
何か、立っているところが本来のところに立っていない
と自分で感ずるのではないかね。
どんなに迷った人間でも、
自分は迷っているということを感じているでしょう。
そうではないかね。
そういうのが「忽然念起」ということではないかね。

本願を聞いて信を獲(え)るということ

2022-03-26

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1310
問題は、本願を聞いて信を獲(え)るということ。
親鸞はそれを、これはもう「難中の難」だと。
信を獲ても、その信は、獲たからといって易信ではない。
獲た信がやはり難信だと。
信を獲た人が、たまわった信心は「これはこれは」と言って、難信です。
自分で作ったということではないのです。
そうでしょう。
自分で獲た信心なら、獲たら難が消えるはずなのです。
「かたじけない」
1311
それは獲(え)たままが難信だと。
獲ない人には難も易もないでしょう。
だから、難という字は不可能という意味ではないのです。
「かたじけない」という意味です。
信を獲るということは容易ならないことだと。
そのために仏が法蔵菩薩になられたのだと。こういうわけです。


軽いということが容易ではないということです。
1312
阿弥陀仏が法蔵菩薩の因位の行を行ぜられたというのはその意味です。
そうでしょう。
不可思議兆載永劫においての法蔵菩薩です。
仏が一切衆生となったというのです。
それで一切衆生を仏にするのだと。
それは容易ならないことです。
自分のたまわった信が自分の努力ではないと。
信は重いというのではない。
軽いということが容易ではないということです。
あぁそうだったかと。
「感動」
1313
「信」というものに力が入らない。
それは「感動」することです。
本願の教えを聞いて感動すること。
だからなんでもない話なのです。
そのなんでもない軽いことが、容易ならないことなのだと。
我々において軽いと思えることは「本願の歴史が重い」のです。
それは、
仏自身が我々となって、その身を捨てた結果として、
我々に軽く信ずるということが成り立っているのです。
「浅きは深きなり」
1314
だから浅いのが深いのだというのです。
「浅きは深きなり」というのはそういう意味です。
深い背景があるから、我においては浅く見える。
「私の獲た信心は深いぞ」というような、そんなものは無いのです。
もし信心というものがそういうものであるなら、誰も入る者はいないでしょう。
信というものはそうではないのです。
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