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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

研究会

2022-06-07

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1381

それ以上のことが人間に言えるかね。
「私はこういただいている」と。
それが全部です。
「オマエもこういただけ」という権利は人間には無い。
そういう、出来ないことをやっているのが説教です(笑)。
おそろしいことを始めたものです。
こういう会は、研究会ですから説教は無いでしょう。
語る方が声が届くようにちょっと高くしてあるだけです。
よく聞こえるためにです。
研究会です

仁者

2022-06-04

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1379
釈尊が弟子に対しては「汝」と言わない。
「仁者」でしょう。
これは敬称です。
だから釈尊は人間としておられたのです。
我々も人間だが、
釈尊も人間の形をとっておられたわけです。
人間が人間に対しては、
先生と弟子であっても「あなた」と言うしかない。
どちらも独立者なのですから。
「汝」というのは、
真理が人間に対して言うのです。
1380
真理が、人間に対して、「汝」と。
生きている者と生きている者との間ではそういうことは出来ない。
「あなた」と言うしかない。
だから、
仏教を信じたというのはどういうことかというと、
「人に教える」ということは言えないのです。
説教ということはないのです。
「私はこういただいた」と。
それしか言えないのではないかね。

「親鸞」というのは、見破られた名なのです。

2022-06-02

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1375
真理に触れたら隠れる場所が無いのです。
天親菩薩は我信ずると。
「世尊我一心」と。
親鸞の場合は「親鸞」と、実名を挙げている。
愚禿親鸞と。
「私」とは言わないでしょう。
「私」というのは代名詞です。
「親鸞」は実名でしょう。
こういうところに
外国語に負けてない日本語があるのではないかね。
つまり言ってみれば、
「親鸞」というのは、見破られた名なのです。

親鸞という実名

2022-06-01

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1376
実名というのは代名詞ではないでしょう。
代名詞ならなんぼでも隠れることが出来るわね。
そうではない。
「親鸞」と言うときにはもう隠れる場所が無いと。
本願の中に見出された人間の自覚を「親鸞」と言ってある。
人間が本願を持っているのなら、
なんぼでも観想が許されるけれど、
そうではない。
本願の中に見出された自己です。
これは代名詞ではきかない。
実名なのです。

ものを言わなかったら

2022-05-27

Yasuda Rizinさん曰く


1372
前に、明晰かつ判明ということを言ったでしょう。
ギリシャの文化というか、あるいはインドの文化というか。
つまりもっと言えばアーリアの文化です。
アーリア人の伝統でしょう。
明晰にしてかつ判明ということを要求する。
暗示的なことは要求しないのです。
だからあちらではものを言わなかったら
意見が無いということになるのです。

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1373
こちらの、例えば腹でものを言うと。
「腹芸」といったことは外国では通じない。
日本の政治でもなんでもみな腹芸でやるから分からない。
闇取引というのは腹芸です。
そうでしょう。
だからソクラテスでも明晰かつ判明という定義を要求する。
宗教でも、宗教の定義を言ってみよと。
そう要求してくるのです。
その時に、明晰というのは夜が明けたこと。
それが明晰です。
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