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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

法蔵菩薩は昔ばなしではない。

2022-02-12

Facebook 田畑 正久さん曰く


説く心も仏の心であり
聞く心も仏の心であります
助ける仏があなたに宿善を成就し
求道心をおこさせ
やがて合掌して三宝に帰依せしめるのです
そのままが助ける仏の心そのままの廻向です
仏に向かって生きさせようとする仏の心以外に
仏に向かて生きようとする心はありません
信ずる心 念ずる心こそ
仏の心そのままの表れであります 【住岡夜晃法語】
法蔵菩薩は昔ばなしではない。
自分の肉体にひしひしと法蔵菩薩を感覚する。
これが宿業の自覚である。(曽我量深『歎異抄聴記』(東本願寺真宗文庫)p185)

人間になることが大事

2022-02-11

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1270
仏教を学ぶというのは教理じゃない。
もっと大きく、
人間が分かることが大事ではないですか。
この会でも
人間になることが大事であって、
坊主になることが目的ではないのです。
だから
文学というようなものも非常に重要です。
文学とか詩が分からないような頭に
信仰が分かるということはないでしょう。

念仏者というものは落在者だと

2022-01-28

qcebook Yasuda Rizinさん曰く


1258

自分が地獄になる。
つまり地獄を恐れない身になったのです。
それほど強いものはないでしょう。
地獄において浄土を証明すると。
地獄こそ本当の大安楽であると。
こういうようなものが生まれてくる。
それが、念仏者というものは落在者だと。
落第生というようなものです。
落ち切った者は登るよりほかに道がない。
1257

落ち切ったのです。
そうでしょう。
だから落在には自由になったとかそんな小さな誇りがない。
落ち切った。
地獄に。落ち切った者は登るよりほかに道がない。
ふつうの人は落ちはしないかと思って恐れている。
落在とは落ち切ったのだから、
地獄を外に見ていない。
自分が地獄になったのです。
仏法から落第したのです。
1259
清沢満之の落在というのは
仏法から落第したのです。
本願の信心の世界というのは
指導者の弟子になるということではない。
人間が人間を指導するということは出来ない。
わたしも指導された一人だと。
あなたも指導される一人だと。
これだけの話です。
人間が人間を指導することは出来ない。
1260
つまり、人間が人間を指導することは出来ない。
そうでしょう。
だから人間は人間に対して「来い」とは言えないのです。
「行け」と。
これだけです。
もし人間が人間に対して「わしの教えを聞け」と言ったら、
それは秘事法門です。
そういうものを秘事法門というのです。
1261
これは譬えですが、
人間が人間の奴隷になったら、
それこそ本当の奴隷にしてしまう。
しかし「法」の奴隷になってもいいと。
こういうのが脱落者です。
法の奴隷になってもいい。
奴隷になっても後悔しないと。
それを法は、奴隷にしないのです。
かえって法の主人にしてしまう。
えらい違いです。
死して生きる
1262
宗教、「死して生きる」というのは、
「たすからないものがたすかった」と。
こうなのです。
つまり、
たすからないものが、
たすかるようになってから、たすかるのではないのです。
たすからないものがたすかったと。
それで宗教になる。
それが死して生きるということです。
本当に人間に死なないから生きられない。
1263
本当に人間に死なないから生きられない。
死ぬるということが容易でない。
人間では出来ない。
人間が人間に死ぬるということは
出来そうだけれども出来ないのです。
しかし、信心で満足して死ぬることが出来る。
くやしくて死ぬるのではない。
満足、喜んで死ぬることを回向するものが信心です。
こう言えば信心ということがよく分かるのではないかね。

横超と云ふもの

2022-01-28

Facebook 菊池進さん曰く


「如何なる宗教にも、自己否定的努力を要せないものはない。
   一旦真に宗教的意識に目覚めたものは、何人も頭燃を救ふが如くでなければならない。
   但、その努力は如何なる立場に於て、如何なる方向に於てかである。
  神とか仏とか云ふものを対象的に何処までも達することのできない理想地に置いて、
  之によって自己が否定即肯定的に努力すると云ふのでは、典型的な自力である。
  それは宗教と云ふ ものではない。
  そこには全然親鸞聖人の横超と云ふものはない。
  最も非真宗的である。」 西田幾多郎

宗教心

2022-01-28

Facebook 菊池進さん曰く


「宗教心と云ふものは、
   多くの人の考へる様に、
   有限と無限とか、相対と絶対とか云ふ如き
過程的関係に於て生ずるのではなくして、
   我々の自己自身の存在が問はれる時、
   自己自身が問題となる時、 
はじめて意識せられるのである。」 西田幾多郎
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