本文へ移動

時機相応

時機相応について  時代の中で、この人は、どう生きたか?

阿部正弘 (江戸幕府老中) & 井伊直弼(江戸幕府大老)

2020-07-22

薩摩藩の第11代藩主「島津斉彬(なりあきら)」は、幕末に向けて、いち早く薩摩藩の近代化・富国強兵に勤め、福井藩主松平慶永(春嶽)、土佐藩主山内豊信(容堂)、宇和島藩主伊達宗城らとともに「幕末の四賢侯」とされる。斉彬は、薩摩藩の第10代藩主「島津斉興」の長男として、正室弥姫(周子)によって産まれ、その素性により、早くから斉興の世子とされた。
 

 

 島津斉彬が藩主に就任した時、すでに40歳を過ぎており、当時なら世子に座を譲って隠居してもおかしくない年齢であった。藩主に就任するや、一気に藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造など、積極的に様式技術を導入して、のちの幕末における薩摩藩の存在を示す実力を養成した。
 

 また、下士階級だった西郷隆盛や大久保利通を登用し、幕末の政局に大きく関与する人材を育成した。斉彬は、松平慶永・伊達宗城・山内豊信・徳川斉昭・徳川慶勝ら、幕政に影響力をもつ実力藩主らとも交流を持ち、幕府老中阿部正弘に幕政改革(安政の幕政改革)を訴えた。
 

 斉彬は取り巻く諸外国の情勢を熟知しており、黒船来航以来の難局を打開するには公武合体・武備開国をおいてほかにないと主張した。しかし、安政4(1857)年、阿部正弘が没すると、翌年、大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立する。第13代将軍徳川家定は虚弱で病弱で嗣子がなく、斉彬を含む四賢侯や斉昭らは、次期将軍として徳川(水戸)斉昭の子の「一橋慶喜」を推した。
 

 一方、大老「井伊直弼」は紀州藩主徳川慶福を推した。直弼は大老の強権を発動し、反対派を徹底弾圧する「安政の大獄」を開始し、その結果、慶福が第14代将軍「徳川家茂」となり、斉彬らは敗れた。安政の大獄は、将軍継嗣問題だけではなく、無勅許で結んだ日米通商条約調印への批判派への弾圧の要素が強かった。
 

 安政の大獄では、継嗣問題で敗れた徳川斉昭・一橋慶喜・松平春嶽・伊達宗城・山内容堂など諸大名が、隠居・蟄居・謹慎に処せられ、無勅許条約締結を批判する尊王攘夷派の梅田雲浜・橋本左内・吉田松陰らは、斬罪などの極刑に処せられた。島津斉彬は直接の処罰は受けなかったが、直弼の専横に反発し、藩兵5000人を率いて上洛し、朝廷に訴える計画をするも、出兵直前に鹿児島で急死し出兵は頓挫する。
 

 斉彬死後、薩摩藩の藩主は島津久光の実子忠義が藩主とされ、久光は後見役となったが、復権した斉興が生前は実権を掌握し、安政6(1859)年の斉興の死後は、久光が実質的な藩政を掌握した。島津斉彬が藩主であったのは実質7年であったが、その薫陶を受けた西郷隆盛や大久保利通が、幕末期の薩摩藩を仕切り、その遺志を継いだ形となった。
 

島津斉彬→久光 薩摩藩主

2020-07-22

薩摩藩の第11代藩主「島津斉彬(なりあきら)」は、幕末に向けて、いち早く薩摩藩の近代化・富国強兵に勤め、福井藩主松平慶永(春嶽)、土佐藩主山内豊信(容堂)、宇和島藩主伊達宗城らとともに「幕末の四賢侯」とされる。斉彬は、薩摩藩の第10代藩主「島津斉興」の長男として、正室弥姫(周子)によって産まれ、その素性により、早くから斉興の世子とされた。
 

 しかし斉興は、斉彬が元服しても一向に藩主の座を譲ろうとしなかった。斉興は、蘭癖と言われた祖父の8代藩主島津重豪の放漫藩経営で、薩摩藩が抱えた膨大な負債を、調所広郷を登用して、やっと健在な藩財政に戻したところだった。世子とした斉彬もまた、洋学に造詣が深く、西洋の技術を積極的に導入しようとしたため、これを祖父と同様の蘭癖とみなし、藩財政を破綻させるのではないかと危惧したためとされる。
 

 しかも、斉興の寵愛を得た側室「お由羅の方」が、自腹の「島津久光」を藩主に擁立しようと画策した。かくして、久光を擁立しようとする斉興・お由羅派と、藩の革新を期待する斉彬擁立派に分かれて、薩摩藩を二分する御家騒動となった。これが世にいう「お由羅騒動(高崎崩れ)」である。
 

 家老調所広郷も、健全藩財政維持の立場から斉興側に付いたが、斉彬派の一部は幕府老中阿部正弘に、薩摩藩の琉球密貿易の情報を流し、阿部に問責された調所広郷は、責任を取って江戸藩邸で自殺する事件が起こった。また、斉彬の継嗣らが夭折したことで、お由羅の方が呪詛して殺したという噂がながれ、それに対抗して斉彬派は、久光・お由羅を暗殺しようと謀議したとされ、斉彬派の重鎮らが一斉逮捕された。
 

 弾圧で孤立したかに見えた斉彬だが、一部藩士が斉彬縁戚の福岡藩主黒田斉溥のもとに逃れ、その取り成しで、幕府老中阿部正弘らに状況が伝えられ、幕府が介在して収拾にのりだした。斉彬に理解があった阿部らが差配して、将軍家慶からやんわりと斉興の隠居を勧める処置(茶器を贈り、隠居して茶でも飲んでいろとした)が採られ、遂に斉興は42年勤めた藩主の座を斉彬に譲り、斉彬が第11代藩主に就任した。
 

 島津斉彬が藩主に就任した時、すでに40歳を過ぎており、当時なら世子に座を譲って隠居してもおかしくない年齢であった。藩主に就任するや、一気に藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造など、積極的に様式技術を導入して、のちの幕末における薩摩藩の存在を示す実力を養成した。
 

 また、下士階級だった西郷隆盛や大久保利通を登用し、幕末の政局に大きく関与する人材を育成した。斉彬は、松平慶永・伊達宗城・山内豊信・徳川斉昭・徳川慶勝ら、幕政に影響力をもつ実力藩主らとも交流を持ち、幕府老中阿部正弘に幕政改革(安政の幕政改革)を訴えた。
 

 斉彬は取り巻く諸外国の情勢を熟知しており、黒船来航以来の難局を打開するには公武合体・武備開国をおいてほかにないと主張した。しかし、安政4(1857)年、阿部正弘が没すると、翌年、大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立する。第13代将軍徳川家定は虚弱で病弱で嗣子がなく、斉彬を含む四賢侯や斉昭らは、次期将軍として徳川(水戸)斉昭の子の「一橋慶喜」を推した。
 

 一方、大老「井伊直弼」は紀州藩主徳川慶福を推した。直弼は大老の強権を発動し、反対派を徹底弾圧する「安政の大獄」を開始し、その結果、慶福が第14代将軍「徳川家茂」となり、斉彬らは敗れた。安政の大獄は、将軍継嗣問題だけではなく、無勅許で結んだ日米通商条約調印への批判派への弾圧の要素が強かった。
 

 安政の大獄では、継嗣問題で敗れた徳川斉昭・一橋慶喜・松平春嶽・伊達宗城・山内容堂など諸大名が、隠居・蟄居・謹慎に処せられ、無勅許条約締結を批判する尊王攘夷派の梅田雲浜・橋本左内・吉田松陰らは、斬罪などの極刑に処せられた。島津斉彬は直接の処罰は受けなかったが、直弼の専横に反発し、藩兵5000人を率いて上洛し、朝廷に訴える計画をするも、出兵直前に鹿児島で急死し出兵は頓挫する。
 

 斉彬死後、薩摩藩の藩主は島津久光の実子忠義が藩主とされ、久光は後見役となったが、復権した斉興が生前は実権を掌握し、安政6(1859)年の斉興の死後は、久光が実質的な藩政を掌握した。島津斉彬が藩主であったのは実質7年であったが、その薫陶を受けた西郷隆盛や大久保利通が、幕末期の薩摩藩を仕切り、その遺志を継いだ形となった
 

後藤新平 東京市知事

2020-07-22
関東大震災からの東京復興の立役者

映画『カサブランカ』の二人

2020-07-22
ハンフリー・ボガード & イングリット・バーグマン

オードリー・ヘップパ-ン

2020-07-22
映画『ローマの休日』のラストシーン、王女会見の絵です。
TOPへ戻る