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時機相応

時機相応について  時代の中で、この人は、どう生きたか?

西竹一、Baron NISHI

2020-07-28
1936年、ベルリンに赴く陸軍騎兵大尉時代の西と見送りの妻子
戦車第26連隊所属の九五式軽戦車。硫黄島の戦いでアメリカ軍に鹵獲されたもので、砲塔側面に部隊マーク「丸に縦矢印」が見える

西 竹一(にし たけいち、1902年7月12日 - 1945年3月22日)は、日本陸軍軍人華族男爵)。最終階級陸軍大佐
愛称・通称はバロン西バロン・ニシ、Baron Nishi)。

1932年ロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技金メダリスト。西が獲得した金メダルは、2019年現在、夏季オリンピックの馬術競技で日本が獲得した唯一のメダルである。

帝国陸軍将校として騎兵畑を歩んでいたが、のちには戦車兵に転科し、第二次世界大戦末期の、硫黄島の戦いにおいて、戦車第26連隊として戦死した。

ウラヌス号と西武一大佐

2020-07-28
「大賞典障害飛越」で優勝したバロン西と愛馬ウラヌス号

徳川幕府、最期の将軍

2020-07-28

家茂の後継として、次期将軍に推挙された徳川慶喜(徳川宗家は継いだ)は、これを固辞して将軍職就任を拒み続け、12月5日に朝廷からの将軍宣下を受けようやく将軍に就任した。この辺りの慶喜の意図は不可解だが、この頃の慶喜は開国の不可避を認識しており、将軍職受諾は、幕府を主体にした開国体制への移行と本格的な近代化を視野に入れたものであった。

 

 慶喜政権とでも呼ぶべき徳川慶喜将軍の方針は、会津藩・桑名藩の軍事力のもと、朝廷との密接な連携を通じて幕政を維持しようというものであり、慶喜は将軍在職中一度も畿内を離れず、この後の幕末維新にかけて、政争は江戸ではなく京都・大坂を中心に展開された。

 

 その直後に、孝明天皇が急逝する。幕府・一会桑・薩摩藩・長州藩等の諸藩・公家・志士達の権力を巡る抗争の中で、朝廷の権威をもとに、独自の政治力を発揮した天皇であったが、その極端な外国嫌い長州嫌いの思いは、時代の流れに棹さす方向になりつつあった。端的にいえば、どの勢力からも「じゃま者」となってきたわけで、それ故に、その急死には暗殺説もささやかれる。

 

 徳川慶喜が将軍に就任すると時を同じくして、弱冠14歳の明治天皇が皇位に即く。かくして、幕府・慶喜政権と薩長討幕勢力が朝廷をめぐって、激しい争奪を繰り返し、幕末の急展開に突入してゆく。

2020-07-28

【19th Century Chronicle 1866年】

◎薩長同盟と幕府の権威失墜(1866年)

*1866.1.21/京都 薩摩藩邸(小松帯刀邸)において、坂本龍馬らの斡旋で、木戸孝允と西郷隆盛が「薩長同盟」を密約する。

*1866.4.14/大坂 薩摩藩士大久保利通が、長州征伐における薩摩藩出兵を拒否する旨の書を、幕府老中に提出する。

*1866.6.7/周防 幕府の軍艦が、長州藩領の周防大島を砲撃し、「第二次長州征伐」が開始される。

*1866.7.20/大坂 将軍家茂(21)が、長州征伐の指揮のため滞在した大阪城中で病死する。

*1866.8.1/豊前 長州勢が、小倉城を占領する。

*1866.8.20/ 家茂の喪を発し、一橋慶喜の徳川宗家相続を発表、慶喜は朝廷に働きかけ休戦の勅を求める。

*1866.8.21/長門・周防 征長の休戦勅命が下る。

*1866.12.5/ 徳川慶喜が、第15代征夷大将軍に就任する。

*1866.12.25/京都 孝明天皇(36)が急死する。

 

(薩長同盟)

 禁門の変以来の仇敵関係だった長州藩と薩摩藩は、慶応1(1865)年6月、坂本龍馬・中岡慎太郎などの仲介で、長州藩が必要としている(幕府から禁止されている)武器の購入を、薩摩藩の名義で購入するという話が実現し、和解の第一歩となった。そして慶応2(1866)年1月には、京都薩摩藩邸において、薩摩藩家老小松清廉(帯刀)・藩士西郷隆盛と長州藩代表の木戸孝允の直接会談が実現する。

 

 しかし両藩代表は、背景に藩民の強い自負心や敵愾心を背負っており、むやみに酒宴を重ねるばかりで、いずれからも本題を切り出せないまま数日が過ぎる。そこで、立ち会っていた坂本龍馬が、薩摩藩邸から近い小松帯刀邸に場所を移す提案をしたという。そしてやっと、慶応2(1866)年1月21日、6ヶ条の薩長同盟密約が成立する。

 

 同盟の内容は、直接の討幕にはまったく触れられていない。幕府による長州藩処分問題に関して、薩摩藩は長州藩を支援するという内容であり、直接対抗する相手は、当時京都政局を制圧していたいわゆる「一会桑政権」、すなわち一橋慶喜・松平容保(会津藩)・松平定敬(桑名藩)の3者であった。一橋慶喜は禁裏御守衛総督という立場であったが、固有の軍事力を殆ど保有しておらず、軍事的には会津・桑名両藩が担当していた。

 

 

孝明天皇

2020-07-28

【19th Century Chronicle 1866年】

 ◎薩長同盟と幕府の権威失墜(1866年)

*1866.1.21/京都 薩摩藩邸(小松帯刀邸)において、坂本龍馬らの斡旋で、木戸孝允と西郷隆盛が「薩長同盟」を密約する。

*1866.4.14/大坂 薩摩藩士大久保利通が、長州征伐における薩摩藩出兵を拒否する旨の書を、幕府老中に提出する。

*1866.6.7/周防 幕府の軍艦が、長州藩領の周防大島を砲撃し、「第二次長州征伐」が開始される。

*1866.7.20/大坂 将軍家茂(21)が、長州征伐の指揮のため滞在した大阪城中で病死する。

*1866.8.1/豊前 長州勢が、小倉城を占領する。

*1866.8.20/ 家茂の喪を発し、一橋慶喜の徳川宗家相続を発表、慶喜は朝廷に働きかけ休戦の勅を求める。

*1866.8.21/長門・周防 征長の休戦勅命が下る。

*1866.12.5/ 徳川慶喜が、第15代征夷大将軍に就任する。

*1866.12.25/京都 孝明天皇(36)が急死する。

 

(薩長同盟)

 禁門の変以来の仇敵関係だった長州藩と薩摩藩は、慶応1(1865)年6月、坂本龍馬・中岡慎太郎などの仲介で、長州藩が必要としている(幕府から禁止されている)武器の購入を、薩摩藩の名義で購入するという話が実現し、和解の第一歩となった。そして慶応2(1866)年1月には、京都薩摩藩邸において、薩摩藩家老小松清廉(帯刀)・藩士西郷隆盛と長州藩代表の木戸孝允の直接会談が実現する。

 

 しかし両藩代表は、背景に藩民の強い自負心や敵愾心を背負っており、むやみに酒宴を重ねるばかりで、いずれからも本題を切り出せないまま数日が過ぎる。そこで、立ち会っていた坂本龍馬が、薩摩藩邸から近い小松帯刀邸に場所を移す提案をしたという。そしてやっと、慶応2(1866)年1月21日、6ヶ条の薩長同盟密約が成立する。

 

 同盟の内容は、直接の討幕にはまったく触れられていない。幕府による長州藩処分問題に関して、薩摩藩は長州藩を支援するという内容であり、直接対抗する相手は、当時京都政局を制圧していたいわゆる「一会桑政権」、すなわち一橋慶喜・松平容保(会津藩)・松平定敬(桑名藩)の3者であった。一橋慶喜は禁裏御守衛総督という立場であったが、固有の軍事力を殆ど保有しておらず、軍事的には会津・桑名両藩が担当していた。

 

(第二次長州征伐)

 第一次長州征伐で恭順の意を示した長州藩だが、最終処分案はなかなかまとまらず、強硬姿勢を取る幕閣は、長州藩主父子の江戸拘引を命じ、一方で、朝廷から国是を評議するための上洛要請は無視を続けたが、らちがあかないため、幕府は将軍の西上を布告し、慶応1(1865)年閏5月22日、将軍家茂は上洛し参内した。以後、家茂は大阪城に滞在し、死去するまで江戸に戻ることはなかった。

 

 長州では、高杉晋作ら尊王急進派が実権を握り、農民なども含む諸隊を編成し、近代的な武装を整備し、討幕も辞さない藩論が形成されつつあった。そんな長州を、幕府は大きな脅威と感じ、第二次の長州征伐を企図したが、なかなか実現しなかった。長州側が交渉の引き延ばしを図るなか、英米仏蘭4国艦隊が兵庫に集結する兵庫開港問題などもあり、やっと慶応1(1865)年9月、将軍家茂が参内し、長州征討の勅許を得ると、同年11月には、幕府は諸藩に向けて長州出兵を命じた。

 

 京都の禁裏御守衛総督一橋慶喜や、京都守護職の会津藩主松平容保は、朝廷・幕府・諸藩の美妙なパワーバランスの上に成り立っているとの現状認識の下、保守派大名や幕閣の影響力が大きい江戸城勢力から将軍徳川家茂を引き離して、継続して将軍の畿内長期滞在態勢で公武一和を推進しようとしていた。

 

 慶応2(1866)年1月、幕府は長州処分の最終案を奏上し、勅許が下された。しかし長州側は支藩藩主を交渉に当たらせ、言を左右させて従う気配を見せず、その間にも、着々と長州は挙藩一致体制を構築していった。幕府は5月29日の期限をきり、長州が従わない場合は攻撃をするとした。結局、慶応(1866)2年6月7日、幕府艦隊の周防大島への砲撃で戦端が開かれた。

 

 長州側のわずが3000人に対して、幕府軍は総勢15万の大軍を擁し、石州・芸州・大島・小倉の四方面から攻め込む作戦をとったため、この戦いは「四境戦争」とも呼ばれる。しかし、幕府軍は諸藩の寄せ集め部隊で編成され、しかも幕府側に長州征討の大義が曖昧で士気が上がらなかった。その上、最強の薩摩軍が、薩長同盟の密約に従って、参加を拒否していた。他方、長州勢は、志願の農民なども交えた士気の高い諸隊などが、近代銃火器を装備し西洋戦術で訓練された屈強な部隊が迎えうった。

 

 周防大島はあくまでも緒戦であり、両軍が主力を投入した芸州口の戦いでは、5万の幕府軍に対し長州勢1000名で防御戦を戦い、長州側が圧勝した。各方面ともに、長州勢の奮闘が目立ち、幕府側として動員された諸藩兵には厭戦気分が蔓延していった。そんな戦況不利の最中の7月20日、大坂城に陣取っていた家茂が死去する。徳川宗家を継いだ徳川慶喜は、小倉陥落の報を受けると、朝廷に働きかけ、休戦の勅命を得る。

 

 家茂の後継として、次期将軍に推挙された徳川慶喜(徳川宗家は継いだ)は、これを固辞して将軍職就任を拒み続け、12月5日に朝廷からの将軍宣下を受けようやく将軍に就任した。この辺りの慶喜の意図は不可解だが、この頃の慶喜は開国の不可避を認識しており、将軍職受諾は、幕府を主体にした開国体制への移行と本格的な近代化を視野に入れたものであった。

 

 慶喜政権とでも呼ぶべき徳川慶喜将軍の方針は、会津藩・桑名藩の軍事力のもと、朝廷との密接な連携を通じて幕政を維持しようというものであり、慶喜は将軍在職中一度も畿内を離れず、この後の幕末維新にかけて、政争は江戸ではなく京都・大坂を中心に展開された。

 

 その直後に、孝明天皇が急逝する。幕府・一会桑・薩摩藩・長州藩等の諸藩・公家・志士達の権力を巡る抗争の中で、朝廷の権威をもとに、独自の政治力を発揮した天皇であったが、その極端な外国嫌い長州嫌いの思いは、時代の流れに棹さす方向になりつつあった。端的にいえば、どの勢力からも「じゃま者」となってきたわけで、それ故に、その急死には暗殺説もささやかれる。

 

 徳川慶喜が将軍に就任すると時を同じくして、弱冠14歳の明治天皇が皇位に即く。かくして、幕府・慶喜政権と薩長討幕勢力が朝廷をめぐって、激しい争奪を繰り返し、幕末の急展開に突入してゆく。

 

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