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時機相応

時機相応について  時代の中で、この人は、どう生きたか?

三人の新人刑事

2020-07-24
こんな3ショットがあったなんて(^^)!
初代新人刑事 マカロニ
2代目新人刑事  ジーパン
3代目新人刑事 テキサス

1974年、傷だらけの天使、俺たちの勲章でカリスマの地位を築いていった2人。
今や大御所となったテキサスの
新人時代。感慨深いですね。
それにしてもダブルスーツの萩原健一、
ジーパン姿にタバ
コを持った松田優作、
写真からでもオーラが全然違う!!

カッコ良すぎる!

アラン・ドロン フランスの俳優

2020-07-24
2020年現在、84歳をお迎えです。

井上準之助 と 團琢磨

2020-07-23

日蓮宗の僧侶である井上日召は、1931年(昭和6年)、政治結社「血盟団」を結成し、性急な国家改造計画を企てた。「天皇中心主義にもとづく国家革新」を目指す日召は、それにそぐわない政治経済界の指導者をテロによって暗殺すること計画する。井上日召は、政党政治家・財閥重鎮及び特権階級など20余名をリストアップし、血盟団メンバーに対し「一人一殺」を指令した。
 

 暗殺リストには、犬養毅・西園寺公望・幣原喜重郎・若槻禮次郎・団琢磨・鈴木喜三郎・井上準之助・牧野伸顕など、いずれも政・財界の大物が挙げられていた。テロの実行に連動して、軍部若手将校がクーデターを引き起こす計画であったが、綿密な実行計画な為されず見込み決行となる。「一人一殺」での暗殺目標と担当者を決定して、2月7日以降に決行としたが、諸事情が関係して実行できないものが多かった。
 

 2月9日、最初の犠牲者は、前大蔵大臣で民政党幹事長の「井上準之助」となった。井上は、濱口雄幸内閣で蔵相を務め金解禁を断行した結果、世界恐慌に巻き込まれて大混乱を起こした張本人として、そして予算削減を進めて日本海軍に圧力をかけたことが、第一の標的とされる理由となった。実行者は血盟団員小沼正でその場で逮捕され、井上準之助は病院に急送されたが絶命した。
 

 3月5日、日本橋にある三井本館の玄関前で、出社して来た三井財閥の総帥「團琢磨」が射殺された。実行者菱沼五郎も血盟団所属で、当初の枢密院議長伊東巳代治の予定が変更されて、最終的に対象とされた團を射殺した後、その場で逮捕された。当時の金解禁後の大不況の中で、團の率いる三井財閥がドル買い投機で暴利をむさぼり、私利私欲に走った財界の国賊として標的とされた。

井上日召(日蓮宗僧侶)

2020-07-23

井上 日召(いのうえ にっしょう、1886年4月12日 - 1967年3月4日)は、日本の宗教家、政治運動家、テロリスト。

日蓮宗僧侶としていわゆる近代日蓮主義運動の思想的系譜に連なり、戦前の右翼テロリスト集団「血盟団」、戦後の右翼団体護国団」の指導者を務めた。本名は井上昭。昭の字を分けて日召とす。 

(血盟団事件)
○2.9 [東京] 次期総裁の有力候補、民政党の井上準之助(64)が血盟団員に射殺される。
○3.5 [東京] 日本橋の三井銀行玄関で、三井合名理事長・三井財閥総帥の団琢磨(75)が血盟団員に撃たれ、翌6日、死亡する。
 

 日蓮宗の僧侶である井上日召は、1931年(昭和6年)、政治結社「血盟団」を結成し、性急な国家改造計画を企てた。「天皇中心主義にもとづく国家革新」を目指す日召は、それにそぐわない政治経済界の指導者をテロによって暗殺すること計画する。井上日召は、政党政治家・財閥重鎮及び特権階級など20余名をリストアップし、血盟団メンバーに対し「一人一殺」を指令した。
 

 暗殺リストには、犬養毅・西園寺公望・幣原喜重郎・若槻禮次郎・団琢磨・鈴木喜三郎・井上準之助・牧野伸顕など、いずれも政・財界の大物が挙げられていた。テロの実行に連動して、軍部若手将校がクーデターを引き起こす計画であったが、綿密な実行計画な為されず見込み決行となる。「一人一殺」での暗殺目標と担当者を決定して、2月7日以降に決行としたが、諸事情が関係して実行できないものが多かった。
 

 2月9日、最初の犠牲者は、前大蔵大臣で民政党幹事長の「井上準之助」となった。井上は、濱口雄幸内閣で蔵相を務め金解禁を断行した結果、世界恐慌に巻き込まれて大混乱を起こした張本人として、そして予算削減を進めて日本海軍に圧力をかけたことが、第一の標的とされる理由となった。実行者は血盟団員小沼正でその場で逮捕され、井上準之助は病院に急送されたが絶命した。
 

 3月5日、日本橋にある三井本館の玄関前で、出社して来た三井財閥の総帥「團琢磨」が射殺された。実行者菱沼五郎も血盟団所属で、当初の枢密院議長伊東巳代治の予定が変更されて、最終的に対象とされた團を射殺した後、その場で逮捕された。当時の金解禁後の大不況の中で、團の率いる三井財閥がドル買い投機で暴利をむさぼり、私利私欲に走った財界の国賊として標的とされた。
 

 警察は血盟団の組織的犯行であることを突き止め、裁判では井上日召・小沼正・菱沼五郎の三名が無期懲役判決を受け、また帝大七生社系(東京帝大の右翼結社)の四元義隆ら他のメンバーも、それぞれ実刑判決が下された。しかし、同じく関与した海軍側関係者からは逮捕者は出ず、計画に関わった海軍将校古賀清志らが、血盟団の残党を集めて五・一五事件を起こすという禍根を残す。
 

 有罪実刑となった井上・小沼・菱沼・四元らも、皇紀2600年(1940年)の記念恩赦で出獄する。彼らの多くは、戦後も右翼フィクサーなどで活躍することになる。
 

井伊直弼(榎戸幕府14代期の大老)と徳川斉昭(江戸幕府15代将軍慶喜の父親)

2020-07-23
幕末の争乱は、幕府内での覇権を賭けた代理戦争

◎安政の大獄

*1858.4.23/ 彦根藩主「井伊直弼」が、幕府大老に就任する。
*1858.6.19/ 幕府が、「日米修好通商条約」および貿易章程に調印する。
*1858.6.25/ 幕府は将軍家定の後継を、13歳の紀伊藩主徳川慶福(のち家茂)と定める。
*1858.7.16/薩摩 薩摩藩主島津斉彬(50)は、井伊直弼の措置に憤懣を抱き、藩兵5000名を率いて朝廷に訴えるため上京しようとするが、直前に急死する。
*1858.7.5/ 幕府は将軍継嗣問題をめぐり、南紀派の大老井伊直弼が、徳川斉昭・松平慶永ら対立した一橋派諸侯に謹慎を命じる。
*1858.8.8/京都 強固な攘夷論者の孝明天皇は、条約の無断調印と徳川(水戸)斉昭らの処罰に憤り、不満の密勅(戊午の密勅)を水戸藩に下す。
*1858.9.7/京都 若狭小浜藩士梅田雲浜らが逮捕され、「安政の大獄」が開始される。
*1858.10.23/江戸 越前福井藩士橋本左内が、江戸で拘禁される。
*1859.8.27/ 幕府が、前水戸藩主徳川斉昭に国元永蟄居、徳川藩主徳川慶篤に差控、一橋慶喜に隠居謹慎を命じ、一橋派を処罰する。
*1859.10.7/ 幕府が、福井藩士橋本左内(26)、頼三樹三郎(35)に死罪を、その他多くの者を処罰を申し渡す。
*1859.10.27/ 幕府が、吉田松陰(30)に死罪、その他多くを処罰。
*1860.3.3/江戸 水戸浪士と薩摩浪士計18人が、大老井伊直弼を桜田門外で襲撃、殺害する。(桜田門外の変)
 

 江戸幕府の大老に就任した彦根藩主「井伊直弼」は、米総領事ハリスによる通商条約の強引な要求に直面するとともに、一方で虚弱な第13代将軍将軍家定の継嗣問題と向き合うことになった。これらの幕府が抱えた重要問題への意思決定は、井伊大老が為す外ない状況で、井伊直弼は勅許の得られないまま日米修好通商条約に調印(1858.6.19)し、将軍家定の後継は、13歳の紀伊藩主徳川慶福(のちの家茂)と定めた(6.25)。
 

 幕府では、勅許を受けに老中堀田正睦が京に上ったが、頑強な攘夷派の孝明天皇は勅許を許さず、その直後に大老に就任した井伊直弼は、勅許無きまま条約の締結を決定する。その一方で、南紀派に近しい彦根藩主井伊直弼は、前水戸藩主徳川斉昭の実子「一橋慶喜」を推す一橋派の開明藩主らの意向を拒否し、紀州藩主「徳川慶福(後の家茂)」を14代将軍に決定した。
 

 これに怒った前水戸藩主「徳川斉昭」と長男である藩主徳川慶篤は、尾張藩主徳川慶勝、福井藩主「松平慶永(春嶽)」らと示し合わせ、「無勅許調印は不敬」として、直弼を詰問するために不時登城(定式登城日以外の登城)をした。直弼は「不時登城の罪は重い」とし、彼らを隠居謹慎などに処した。
 

 一橋慶喜による幕政改革を期待していたた薩摩藩主「島津斉彬」は、直弼に反発し、藩兵5000人を率いて上洛し朝廷に訴え出ることを計画したが、直前に鹿児島で急死、出兵は頓挫する。斉彬死後の薩摩藩の実権は、御家騒動で斉彬と対立して隠居させられた父島津斉興が掌握し、薩摩藩は幕府の意向に逆らわぬ方針へと転換することとなった。
 

 1858年8月には、朝廷工作を行なう水戸藩らに対して「戊午の密勅」が下された。孝明天皇が幕府の無断調印を批判し、諸藩に攘夷と幕政改革を推進するよう激を飛ばしたもので、立場をないがしろにされ威信を失墜させられた幕府は、大老井伊直弼による安政の大獄を開始、徹底的な弾圧を進めることになる。
 

 井伊大老は、幹部を自分の意に沿う老中に入れ替え、密勅の首謀者とした小浜藩士梅田雲浜を逮捕したのを端緒として、討幕陰謀などの口実で、多数の尊王攘夷派の志士(橋本左内・頼三樹三郎・吉田松陰など)や公卿・皇族(中川宮朝彦親王)らを捕縛し、厳しい処分を行った。また、無断で江戸城に登城した一橋派の一橋慶喜・徳川斉昭・松平慶永らの諸侯を、隠居謹慎蟄居などに処した。
 

 こうした大老井伊直弼の政策は、尊王攘夷派など反対勢力から強い反感を買った。なかでも、若年寄の安藤信正を水戸藩主徳川慶篤の下に派遣し、戊午の密勅の返納を催促し、さもなくば水戸藩を改易するとまでして迫ったことは、水戸藩の士民を憤激させた。水戸藩を脱藩した過激派浪士たちによって、直弼襲撃の謀議が繰り返され、その不穏な動きは幕府も関知していたうえで、大老の側近から警護の従士を増やすなどの勧めがあるも、井伊直弼は受け入れなかったという。
 

 安政7(1860)年3月3日朝、直弼を乗せた駕籠は雪の中を、外桜田の藩邸を出て江戸城に向かった。大老の行列が桜田門外を通り過ぎようとしていた時、水戸脱藩浪士中心の18名による襲撃を受け、最初に短銃で撃たれて重傷を負った直弼は駕籠から動けず、供回りの彦根藩士は狼狽して多くが遁走、駕籠を守ろうとした者も刺客に切り伏せられた。刺客は駕籠に何度も刀を突き刺した後、瀕死の直弼を駕籠から引きずり出し、首を刎ねた。享年46(満44歳没)。この事件を「桜田門外の変」と呼ぶ。

 
 大老井伊直弼は、反動政治家として、政敵を粛清し独裁的な幕政運営を目指した、と考えれば事は簡単だが、それほど一筋縄では行かないものがある。井伊直弼が大老に就任した時、のっぴきならない問題が二つあった。まず米国ハリス総領事が強引に通商条約の締結を求めていたこと。そして病弱な将軍家定の継嗣決定がひっ迫していたこと。このような決断をできる人材が幕府中枢におらず、そこで井伊直弼が抜擢されたというような状況であった。
 

 通商問題は、相手の力を見れば止むを得ないと(ほぼ誰もが)考えただろうが、予定した勅許が得られず、交渉現場担当者との行き違いなどもあり、やむなく無勅許での条約を進めることになった。これは大老が意図した手順と異なってしまい、徳川(水戸)斉昭ら改革派諸侯に介入する口実を与えてしまった。
 

 将軍継嗣問題では、攘夷派の筆頭であった徳川斉昭の子で、改革派諸侯が推す一橋慶喜は英邁の声は高いが、その方針は不明で何をするかはいまだ分からない。しかも改革派諸侯は、彼を推し立てることで、幕政への介在を意図していることは間違いない。それよりは気心の知れた紀州藩で、年端のいかない藩主徳川慶福(家茂)の方がコントロールがきくと考え、強引に決定した。
 

 この二つの決定により、その後の井伊大老の方向が決定づけられた。直弼は、幕府の体制立て直しには有力諸侯の協力が不可欠と考えていたが、それはあくまで幕府主導の下でなければならない。しかし徳川斉昭などは露骨に幕政に介在しようとし、それに島津斉彬や松平春嶽や山内容堂なども、一橋慶喜を擁立して、幕府への影響力を強化しようとしていた。
 

 これらの諸侯は、京の朝廷を利用して幕政を変えようとし、その朝廷には強固な攘夷主義者孝明天皇が存在していた。そして彼等の庇護の下で、過激な攘夷派志士たちが暗躍しつつあった。二つの重要問題を決断した井伊直弼にとって、それが招来した状況の中では、さらに次の決断をせざるを得なかった。それは、反対派の弾圧であり徹底粛清であった。それが「安政の大獄」の実態であったのではなかろうか。

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