本文へ移動

時機相応

時機相応について  時代の中で、この人は、どう生きたか?

井伊直弼(榎戸幕府14代期の大老)と徳川斉昭(江戸幕府15代将軍慶喜の父親)

2020-07-23
幕末の争乱は、幕府内での覇権を賭けた代理戦争

◎安政の大獄

*1858.4.23/ 彦根藩主「井伊直弼」が、幕府大老に就任する。
*1858.6.19/ 幕府が、「日米修好通商条約」および貿易章程に調印する。
*1858.6.25/ 幕府は将軍家定の後継を、13歳の紀伊藩主徳川慶福(のち家茂)と定める。
*1858.7.16/薩摩 薩摩藩主島津斉彬(50)は、井伊直弼の措置に憤懣を抱き、藩兵5000名を率いて朝廷に訴えるため上京しようとするが、直前に急死する。
*1858.7.5/ 幕府は将軍継嗣問題をめぐり、南紀派の大老井伊直弼が、徳川斉昭・松平慶永ら対立した一橋派諸侯に謹慎を命じる。
*1858.8.8/京都 強固な攘夷論者の孝明天皇は、条約の無断調印と徳川(水戸)斉昭らの処罰に憤り、不満の密勅(戊午の密勅)を水戸藩に下す。
*1858.9.7/京都 若狭小浜藩士梅田雲浜らが逮捕され、「安政の大獄」が開始される。
*1858.10.23/江戸 越前福井藩士橋本左内が、江戸で拘禁される。
*1859.8.27/ 幕府が、前水戸藩主徳川斉昭に国元永蟄居、徳川藩主徳川慶篤に差控、一橋慶喜に隠居謹慎を命じ、一橋派を処罰する。
*1859.10.7/ 幕府が、福井藩士橋本左内(26)、頼三樹三郎(35)に死罪を、その他多くの者を処罰を申し渡す。
*1859.10.27/ 幕府が、吉田松陰(30)に死罪、その他多くを処罰。
*1860.3.3/江戸 水戸浪士と薩摩浪士計18人が、大老井伊直弼を桜田門外で襲撃、殺害する。(桜田門外の変)
 

 江戸幕府の大老に就任した彦根藩主「井伊直弼」は、米総領事ハリスによる通商条約の強引な要求に直面するとともに、一方で虚弱な第13代将軍将軍家定の継嗣問題と向き合うことになった。これらの幕府が抱えた重要問題への意思決定は、井伊大老が為す外ない状況で、井伊直弼は勅許の得られないまま日米修好通商条約に調印(1858.6.19)し、将軍家定の後継は、13歳の紀伊藩主徳川慶福(のちの家茂)と定めた(6.25)。
 

 幕府では、勅許を受けに老中堀田正睦が京に上ったが、頑強な攘夷派の孝明天皇は勅許を許さず、その直後に大老に就任した井伊直弼は、勅許無きまま条約の締結を決定する。その一方で、南紀派に近しい彦根藩主井伊直弼は、前水戸藩主徳川斉昭の実子「一橋慶喜」を推す一橋派の開明藩主らの意向を拒否し、紀州藩主「徳川慶福(後の家茂)」を14代将軍に決定した。
 

 これに怒った前水戸藩主「徳川斉昭」と長男である藩主徳川慶篤は、尾張藩主徳川慶勝、福井藩主「松平慶永(春嶽)」らと示し合わせ、「無勅許調印は不敬」として、直弼を詰問するために不時登城(定式登城日以外の登城)をした。直弼は「不時登城の罪は重い」とし、彼らを隠居謹慎などに処した。
 

 一橋慶喜による幕政改革を期待していたた薩摩藩主「島津斉彬」は、直弼に反発し、藩兵5000人を率いて上洛し朝廷に訴え出ることを計画したが、直前に鹿児島で急死、出兵は頓挫する。斉彬死後の薩摩藩の実権は、御家騒動で斉彬と対立して隠居させられた父島津斉興が掌握し、薩摩藩は幕府の意向に逆らわぬ方針へと転換することとなった。
 

 1858年8月には、朝廷工作を行なう水戸藩らに対して「戊午の密勅」が下された。孝明天皇が幕府の無断調印を批判し、諸藩に攘夷と幕政改革を推進するよう激を飛ばしたもので、立場をないがしろにされ威信を失墜させられた幕府は、大老井伊直弼による安政の大獄を開始、徹底的な弾圧を進めることになる。
 

 井伊大老は、幹部を自分の意に沿う老中に入れ替え、密勅の首謀者とした小浜藩士梅田雲浜を逮捕したのを端緒として、討幕陰謀などの口実で、多数の尊王攘夷派の志士(橋本左内・頼三樹三郎・吉田松陰など)や公卿・皇族(中川宮朝彦親王)らを捕縛し、厳しい処分を行った。また、無断で江戸城に登城した一橋派の一橋慶喜・徳川斉昭・松平慶永らの諸侯を、隠居謹慎蟄居などに処した。
 

 こうした大老井伊直弼の政策は、尊王攘夷派など反対勢力から強い反感を買った。なかでも、若年寄の安藤信正を水戸藩主徳川慶篤の下に派遣し、戊午の密勅の返納を催促し、さもなくば水戸藩を改易するとまでして迫ったことは、水戸藩の士民を憤激させた。水戸藩を脱藩した過激派浪士たちによって、直弼襲撃の謀議が繰り返され、その不穏な動きは幕府も関知していたうえで、大老の側近から警護の従士を増やすなどの勧めがあるも、井伊直弼は受け入れなかったという。
 

 安政7(1860)年3月3日朝、直弼を乗せた駕籠は雪の中を、外桜田の藩邸を出て江戸城に向かった。大老の行列が桜田門外を通り過ぎようとしていた時、水戸脱藩浪士中心の18名による襲撃を受け、最初に短銃で撃たれて重傷を負った直弼は駕籠から動けず、供回りの彦根藩士は狼狽して多くが遁走、駕籠を守ろうとした者も刺客に切り伏せられた。刺客は駕籠に何度も刀を突き刺した後、瀕死の直弼を駕籠から引きずり出し、首を刎ねた。享年46(満44歳没)。この事件を「桜田門外の変」と呼ぶ。

 
 大老井伊直弼は、反動政治家として、政敵を粛清し独裁的な幕政運営を目指した、と考えれば事は簡単だが、それほど一筋縄では行かないものがある。井伊直弼が大老に就任した時、のっぴきならない問題が二つあった。まず米国ハリス総領事が強引に通商条約の締結を求めていたこと。そして病弱な将軍家定の継嗣決定がひっ迫していたこと。このような決断をできる人材が幕府中枢におらず、そこで井伊直弼が抜擢されたというような状況であった。
 

 通商問題は、相手の力を見れば止むを得ないと(ほぼ誰もが)考えただろうが、予定した勅許が得られず、交渉現場担当者との行き違いなどもあり、やむなく無勅許での条約を進めることになった。これは大老が意図した手順と異なってしまい、徳川(水戸)斉昭ら改革派諸侯に介入する口実を与えてしまった。
 

 将軍継嗣問題では、攘夷派の筆頭であった徳川斉昭の子で、改革派諸侯が推す一橋慶喜は英邁の声は高いが、その方針は不明で何をするかはいまだ分からない。しかも改革派諸侯は、彼を推し立てることで、幕政への介在を意図していることは間違いない。それよりは気心の知れた紀州藩で、年端のいかない藩主徳川慶福(家茂)の方がコントロールがきくと考え、強引に決定した。
 

 この二つの決定により、その後の井伊大老の方向が決定づけられた。直弼は、幕府の体制立て直しには有力諸侯の協力が不可欠と考えていたが、それはあくまで幕府主導の下でなければならない。しかし徳川斉昭などは露骨に幕政に介在しようとし、それに島津斉彬や松平春嶽や山内容堂なども、一橋慶喜を擁立して、幕府への影響力を強化しようとしていた。
 

 これらの諸侯は、京の朝廷を利用して幕政を変えようとし、その朝廷には強固な攘夷主義者孝明天皇が存在していた。そして彼等の庇護の下で、過激な攘夷派志士たちが暗躍しつつあった。二つの重要問題を決断した井伊直弼にとって、それが招来した状況の中では、さらに次の決断をせざるを得なかった。それは、反対派の弾圧であり徹底粛清であった。それが「安政の大獄」の実態であったのではなかろうか。

阿部正弘 (江戸幕府老中) & 井伊直弼(江戸幕府大老)

2020-07-22

薩摩藩の第11代藩主「島津斉彬(なりあきら)」は、幕末に向けて、いち早く薩摩藩の近代化・富国強兵に勤め、福井藩主松平慶永(春嶽)、土佐藩主山内豊信(容堂)、宇和島藩主伊達宗城らとともに「幕末の四賢侯」とされる。斉彬は、薩摩藩の第10代藩主「島津斉興」の長男として、正室弥姫(周子)によって産まれ、その素性により、早くから斉興の世子とされた。
 

 

 島津斉彬が藩主に就任した時、すでに40歳を過ぎており、当時なら世子に座を譲って隠居してもおかしくない年齢であった。藩主に就任するや、一気に藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造など、積極的に様式技術を導入して、のちの幕末における薩摩藩の存在を示す実力を養成した。
 

 また、下士階級だった西郷隆盛や大久保利通を登用し、幕末の政局に大きく関与する人材を育成した。斉彬は、松平慶永・伊達宗城・山内豊信・徳川斉昭・徳川慶勝ら、幕政に影響力をもつ実力藩主らとも交流を持ち、幕府老中阿部正弘に幕政改革(安政の幕政改革)を訴えた。
 

 斉彬は取り巻く諸外国の情勢を熟知しており、黒船来航以来の難局を打開するには公武合体・武備開国をおいてほかにないと主張した。しかし、安政4(1857)年、阿部正弘が没すると、翌年、大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立する。第13代将軍徳川家定は虚弱で病弱で嗣子がなく、斉彬を含む四賢侯や斉昭らは、次期将軍として徳川(水戸)斉昭の子の「一橋慶喜」を推した。
 

 一方、大老「井伊直弼」は紀州藩主徳川慶福を推した。直弼は大老の強権を発動し、反対派を徹底弾圧する「安政の大獄」を開始し、その結果、慶福が第14代将軍「徳川家茂」となり、斉彬らは敗れた。安政の大獄は、将軍継嗣問題だけではなく、無勅許で結んだ日米通商条約調印への批判派への弾圧の要素が強かった。
 

 安政の大獄では、継嗣問題で敗れた徳川斉昭・一橋慶喜・松平春嶽・伊達宗城・山内容堂など諸大名が、隠居・蟄居・謹慎に処せられ、無勅許条約締結を批判する尊王攘夷派の梅田雲浜・橋本左内・吉田松陰らは、斬罪などの極刑に処せられた。島津斉彬は直接の処罰は受けなかったが、直弼の専横に反発し、藩兵5000人を率いて上洛し、朝廷に訴える計画をするも、出兵直前に鹿児島で急死し出兵は頓挫する。
 

 斉彬死後、薩摩藩の藩主は島津久光の実子忠義が藩主とされ、久光は後見役となったが、復権した斉興が生前は実権を掌握し、安政6(1859)年の斉興の死後は、久光が実質的な藩政を掌握した。島津斉彬が藩主であったのは実質7年であったが、その薫陶を受けた西郷隆盛や大久保利通が、幕末期の薩摩藩を仕切り、その遺志を継いだ形となった。
 

島津斉彬→久光 薩摩藩主

2020-07-22

薩摩藩の第11代藩主「島津斉彬(なりあきら)」は、幕末に向けて、いち早く薩摩藩の近代化・富国強兵に勤め、福井藩主松平慶永(春嶽)、土佐藩主山内豊信(容堂)、宇和島藩主伊達宗城らとともに「幕末の四賢侯」とされる。斉彬は、薩摩藩の第10代藩主「島津斉興」の長男として、正室弥姫(周子)によって産まれ、その素性により、早くから斉興の世子とされた。
 

 しかし斉興は、斉彬が元服しても一向に藩主の座を譲ろうとしなかった。斉興は、蘭癖と言われた祖父の8代藩主島津重豪の放漫藩経営で、薩摩藩が抱えた膨大な負債を、調所広郷を登用して、やっと健在な藩財政に戻したところだった。世子とした斉彬もまた、洋学に造詣が深く、西洋の技術を積極的に導入しようとしたため、これを祖父と同様の蘭癖とみなし、藩財政を破綻させるのではないかと危惧したためとされる。
 

 しかも、斉興の寵愛を得た側室「お由羅の方」が、自腹の「島津久光」を藩主に擁立しようと画策した。かくして、久光を擁立しようとする斉興・お由羅派と、藩の革新を期待する斉彬擁立派に分かれて、薩摩藩を二分する御家騒動となった。これが世にいう「お由羅騒動(高崎崩れ)」である。
 

 家老調所広郷も、健全藩財政維持の立場から斉興側に付いたが、斉彬派の一部は幕府老中阿部正弘に、薩摩藩の琉球密貿易の情報を流し、阿部に問責された調所広郷は、責任を取って江戸藩邸で自殺する事件が起こった。また、斉彬の継嗣らが夭折したことで、お由羅の方が呪詛して殺したという噂がながれ、それに対抗して斉彬派は、久光・お由羅を暗殺しようと謀議したとされ、斉彬派の重鎮らが一斉逮捕された。
 

 弾圧で孤立したかに見えた斉彬だが、一部藩士が斉彬縁戚の福岡藩主黒田斉溥のもとに逃れ、その取り成しで、幕府老中阿部正弘らに状況が伝えられ、幕府が介在して収拾にのりだした。斉彬に理解があった阿部らが差配して、将軍家慶からやんわりと斉興の隠居を勧める処置(茶器を贈り、隠居して茶でも飲んでいろとした)が採られ、遂に斉興は42年勤めた藩主の座を斉彬に譲り、斉彬が第11代藩主に就任した。
 

 島津斉彬が藩主に就任した時、すでに40歳を過ぎており、当時なら世子に座を譲って隠居してもおかしくない年齢であった。藩主に就任するや、一気に藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造など、積極的に様式技術を導入して、のちの幕末における薩摩藩の存在を示す実力を養成した。
 

 また、下士階級だった西郷隆盛や大久保利通を登用し、幕末の政局に大きく関与する人材を育成した。斉彬は、松平慶永・伊達宗城・山内豊信・徳川斉昭・徳川慶勝ら、幕政に影響力をもつ実力藩主らとも交流を持ち、幕府老中阿部正弘に幕政改革(安政の幕政改革)を訴えた。
 

 斉彬は取り巻く諸外国の情勢を熟知しており、黒船来航以来の難局を打開するには公武合体・武備開国をおいてほかにないと主張した。しかし、安政4(1857)年、阿部正弘が没すると、翌年、大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立する。第13代将軍徳川家定は虚弱で病弱で嗣子がなく、斉彬を含む四賢侯や斉昭らは、次期将軍として徳川(水戸)斉昭の子の「一橋慶喜」を推した。
 

 一方、大老「井伊直弼」は紀州藩主徳川慶福を推した。直弼は大老の強権を発動し、反対派を徹底弾圧する「安政の大獄」を開始し、その結果、慶福が第14代将軍「徳川家茂」となり、斉彬らは敗れた。安政の大獄は、将軍継嗣問題だけではなく、無勅許で結んだ日米通商条約調印への批判派への弾圧の要素が強かった。
 

 安政の大獄では、継嗣問題で敗れた徳川斉昭・一橋慶喜・松平春嶽・伊達宗城・山内容堂など諸大名が、隠居・蟄居・謹慎に処せられ、無勅許条約締結を批判する尊王攘夷派の梅田雲浜・橋本左内・吉田松陰らは、斬罪などの極刑に処せられた。島津斉彬は直接の処罰は受けなかったが、直弼の専横に反発し、藩兵5000人を率いて上洛し、朝廷に訴える計画をするも、出兵直前に鹿児島で急死し出兵は頓挫する。
 

 斉彬死後、薩摩藩の藩主は島津久光の実子忠義が藩主とされ、久光は後見役となったが、復権した斉興が生前は実権を掌握し、安政6(1859)年の斉興の死後は、久光が実質的な藩政を掌握した。島津斉彬が藩主であったのは実質7年であったが、その薫陶を受けた西郷隆盛や大久保利通が、幕末期の薩摩藩を仕切り、その遺志を継いだ形となった
 

後藤新平 東京市知事

2020-07-22
関東大震災からの東京復興の立役者

映画『カサブランカ』の二人

2020-07-22
ハンフリー・ボガード & イングリット・バーグマン
TOPへ戻る