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逸品の世界

ちょっと気になる逸品の世界

【舞妓, 2021-09-19】 舞妓は美羽子さんです。 撮影場所は西来院。 Photo by ishihara takashi.

2022-01-07
Facebook 舞妓さん撮影会~写真のオープンデータ化さん曰く
【舞妓, 2021-09-19】 舞妓は美羽子さんです。 撮影場所は西来院。 Photo by idacchi.
【舞妓, 2021-09-19】 舞妓は美羽子さんです。 撮影場所は西来院。 Photo by K-amaboko.
「美羽子賞」
【舞妓, 2021-09-19】 舞妓は美羽子さんです。 撮影場所は西来院。 Photo by idacchi.
「舞妓さんトレカ賞」

京都時間『結 ~京都 花街の片隅で~』

2022-01-05

 

コロナ禍の京都・花街。

 

いま舞妓さんは何を思うのか。

 

その胸の内が知るために、日本髪の美容室に半年間カメラを据えた。

 

92歳の結髪師は「髪と一緒に心もほどけないように結ぶ」。

 

誰にも言えない悩みも打ち明ける舞妓たち。

 

先の見えない不安のなかで花街を去るのか、残るのか。

 

それぞれが選択する人生とは。

 

美容室で交わされる会話が主役のノーナレーションで描かれるコロナ禍の花街の物語。


西本願寺の大谷光瑞

2022-01-05
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【20th Century Chronicle 1902(m35)年】-2
◎大谷探検隊
*1902.8.15/ 西本願寺の大谷光瑞(27)ら探検隊一行が、ロンドンを出発して中央アジア探検に向かう。
 「大谷探検隊」は、日本の浄土真宗本願寺派(西本願寺)第22代法主「大谷光瑞」が、中央アジアに派遣した学術探検隊で、シルクロード研究上の貴重な業績を挙げた。1902(明35)年~ 1914(大3)年の間、前後3次にわたって行われた。
 第1次(1902年~1904年)は、ロンドン留学中の光瑞自身が、ロンドンから日本へ戻る途上で、本多恵隆・井上円弘・渡辺哲信・堀賢雄らとともに、ユーラシア大陸を横断する探検を行った。1902(明35)年8月、一行は列車でベルリンからモスクワに移動したあと、パミール高原を越え、カシュガル、ヤルカンド、タシュクルガンを巡り歩いた。
 タシュクルガンに到着後、大谷光瑞・井上弘円・本多恵隆の3人はカシミールとパキスタンを南下し、列車でインドに向かい、仏教遺跡を巡礼し、1903年3月、航路で日本に戻る。大谷光瑞は、父の法主大谷光尊が死去したため、法主継職のため帰国したが、渡辺哲信と崛賢雄の2人は中国新疆に残り、さらに各地の調査と発掘作業にたずさわった後、1904(明37)年5月に日本に帰国した。
 第2次は1908年~1909年、野村栄三郎・橘瑞超、第3次は1910年~1914年、橘瑞超・吉川小一郎によって行われ、仏教東漸の遺跡として、ホータン、クチャ、敦煌など中央アジア各地を調査した。その発見にかかる多量の美術品・文書などは、「西域考古図譜」・「新西域記」・「西域文化研究」に収録されている。
 三度にわたる探検の目的は、仏教東漸の経路を明らかにし、その後のイスラム教化で埋もれてしまった仏教遺跡から、経典や仏像・仏具を収集し、仏教の源流を確認することであった。当時、大谷光瑞が留学していた西欧では、ヨーロッパ列強が国策として、天然資源調査や植民地的侵略の先兵として、競って探検隊を未近代化地域に送り込んでいた。
 しかも当時、考古学は端に就いたばかりで、海外の探検屋たちには、一獲千金を狙って、遺物を略奪して売り払うことしか考えていないあぶれ物も多かった。そのような時期に、国の支援を受けることなく、専門の探検家でもない若い僧たちが、急ごしらえの組織で広大な西域を探査したのは、それこそ玄奘三蔵の西域仏跡巡礼に匹敵するともいえる。
 大谷光瑞は、第21世法主 大谷光尊の長男として誕生、はやくから次期法主として期待された。9歳で得度すると、上京して学習院や共立学舎で学ぶも続かず、京都に帰り前田慧雲に学んだ。父親の大谷光尊法主の時代は、明治維新の廃仏毀釈で仏教界は混乱の極みで、光尊法主は、教団の改革を進めるとともに、いち早く側近や有望な若手僧侶らを海外留学させて、宗門の近代化に努めた。
 これをうけて若き次期法主 大谷光瑞もロンドンに留学し、当時の敦煌文書発見などの考古学ブームの洗礼を受けた。かくして留学から帰国する途上での西域探索を実行する。さらに法主継職後も続行し、計3回にわたる発掘調査等を行った。法主としては教団の近代化に努め、日露戦争には多数の従軍布教使を派遣、海外伝道も積極的に進めた。
 大谷光瑞の業績は、大谷探検隊で蒐集発掘した考古学的遺産の学術的価値から見るか、仏教徒として、仏教の淵源を辿り、その後、本願寺派法主としての教団改革、さらには政治的参与を含めた、大谷光瑞その人の事績を評価するかで、かなり異なってくる。
 法主としての光瑞は、六甲山麓の岡本に二楽荘を設け、探検収集品の公開展示とともに、英才教育のための私塾である武庫中学を作ったり、園芸試験場、測候所、印刷所などを設置して、教育・文化活動の拠点とした。二楽荘の他にも、大連(浴日荘)、上海(無憂園)や台湾の高雄(逍遥園)、インドネシア(環翠山荘、耕雲山荘)などに別荘を設けた。
 しかし1914(大3)年、大谷家が抱えた巨額の負債整理、および教団の疑獄事件のため法主を辞任し、大連に隠退した。これらは、大資産家の跡取りが、散財して財を失うのと似ているように見えなくもない。しかも、孫文が率いていた中華民国政府の最高顧問に就任したり、太平洋戦争中の近衞内閣で内閣参議、小磯内閣の顧問を務めるなど、戦前の政治的参与もあり、戦後は公職追放となったまま、1948(昭22)年に没した。
 教団内部では、蓮如上人以来の大改革者とみなす見解もあるが、世間一般的には、大谷探検隊以外の事績に付いての評価は、必ずしも定まっているとは言い難い。これは晩年の戦争協力および公職追放という事実が、大谷光瑞の全体像を扱いづらくしているせいでもあろう。
(この年の出来事)
*1902.1.23/ 青森歩兵第5連隊第2大隊の将兵210名が八甲田山で遭難、死者199名をだす。(八甲田山死の彷徨)
*1902.9.2/ 東京専門学校が「早稲田大学」と改称し、10/19大学開設および創立20周年記念式典を行う。
*1902.10.6/ 横浜でペストが発生、やがて東京へも飛び火する。
*1902./12.17/ 小学校教科書をめぐる贈収賄事件で、各地で一斉検挙が始まり、100人以上が有罪となる。これを機に、国定教科書制度が採用されるようになる。(教科書疑獄事件)

大濠公園能楽堂、 35年前の柿落としも翁でした。

2022-01-04
Facebook 久野 貴子さん曰く
友枝昭世が来福するなんて、正に奇跡、令和四年観能行事は、 友枝昭世の翁でスタート。 感激しています 

友枝舞台にて 

令和3年友枝家謡初

例年3世帯が揃って行う謡初ですが、令和3年の友枝家の謡初はソーシャルディスタンスを保つため別々で行いました。
新型コロナウイルスが一日も早く終息し平穏が訪れる事を願って止みません。

2021年1月3日掲載

Tokyo Tower, Tokyo Prefecture. Photo by 川上一恵.

2022-01-06
Facebook Tokyo Camera Clubさん曰く
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