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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

【近衛声明】

2021-10-15
『Get Back! 30's / 1938年(s13)-2』
【近衛声明】
○1.16 第一次近衛声明発表。日中戦争、泥沼化へ。(国民政府を相手とせず)
○11.3 第二次近衛声明。武漢陥落後の新体制「東亜新秩序の建設構想」を発表する。(東亜新秩序建設に関する声明)
○12.22 第三次近衛声明。国民政府投降派に呼びかけ、日中国交調整の基本方針として「善隣友好・共同防共・経済提携」の近衛三原則をうたう。(近衛三原則)
*1月16日 第一次近衛声明(国民政府を対手とせず)
 1938年(昭和13年)1月16日、近衛文麿首相はトラウトマン工作に基づいた和平案提示に対し、蒋介石率いる国民政府が応じないことを原因として、交渉打ち切りの声明を発表した。
 近衛は声明の中で「国民政府を対手とせず」と述べ、同時に川越茂駐華大使に帰国命令を発した。これに対し国民政府側も許世英駐日大使の本国召還を決定した(1月20日に帰国)。これにより両国間の外交関係は断絶、日本政府は国民政府との話し合いを自ら放棄し、戦争終結の手がかりを失うことになった。
*11月3日 第二次近衛声明(東亜新秩序建設に関する声明)
 日本軍による広東、武漢の相次ぐ占領にもかかわらず、和平の見通しが立たなかったため、近衛は1938年(昭和13年)11月3日に再度声明を発表した。近衛は「国民政府といえども新秩序の建設に来たり参ずるにおいては、あえてこれを拒否するものに非ず」と述べ、前回の「国民政府を対手とせず」の発言を修正した。
 この声明の狙いは蒋介石と対立していた汪兆銘を重慶に移転していた国民政府から離反させることにあった。汪はこの後重慶を脱出し、昆明を経由してハノイに到着している。
*12月22日 第三次近衛声明(近衛三原則)
 1938年(昭和13年)11月、汪派の高宗武・梅思平と、日本政府の意を体した影佐禎昭や今井武夫との間で話し合いが重ねられ(重光堂会談)、11月20日、両者は「中国側の満州国の承認」「日本軍の2年以内の撤兵」などを内容とする「日華協議記録」を署名調印した。汪がこの後に重慶を脱出し、近衛は、1938年(昭和13年)12月22日に対中国和平における3つの方針(善隣友好、共同防共、経済提携)を示した。
 汪は撤兵の約束を反故にされたことに衝撃を受けたものの、この声明が日本との和平への道を開いたものと受け止め、滞在先のハノイから重慶の国民政府に向けて和平解決を要請する電報を送ったが、国民政府側はこの提案に反対し、汪から全ての職務と党籍を剥奪した。
 第三次近衛声明の2週間後、内閣総辞職し、対中交渉は平沼内閣に受け継がれた。
(以上、wikipediaより引用)
 第一次近衛内閣は、この一年の間に三度も「近衛声明」なるものを出した。上記記述では三つの近衛声明のつながりが分かりにくいが、これらをつなぐキーマンは「汪兆銘(おうちょうめい)」だと思われる。汪兆銘は辛亥革命での孫文の後継者的な立場にあったが、袁世凱や蒋介石にその地位を奪われる形になっていた。
 蒋介石国民党と毛沢東共産党とは、第二次国共合作が成立し抗日民族統一戦線を構築しつつあった。山間部でゲリラ戦に徹する共産軍にたいして、蒋介石国民党軍は日本の直面する敵であり、和平にも応じず頑強に抵抗姿勢を示したため、和平交渉を打ち切る第一次近衛声明を発表した。
 その後の日本軍による広東、武漢の相次ぐ占領にも蒋介石は和平に応じなかったため、和平グループの中心的存在となった汪兆銘を重慶国民党政府から離反させることを企図し、第二次近衛声明(東亜新秩序建設に関する声明)を出した。つまり提唱する「新秩序」に対応するなら、和平の交渉相手とするということで、その相手とは汪兆銘を指している。
 さらに続いて第三次近衛声明て、講和後の三原則方針を具体的に提示する。汪兆銘はこれを歓迎し、脱出先のハノイから「和平反共救国」を訴えたが、これに呼応する有力者は無く、重慶国民党政府は汪兆銘を永久除名しすべての地位を解除した。このすぐあと、早期停戦のツテを失った近衛は政権を投げ出す。
 近衛が与しやすしとして交渉相手に選んだ汪兆銘は、結局近衛と同じ優柔不断さで実権をもち得なかった。似た者同士が手を組もうとして失敗する例は、今でも多く存在する。交渉相手には、最も困難とされる相手を選ぶべきなのである。

セーラー服と機関銃 昭和9年5月

2021-10-11
Facebook「絆の会」さん曰く、目黒高女(現目黒高校)の女学生による射撃訓練 、この画像初めてみた。

1950年代の沖縄コザの街並み 

2021-10-06
Facebook 初瀬川隆司さん曰く、※カラー写真

出獄です。

2021-10-09

Facebook 石山 裕子さん曰く  

1949年、巣鴨プリズンを出所して、家族との再会を果たした元日本兵。
奥様の屈託の無い笑顔が、印象的です。

グレース・ケリーという人生

2021-09-14
Facebook 永井資久さん曰く
今日はグレース・パトリシア・ケリーの命日らしい。
今日はグレース・パトリシア・ケリーの命日らしい。
(Grace Patricia Kelly、1929年11月12日 - 1982年9月14日)
モナコ大公レーニエ3世妃、アメリカ合衆国の女優。
同時代の女優マリリン・モンローの明るさとセクシーさを前面に出した美貌とは対照的な、気品に満ちたそれが「クール・ビューティー」(cool beauty)と賛美された。人気絶頂の最中、ヨーロッパの君主と結婚し女優業から引退した。1982年9月13日、自らハンドルを握りローバー3500を運転して南仏のロックアジェルの別荘からモナコに戻る途中に脳梗塞を発症。そのまま急カーブの坂道でガードレールに激突し、道路横の崖を40メートルほど転落して自動車は大破した。事故後すぐに病院へ搬送されたが意識が回復しないまま翌日に死亡(52歳)。。。とある。
グレースほど美しい女優はいないと思っている。まさに「クールビューティー」にふさわしい気品と優雅さを兼ね備えた女性だろう。
溢れんばかりの才能と並みはずれた美貌、シンデレラストーリーを地で行く人生を送った。今宵は美酒とともにグレースとの一時を味わおうかw。
グレースに敬意と感謝を込めて。。。。合掌。
(以下ウィキペディアより抜粋)
生い立ち
1929年、ペンシルベニア州フィラデルフィアのアイルランド系カトリックの裕福な家に生まれた。父ジョン・ブレンダン・ケリー(John B. Kelly, Sr.)はスラム育ちの煉瓦職人であったが、上流階級の競技であるボート競技で頭角を現し、ボート関係者の嫌がらせにもめげず、オリンピックボート競技において1920年のアントワープオリンピックで2個の金メダルを獲得し一躍国民的英雄になった。そして1924年のパリオリンピックでも金メダルを1個獲得した。その後、彼は煉瓦製造会社を立ち上げ億万長者になった。母マーガレットはドイツ系で元モデルであり大学講師だった。父方の叔父はピューリッツァー賞を受賞した劇作家のジョージ・ケリー。兄は1956年のメルボルンオリンピックのオリンピックボート競技で銅メダルを獲得したジョン・ブレンダン・ケリー・ジュニア。
少女時代はおとなしく、赤い頬の人前に姿を現すのが苦手な子供で、3人姉妹の中でも真ん中のグレースが1番不器用であったという。その一方、ダンスやピアノを学び、やがて演技に興味を示すようになる。
女優時代
ハイスクール卒業後、家族の反対を押し切り女優を志す。ニューヨークでモデルのアルバイトをしながら演技を学び、1949年に舞台『父』でブロードウェイデビューした。グレース自身は舞台女優を目指していたが、その後、舞台の出演中にハリウッドから誘いがかかり、1951年、22歳で映画に出演しデビュー(『Fourteen Hours』)。この作品を見た製作者のスタンリー・クレイマーが『真昼の決闘』でゲイリー・クーパーの相手役に抜擢した。映画監督アルフレッド・ヒッチコックのお気に入り女優で『ダイヤルMを廻せ!』『裏窓』『泥棒成金』などの作品でヒロインをつとめている。
1954年に『モガンボ』でアカデミー助演女優賞にノミネートされ、1955年には俳優ビング・クロスビーの妻役でシリアスな演技を見せた『喝采』でアカデミー主演女優賞を受賞。
非常に恋多き女性として有名で、ゲイリー・クーパー、クラーク・ゲーブル、レイ・ミランド、ビング・クロスビー、ウィリアム・ホールデン、オレグ・カッシーニ、ジャン=ピエール・オーモンなどの、主に自分より年長の男性と浮名を流した。父親が彼女に冷淡な癖に、異性との交際には異常なほどうるさかったことも、背景にある。
結婚・公妃として
カンヌ国際映画祭で知り合ったモナコ大公レーニエ3世(在位1949年 - 2005年)と結婚。公妃となるため女優業を引退、1956年のミュージカル映画『上流社会』が最後の作品となった。なお、1966年の麻薬撲滅キャンペーン映画『悪のシンフォニー』にはグレース妃として特別出演している。挙式は、カトリックの伝統に沿い、グレースの出身地であるアメリカで行われることも検討されたが、最終的にはモナコで行われることになった。
1956年1月5日、婚約を発表。同年4月18日、モナコ大公宮殿にて法的な結婚式が行われた(The Civil Wedding)。翌4月19日、モナコ大聖堂(サン・ニコラ大聖堂)にて、カトリック式の挙式が行われた(The Cathedral Wedding)。これらの模様は、ヨーロッパ諸国で生中継された。
1982年9月13日、自らハンドルを握りローバー3500を運転して南仏のロックアジェルの別荘からモナコに戻る途中に脳梗塞を発症。そのまま急カーブの坂道でガードレールに激突し、道路横の崖を40メートルほど転落して自動車は大破した。事故後すぐに病院へ搬送されたが意識が回復しないまま翌日に死亡(52歳)。この事故死を受けてモンテ・カルロでは1日全てのカジノの営業を中止して喪に服した。
同乗していた次女のステファニー公女(当時17歳)は軽傷であり、9月26日に退院した。現地報道では、一時情報が錯綜し、ステファニー公女が運転していたとも報道された。真相は不明のままである。
9月18日、モナコ大聖堂にて葬儀が行われ、各国の王族・要人の他、フランク・シナトラらハリウッド俳優も参列した。
逸話
バラ「プランセス・ド・モナコ」(1982年)メイヤン作。彼女に献呈されることになっていたバラ(発表前に他界)。ピンクと白の2色は、モナコの国旗をイメージしている。
1957年に長女の妊娠をマスコミに悟られないよう、カメラを向けられた際、エルメスの鞄「サック・ア・クロワ」で腹を隠した。この事でバッグが有名になり、商品は「ケリーバッグ」と改名された。
ポール・ギャリコの小説『トンデモネズミ大活躍』に献辞があるが、これは、彼女が初めて作った陶製のネズミの置物を題材にした作品の執筆をギャリコに依頼しており、それを受けたもの。
日本文化を愛好し(特に華道をはじめ植物に関するもの)、モナコに日本庭園を造営することを希望していた。死後、レーニエ3世の指示によって、別府保男設計による本格的な日本庭園がつくられた。1994年に開園。庭園内の茶室「雅園」は、フランス語訳すると"Jardin de Grace"すなわち"グレースの庭"の意となる。
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