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闘いの歴史

データベース

Facebook 闘諍堅固

2021-04-09
とうじょう‐けんご 【闘諍堅固】 〘名〙 仏語。
五種ある堅固のうちの第五。または、五五百年(ごごひゃくねん)の一つ。仏滅後第五の五百年で、諸僧が互に自説の優位を主張し、争うことが多く、邪見のみにて仏法が姿をかくしてしまう時をいう。

「全戦没者追弔法会」の和讃

2021-04-04
Facebookしんらん響流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

闘いの記録

東久邇成子さま

2021-04-16

Facebook 永井 由紀夫さん曰く



昭和天皇と良子さまの第一子で、
御結婚前は照宮成子内親王
皇族の東久邇家へお嫁入りされ、
戦後は臣籍降下で平民として苦労に苦労を重ねられ、
5人の幼い子どもを残して35歳の若さでガンで亡くなられたお方です。
ご学友だった酒井美意子さんは
「学習院の錚々たる御家柄のプライドの高い女生徒たちが『このお方には敵わない』と敬愛したプリンセスの中のプリンセス」
「戦後の苦労の中でも輝きを増していった稀有なお方」
と語っています。
生まれた時は臣民はもとより良子さまのお母様までガッカリしましたが、
昭和天皇だけが
「女の子は優しいからいいね」
と仰いました。

· 今日4月15日(木)の築城基地! 対艦ミッション!

2021-04-15
Facebook川平 亨弘さん曰く  対艦ミッション!

· AH-64D アパッチ・ロングボウ

2021-04-15
Facebook渡辺直人さんより

戦艦大和と沖縄突入作戦(Battle of Cape Bohno)

2021-04-14

1945年4月 連合軍の沖縄上陸作戦阻止のため、連合艦隊司令部は、戦艦大和を旗艦とする水上部隊の沖縄突入を決意した。 この動画はこの作戦を時系列で描いたものです。



Midway (2019) The Battle of Midway

2021-04-14

闘いの転機

◎山本五十六司令長官の搭乗機撃墜

2021-03-25
Facebook佐々木信雄さん曰く
6月5日、日比谷公園で国葬がとり行われた。皇族、華族ではない平民が国葬にされたのは、これが戦前の唯一の例であった。
【20th Century Chronicle 1943年(s18)】
◎山本五十六司令長官の搭乗機撃墜
*1943.4.18/ 山本五十六連合艦隊司令長官が、ブーゲンビル島上空で搭乗機を撃墜され戦死する。
 1943(昭18)年3月中旬、ガダルカナル島から撤退を余儀なくされた日本軍は、ソロモンおよび東部ニューギニア方面への連合軍の反攻企図を妨ぐべく、連合艦隊独自の立案で「い号作戦」を実施した。第3艦隊母艦機を南東方面に展開し、ラバウル基地の基地航空部隊との連動で、ソロモンや東部ニューギニアの敵船団・航空兵力を攻撃し、敵の戦線を攪乱する目的で実行された。
 ミッドウェー、ガダルカナルの敗戦でかなり憔悴していたと言われる山本五十六長官は、「い号作戦」を直々に立案したとされ、この時、トラック島に泊留の連合艦隊旗艦「武蔵」を離れ、「い号作戦」を陣頭指揮するため、幕僚をしたがえてラバウル基地に来ていた。それまで、はるか北方のトラック島の旗艦の戦艦大和や武蔵の艦上で、好きな幹部と将棋やトランプにうち興じていて、「大和ホテル」「武蔵屋御殿」などと揶揄する声もあったという。
 山本は、ブーゲンビル島、ショートランド島の前線航空基地の将兵の労をねぎらうための計画をたて、幕僚とともにラバウル基地を飛び立った。この方面は日本海軍の制空権下にあり安全とされていたが、前線視察計画は関係方面に打電され、その暗号電文は米軍に傍受され解読されていた。この情報は、米海軍のチェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官にまで報告され、ニミッツは、山本長官が暗殺に足りうる人物か検証したが、山本の戦死が日本の士気が大きく低下させ得るとの報告があり、山本機攻撃を決断したという。
 1943(昭18)年4月18日、山本機がブーゲンビル島上空に差し掛かった時、米機16機に待伏せされ撃墜され、山本長官は戦死する。山本長官の撃墜は「海軍甲事件」と称して1ヵ月以上伏せられた。5月21日、大本営により公表されると新聞は連日報道を行い、日本国民は大きな衝撃を受けた。6月5日、日比谷公園で国葬がとり行われた。皇族、華族ではない平民が国葬にされたのは、これが戦前の唯一の例であった。
 山本五十六は、日米開戦に最後まで反対し、やむを得ず開戦になると、真珠湾攻撃を立案し、開戦直後の快進撃を支えた名将としてうたわれる。坂本龍馬が司馬遼太郎の小説で描かれたように、山本五十六も阿川弘之などの作品で人物像が形成されている側面がある。しかし、その指揮官や作戦立案の能力には、否定的な見解も多くみられ、将軍としてよりも軍政官としての適性を指摘する同僚もいたようである。
(この年の出来事)
*1943.1.31/ 独ソ戦のスターリングラード攻防で、ついに独軍が降伏する。
*1943.2.1/ ガダルカナル島から日本軍が撤退を始めるが、大本営発表はこれを「転進」と表現する。
*1943.9.8/ イタリアのバドリオ政権が、連合軍に無条件降伏する。
*1943.11.22/ ルーズベルト・チャーチル・蒋介石が、エジプトのカイロで会談、対日方針を定めた「カイロ宣言」を発表する。

· チェコスロバキア・ズデーテンに進駐しドイツ系住民に歓迎されるドイツ兵士 38年10月4日

2021-03-24
Facebook湯浅 宗浩さん曰く

◎皇紀2600年記念式典

2021-03-24
Facebook佐々木信雄さん曰く
*1940.7.22/ 第2次近衛内閣が成立。陸相に東条英機、外相に松岡洋右が就任し、総力戦体制を確立する。
【20th Century Chronicle 1940年(s15)】
◎皇紀2600年記念式典
*1940.2.11/ 皇紀2600年の紀元節には、全国11万の神社で大祭が行われ、難局克服の大詔が発布される。
*1940.11.10/ 宮城前広場で紀元2600年記念式典が挙行される。
 西暦1940(昭15)年は神武天皇の即位から2600年目に当たるとされたことから、日本政府は「紀元二千六百年祝典準備委員会」を発足させ、記念行事を計画・推進してきた。軍国主義が抬頭するなか、国威を発揚させ「神国日本」の国体観念を徹底させようという意図で、橿原神宮中心に極めて神道色の強い行事が遂行された。この年2月11日の「紀元節」には、全国11万もの神社において大祭が行われ、各地で展覧会、体育大会など様々な記念行事が催された。
 そして、11月10日、宮城前広場において内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催された。11月14日まで関連行事が繰り広げられて国民の祝賀ムードは最高潮に達した。また、式典に合わせて「紀元二千六百年頌歌」が作曲された。式典の模様は日本放送協会によりラジオで実況中継されたが、天皇の勅語の箇所は放送が中断された。初めて天皇の肉声がラジオで流されたのは、1945年終戦の玉音放送であった。
「紀元二千六百年頌歌」 https://www.youtube.com/watch?v=8cN4GJRInro
国民歌「紀元二千六百年」 https://www.youtube.com/watch?v=zYgKAzOoNsQ
 「皇紀」とは「神武天皇即位紀元」または「神武紀元」のことを指し、初代天皇とされる神武天皇の即位の年を紀元元年とした。「日本書紀」の既述では「辛酉の年」とあり、この年が西暦の紀元前660年1月1日と比定された。しかし古事記や日本書紀のその神話的な内容には考古学上の確証がなく、神武天皇(古事記では137歳、日本書紀では127歳まで生存とある)が実在した人物とは認められていない。
 とはいえ「西暦紀元」も、イエス・キリストが生誕した日を紀元とするが、そもそも「処女懐胎で生れた神の子」の生誕なども神話といえば神話、どこまで確かであるは似たようなものである。ちなみに、大日本帝国海軍の「零式艦上戦闘機(ゼロ戦)」のゼロは、皇紀2600年の末尾一桁から付けられたことに由来する。明治から戦事中まで、日本の陸海軍が用いた兵器の名称には、皇紀の末尾数字を用いたことからそうなった。
(この年の出来事)
*1940.6.14/ 仏政府がパリを退去、パリが陥落し独軍が無血入城。
*1940.7.22/ 第2次近衛内閣が成立。陸相に東条英機、外相に松岡洋右が就任し、総力戦体制を確立する。
*1940.11.23/ 大日本産業報国会が結成される。

老朽化で全機引退…自衛隊F4戦闘機「ファントム」ラストフライト 1機は各務原航空宇宙博物館で展示へ

2021-03-18

◎日米友好の「青い目のお人形」

2021-03-18
Facebook佐々木信雄さん曰く
*1927.2.7/ 大正天皇の大喪の儀が、新宿御苑葬場殿で行われる。
【20th Century Chronicle 1927年(s2)】-2
◎日米友好の「青い目のお人形」
*1927.3.18/ 「青い目のお人形」の歓迎会が、横浜港に停泊中の天洋丸で開催される。
 日露戦争後、満州の権益をにぎった日本と、中国進出をうかがうアメリカ合衆国との間には政治的緊張が高まっていた。また、アメリカ本国には日系移民が大量に移住し、アメリカ人の労働を奪うとして反感が強まっていた。そして米では、1924年ジョンソン=リード法(排日移民法)が成立し、日本国内では反米感情があおられた。
 そんな中、日米の感情対立を懸念したアメリカ人宣教師のシドニー・ギューリック博士は、「日本の雛祭りに人形を送ろう」と全米に呼びかけ、子供同士の日米交流を重視した親善活動を開始した。日本側でも、財界の重鎮である渋沢栄一が彼の提唱に共感し親善事業の仲介を担った。
 やがて、全米の家庭などから集められた総計12,000体をも超える「青い目の人形」は、日本に向う貿易船に分乗させられて、次々に横浜・神戸港に到着した。3月3日の桃の節句には、東京・大阪で歓迎式典が行われたあと、全国各地の小学校・幼稚園に配布され、一部は一般家庭にも贈られた。
 アメリカから友情の証として「青い目の人形」が日本へ贈られた後、日米関係委員会委員の渋沢栄一が外務省から依頼され、全国の役場や学校を通して集められた募金を元に製作された市松人形がアメリカに贈られることになった。桃の節句に贈られた人形への答礼として、日本からもクリスマスに人形を贈ろうということであった。
 先に到着した人形に遅れて、ミス・アメリカ及び各州代表48体の人形を乗せた天洋丸は、天候不良により遅延し3月14日に神戸港に到着、この3月18日に児童たちの出迎えを受けて歓迎式典を開かれた。代表人形は皇室に献上された後、子供たちの利用が多い東京博物館(現国立科学博物館)の上野別館に建てられた人形の家に展示されていたが、戦火の混乱でその殆どが行方不明となったとされる。
 日本に贈られた「青い目の人形」だが、太平洋戦争(第2次世界大戦)中には、敵性人形としてその多くが処分された。しかし、処分を忍びなく思った人々が隠し保存した人形が戦後に発見され、現存する人形は2016(平28)年5月現在、334体が確認されているという。
童謡「青い目の人形」 https://www.youtube.com/watch?v=OYFi5EVS6FQ
「あおい眼をしたお人形は アメリカ生れのセルロイド・・・」
 この「青い目の人形」という童謡を、幼い時に歌ったり聴いたりした人は多いだろう。この曲は実はこの時に贈られた人形を歌ったものではなく、先行する1921年に野口雨情作詞・本居長世作曲で発表されている。独自に日米の友情を築く意味で作られた楽曲であり、直後に起きた関東大震災のときには、アメリカで義援金を募る際にこの曲が歌われた。そしてまた、その後に贈られた人形たちも、この曲にちなんで「青い目の人形」と呼ばれたのであった。
(この年の出来事)
*1927.1.7/ アメリカン電話電信会社(ATT)が、太西洋横断無線電話サービスを開始、ニューヨークとロンドンの直通会話が可能になった。
*1927.2.7/ 大正天皇の大喪の儀が、新宿御苑葬場殿で行われる。
*1927.6.20/ スイスのジュネーブで日米英3国の海軍軍縮会議が開催される。
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