闘いの歴史
闘いの記録
P38
アメリカ軍はそのような爆撃機に対抗する必要性も同時に認識していた為、迎撃用戦闘機を各メーカーに発注しました。
皇軍航空母艦
帝国海軍航空隊です。
闘いの転機
大韓民国のクーデター
【20th Century Chronicle 1960年(s35)】
◎韓国 李承晩大統領失脚(4月革命)
*1960.4.27/ ソウルで李承晩大統領退陣要求デモが行われ、19日には暴動化、27日李承晩大統領は失脚しハワイに亡命。
1960年3月15日に行われた韓国の第4代大統領選挙で、大規模な不正が行われたと反発した学生や市民が、全国各地で大規模なデモを展開し、当時の韓国大統領李承晩を引きずり下ろすことに成功した。最も大規模なデモが発生した日が4月19日であったことから、「4.19革命」ないし「4月革命」と呼ばれる。
当時、李承晩は84歳と高齢であり、後継問題も視野に入れた選挙となった。1956年の前回大統領選挙では、与党自由党の李承晩大統領に対して、野党民主党の張勉が副大統領に当選するねじれ現象となっており、李承晩は自由党の政権継続を確実にするため、大統領権限の強化して、野党や民衆運動への干渉や弾圧で、独裁的な政権運営をしてきた。
大統領選挙で自由党は、李承晩大統領候補と側近の李起鵬副大統領候補で選挙戦に臨み、一方野党民主党は趙炳玉と張勉を正副大統領候補に立てたが、選挙運動中に趙炳玉が死去し、副大統領選挙が焦点となった。選挙戦は野党の張が優勢なまま選挙戦が進むと、政府与党は官僚機構から御用組織や暴力団まで動員して、徹底した不正選挙を行った。
3月15日の投票日当日、慶尚南道馬山(現昌原市)で、不正選挙告発の街頭デモを起こした市民にたいして、警察が無差別発砲してデモを鎮圧、8名が死亡、50名余が負傷する事件が起こり、さらに後日、催涙弾をぶち込まれた高校生の遺体が見つかると、反政府気運は全国的に高まった(馬山事件/3・15義挙)。
馬山事件をきっかけに各地で学生によるデモが発生し、4月18日には首都ソウル市の高麗大学校の学生約3,500名が市街地をデモ行進し、国会議事堂前で座り込みをした後、午後7時頃に大学に戻り始めていたところへ、警護責任者に指示された暴徒がデモ隊に襲いかかり、学生側に重軽傷者が多数発生した。
翌19日、ソウル市内の各大学生数万名が決起し、多数の市民も参加したデモ隊は大統領官邸である景武台を包囲したが、そのデモ隊に対し警察は無差別発砲を行い多数の死傷者を出した。これに激高した一部のデモ隊は、市内各所の警察官派出所、与党系新聞社などを襲い、同様の暴動は各地方都市に波及した。
全国各地で発生したデモによる犠牲者の数は死者183人・負傷者6,259人にのぼり、これに対し李政権は19日午後5時、ソウル・釜山・大邱・光州の各都市に戒厳令を布告したが、軍は政治的中立を維持、デモ隊鎮圧行動は行わなかった。また、4月21日には国務委員(閣僚)や自由党党務委員が辞表を提出するなど、政権側からも内部崩壊を示し出した。
こうした状況下の4月25日、全国27大学の教授400余名が集結し、大統領と国会議員らの辞任と再選挙の実施を求めて、整然としたデモが行われた。4月26日、学生と市民のデモは数万名に達し、国会議事堂や周辺一帯を埋め尽くした。周辺に説得された李承晩大統領は、やっと下野することを表明、翌27日、李承晩は国会に辞表を提出し、12年間の独裁に幕が下ろされた。
(この年の出来事)
*1960.1.4/ ジャン=ポール・サルトルと並び、戦後フランス実存主義の旗手とされたアルベール・カミュが自動車事故死する。
*1960.3.16/ ヌーベルバーグの旗手 ジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』が公開され、「不条理」な若者のヒーロー像が衝撃を呼ぶ。
*1960.3.28/ 1.5無期限ストに突入していた三井三池炭鉱は、ロックアウト解除をめぐって第1と第2組合で衝突、さらに泥沼化する。
*1960.5.16/ 慶応幼稚舎2年生の男の子が誘拐され、19日に死体で発見される。(正樹ちゃん誘拐事件)
*1960.11.8/ 米大統領選挙で、ジョン・F・ケネディが当選する。
テロです。
【20th Century Chronicle 1960年(s35)】
◎社会党 浅沼委員長暗殺
*1960.10.12/ 浅沼社会党委員長が、日比谷公会堂での党首演説会で、右翼少年に刺殺される。
1960(s35)年10月12日、東京都千代田区の日比谷公会堂で、解散・総選挙が行われる情勢のもと、自民・社会・民社の3党党首立会演説会が開かれた。民社党委員長西尾末広の演説が済んだあと、午後3時頃、社会党の浅沼稲次郎委員長が演壇に立ち、「議会主義の擁護」を訴える演説を始めた。会場には右翼団体が多く集まっており、激しい野次を飛ばして会場は異様な雰囲気が立ち込めた。
司会が静粛を求めいったん野次が収まると、それを見計らって浅沼は、自民党の選挙政策についての批判演説を続けた。その時、暴漢が壇上に駆け上り、刃渡り30cmほどの脇差で浅沼の左脇腹を深く突き刺し、浅沼はよろめきながら数歩歩いたのち倒れた。浅沼はただちに病院に運ばれたが、ほぼ即死状態だった。ニュースなどで、事件の生々しい様子の映像が流され、日本中にショックを与えた。
https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi…
取り押さえられた犯人は、17歳の右翼少年山口二矢であった。山口は、赤尾敏率いる右翼団体「大日本愛国党」の青年本部員であったが、この年の5月に脱会している。逮捕後の供述で、赤尾の関与を完全否定し、迷惑を掛けない為に脱会し、一人で実行したと証言している。山口は取調べに対し理路整然と受け答えしていたが、11月2日夜、東京少年鑑別所の単独室で、シーツで首を吊って自殺した。
大日本愛国党関連では、翌1961(36)年2月1日の「嶋中事件(風流夢譚事件)」でも、同党に所属していた17歳の少年小森一孝が、中央公論社社長宅を襲い、社長夫人と家政婦に死傷を負わすテロ事件を起こしている。少年は党に累を及ぼさないため、事件当日に離党届を出して犯行に及んだ。大日本愛国党の党首赤尾敏は、両事件で事情聴取を受けたが、嫌疑不十分で解放されている。
(この年の出来事)
*1960.1.4/ ジャン=ポール・サルトルと並び、戦後フランス実存主義の旗手とされたアルベール・カミュが自動車事故死する。
*1960.3.16/ ヌーベルバーグの旗手 ジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』が公開され、「不条理」な若者のヒーロー像が衝撃を呼ぶ。
*1960.3.28/ 1.5無期限ストに突入していた三井三池炭鉱は、ロックアウト解除をめぐって第1と第2組合で衝突、さらに泥沼化する。
*1960.5.16/ 慶応幼稚舎2年生の男の子が誘拐され、19日に死体で発見される。(正樹ちゃん誘拐事件)
*1960.8.25/ 第17回オリンピック・ローマ大会が開催される。
*1960.11.8/ 米大統領選挙で、ジョン・F・ケネディが当選する。
『原爆の絵』です。
https://www.asahi.com/
広島で被爆した被差別部落の人たちは、避難先で出身地を