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闘いの歴史

データベース

Facebook 闘諍堅固

2021-04-09
とうじょう‐けんご 【闘諍堅固】 〘名〙 仏語。
五種ある堅固のうちの第五。または、五五百年(ごごひゃくねん)の一つ。仏滅後第五の五百年で、諸僧が互に自説の優位を主張し、争うことが多く、邪見のみにて仏法が姿をかくしてしまう時をいう。

「全戦没者追弔法会」の和讃

2021-04-04
Facebookしんらん響流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

闘いの記録

シベリア出兵

2021-03-14
*1918.7.17/ 元ロシア皇帝ニコライ2世一家全員が、エカテリンブルグで銃殺される。
Facebook佐々木信雄さん曰く
◎シベリア出兵
*1918.5.26/ チェリャビンスクでチェコ軍団が反乱。反革命勢力や列強の後押しで混乱する。
*1918.8.2/ 日本軍、大挙シベリア出兵。チェコ軍支援の名目で、背景には満州支配の野心。 
 1918年から1922年にかけて、英・仏・米・日本など帝国主義列強は、ロシア革命に対する軍事干渉としてロシアのシベリアに出兵した。1918年3月英仏軍のムルマンスク上陸に始まり、アメリカ軍・日本軍は8月、シベリアに共同で派兵した。東シベリアのチェリャビンスクで包囲されたチェコ軍団の救出がその名目だった。
 レーニンの指導するボリシェヴィキ革命は、資本主義体制・議会政治・自由主義など西欧の価値観を否定する過激派として恐れられており、第1次世界大戦の最中に、連合国のロシアでボリシェヴィキに指導された革命が起こると、資本主義列強はロシアの反革命保守勢力(白軍)を支援して、革命政権の打倒しようと考えた。
 オーストリア帝国の一部で同盟軍として動員されたチェコ兵は、連合国側にチェコの独立を持ち掛けられて寝返ったところ、些細なことから革命軍と戦闘が始まり、革命軍に包囲されてしまった。これを救出するというのが連合国側の名目だが、ねらいは反革命軍(白軍)を支援して、ロシア革命軍(赤軍)を倒すことにあった。
 しかし、オムスクの反革命白軍コルチャーク軍が1919年3月に大敗すると、反革命支援の目的が完全に潰え、シベリア出兵の意味はなくなったため、英仏の干渉軍は撤退、アメリカも続いて撤退する。しかし、最大7万以上を派兵した日本軍は、1922年までシベリアに留まることになった。
 日本軍は事後処理のためとして駐留を続けているとき、1920年2月に「ニコライエフスク事件」の悲劇が発生した。これは日本では尼港事件とも呼ばれ、現地の共産パルチザンが、アムール川の河口のニコライエフスク港(尼港)の日本陸軍守備隊および日本人居留民約700名、その他現地市民6,000人の一部を虐殺した上、町の一部に放火した事件である。
 日本は事件に対する報復として北樺太(樺太の北半分)を占領した。時の原敬内閣は、出兵目的を居留民保護とロシア過激派の勢力伸張の防止に変更し、駐兵を継続しようとする。しかし、そもそも戦争目的が曖昧だったことから、日本軍の士気は低調で、軍紀も頽廃しており、日本国内でも批判が高まった。
 アメリカなど諸外国からの日本への不信感も高まり、1922(t9)年10月に、やっと日本も撤兵することとなった。日本のシベリア出兵は、延べ3,500名の死傷者を出し、10億円に上る戦費を消費したうえ、具体的な成果のまったくないまま終結した。撤兵を決定した加藤高明首相は後日、「なに一つ国家に利益をもたらすことのなかった外交上まれにみる失政の歴史である」と評している。
(この年の出来事) 
*1918.7.17/ 元ロシア皇帝ニコライ2世一家全員が、エカテリンブルグで銃殺される。
*1918.11.3/ キール軍港で水平が反乱を起こす。それをきっかけに、ドイツ各地に労兵協議会成立。続いてドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位し、ドイツ革命が成立する。
*1918.11.11/ ドイツ政府が連合国との休戦条約に調印、第1次世界大戦が終わる。

映画『Fukushima 50』(若松節朗監督)

2021-03-14

大阪も標的でした。

2021-03-13
大阪大空襲から76年 91歳「最後の語り」活動半世紀で区切り
スマートフォンでビデオ会議システムを使い、中学生に大阪大空襲の体験を語る久保三也子さん=大阪市福島区の自宅で2021年3月8日午後3時8分、園部仁史撮影
第2次大阪大空襲で破壊し尽くされた大阪市内=大阪市港区で1945年6月撮影

海の向こうでは・・・。

2021-03-11
Facebook来生 民彦さん曰く
来生 民彦戦車、戦闘機、戦艦、などミリタリー 好きな人集まれ!「絆の会」 21時間前 · 1997 ノーフォーク 整備が必要な艦艇が集合。

東京・下町を焼野原にした「東京大空襲」

2021-03-10
山谷周辺で亡くなられた方のご遺体のうち、玉姫公園には789体運ばれた  
山谷周辺で亡くなら浅草周辺の屍は、隅田公園へ運ばれ、仮埋葬された(左側が隅田川)
   今でも北部浅草地域で語り継がれているのは、『ほていや』から直線で1㌔強、東京スカイツリーの絶景ポイントでもある「言問橋」の惨状の話だろう。当日、浅草の言問橋西詰(浅草追分)から向島方面へ避難しようとする者と逆に向島から浅草方面へ向おうとする者が橋の上でぶつかり合い、交錯して身動きが取れない状況の中で、そこへ周辺から熱風の火が燃え移り、橋上は大火の炎に包まれ、逃げ場を失った多くの市民が焼死した。この惨状で焼死したおびただしい人間の体の脂が燃え、橋を真っ黒に変色させたという。
 1992年(平成4年)の言問橋改修工事で、当時の欄干と縁石が撤去されることとなったが、今なお言問橋の親柱などに黒ずんだ第二次世界大戦当時の惨状の跡を確認することが出来る。

 一夜の焼夷弾投下で、罹災者は100万人を超え、10万人が屍になったと推定されているが、一体何人死んだかは未だに分かっていないというのが現実だ。一家全滅どころか、墨田区向島から本所辺りは、全滅状態になった街もあった。たくさんの女性や子どもも亡くなって、故初代林家三平の奥さんである海老名香葉子さんなどのように、戦争孤児になった子供たちもとても多かった。

闘いの転機

◎山本五十六司令長官の搭乗機撃墜

2021-03-25
Facebook佐々木信雄さん曰く
6月5日、日比谷公園で国葬がとり行われた。皇族、華族ではない平民が国葬にされたのは、これが戦前の唯一の例であった。
【20th Century Chronicle 1943年(s18)】
◎山本五十六司令長官の搭乗機撃墜
*1943.4.18/ 山本五十六連合艦隊司令長官が、ブーゲンビル島上空で搭乗機を撃墜され戦死する。
 1943(昭18)年3月中旬、ガダルカナル島から撤退を余儀なくされた日本軍は、ソロモンおよび東部ニューギニア方面への連合軍の反攻企図を妨ぐべく、連合艦隊独自の立案で「い号作戦」を実施した。第3艦隊母艦機を南東方面に展開し、ラバウル基地の基地航空部隊との連動で、ソロモンや東部ニューギニアの敵船団・航空兵力を攻撃し、敵の戦線を攪乱する目的で実行された。
 ミッドウェー、ガダルカナルの敗戦でかなり憔悴していたと言われる山本五十六長官は、「い号作戦」を直々に立案したとされ、この時、トラック島に泊留の連合艦隊旗艦「武蔵」を離れ、「い号作戦」を陣頭指揮するため、幕僚をしたがえてラバウル基地に来ていた。それまで、はるか北方のトラック島の旗艦の戦艦大和や武蔵の艦上で、好きな幹部と将棋やトランプにうち興じていて、「大和ホテル」「武蔵屋御殿」などと揶揄する声もあったという。
 山本は、ブーゲンビル島、ショートランド島の前線航空基地の将兵の労をねぎらうための計画をたて、幕僚とともにラバウル基地を飛び立った。この方面は日本海軍の制空権下にあり安全とされていたが、前線視察計画は関係方面に打電され、その暗号電文は米軍に傍受され解読されていた。この情報は、米海軍のチェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官にまで報告され、ニミッツは、山本長官が暗殺に足りうる人物か検証したが、山本の戦死が日本の士気が大きく低下させ得るとの報告があり、山本機攻撃を決断したという。
 1943(昭18)年4月18日、山本機がブーゲンビル島上空に差し掛かった時、米機16機に待伏せされ撃墜され、山本長官は戦死する。山本長官の撃墜は「海軍甲事件」と称して1ヵ月以上伏せられた。5月21日、大本営により公表されると新聞は連日報道を行い、日本国民は大きな衝撃を受けた。6月5日、日比谷公園で国葬がとり行われた。皇族、華族ではない平民が国葬にされたのは、これが戦前の唯一の例であった。
 山本五十六は、日米開戦に最後まで反対し、やむを得ず開戦になると、真珠湾攻撃を立案し、開戦直後の快進撃を支えた名将としてうたわれる。坂本龍馬が司馬遼太郎の小説で描かれたように、山本五十六も阿川弘之などの作品で人物像が形成されている側面がある。しかし、その指揮官や作戦立案の能力には、否定的な見解も多くみられ、将軍としてよりも軍政官としての適性を指摘する同僚もいたようである。
(この年の出来事)
*1943.1.31/ 独ソ戦のスターリングラード攻防で、ついに独軍が降伏する。
*1943.2.1/ ガダルカナル島から日本軍が撤退を始めるが、大本営発表はこれを「転進」と表現する。
*1943.9.8/ イタリアのバドリオ政権が、連合軍に無条件降伏する。
*1943.11.22/ ルーズベルト・チャーチル・蒋介石が、エジプトのカイロで会談、対日方針を定めた「カイロ宣言」を発表する。

· チェコスロバキア・ズデーテンに進駐しドイツ系住民に歓迎されるドイツ兵士 38年10月4日

2021-03-24
Facebook湯浅 宗浩さん曰く

◎皇紀2600年記念式典

2021-03-24
Facebook佐々木信雄さん曰く
*1940.7.22/ 第2次近衛内閣が成立。陸相に東条英機、外相に松岡洋右が就任し、総力戦体制を確立する。
【20th Century Chronicle 1940年(s15)】
◎皇紀2600年記念式典
*1940.2.11/ 皇紀2600年の紀元節には、全国11万の神社で大祭が行われ、難局克服の大詔が発布される。
*1940.11.10/ 宮城前広場で紀元2600年記念式典が挙行される。
 西暦1940(昭15)年は神武天皇の即位から2600年目に当たるとされたことから、日本政府は「紀元二千六百年祝典準備委員会」を発足させ、記念行事を計画・推進してきた。軍国主義が抬頭するなか、国威を発揚させ「神国日本」の国体観念を徹底させようという意図で、橿原神宮中心に極めて神道色の強い行事が遂行された。この年2月11日の「紀元節」には、全国11万もの神社において大祭が行われ、各地で展覧会、体育大会など様々な記念行事が催された。
 そして、11月10日、宮城前広場において内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催された。11月14日まで関連行事が繰り広げられて国民の祝賀ムードは最高潮に達した。また、式典に合わせて「紀元二千六百年頌歌」が作曲された。式典の模様は日本放送協会によりラジオで実況中継されたが、天皇の勅語の箇所は放送が中断された。初めて天皇の肉声がラジオで流されたのは、1945年終戦の玉音放送であった。
「紀元二千六百年頌歌」 https://www.youtube.com/watch?v=8cN4GJRInro
国民歌「紀元二千六百年」 https://www.youtube.com/watch?v=zYgKAzOoNsQ
 「皇紀」とは「神武天皇即位紀元」または「神武紀元」のことを指し、初代天皇とされる神武天皇の即位の年を紀元元年とした。「日本書紀」の既述では「辛酉の年」とあり、この年が西暦の紀元前660年1月1日と比定された。しかし古事記や日本書紀のその神話的な内容には考古学上の確証がなく、神武天皇(古事記では137歳、日本書紀では127歳まで生存とある)が実在した人物とは認められていない。
 とはいえ「西暦紀元」も、イエス・キリストが生誕した日を紀元とするが、そもそも「処女懐胎で生れた神の子」の生誕なども神話といえば神話、どこまで確かであるは似たようなものである。ちなみに、大日本帝国海軍の「零式艦上戦闘機(ゼロ戦)」のゼロは、皇紀2600年の末尾一桁から付けられたことに由来する。明治から戦事中まで、日本の陸海軍が用いた兵器の名称には、皇紀の末尾数字を用いたことからそうなった。
(この年の出来事)
*1940.6.14/ 仏政府がパリを退去、パリが陥落し独軍が無血入城。
*1940.7.22/ 第2次近衛内閣が成立。陸相に東条英機、外相に松岡洋右が就任し、総力戦体制を確立する。
*1940.11.23/ 大日本産業報国会が結成される。

老朽化で全機引退…自衛隊F4戦闘機「ファントム」ラストフライト 1機は各務原航空宇宙博物館で展示へ

2021-03-18

◎日米友好の「青い目のお人形」

2021-03-18
Facebook佐々木信雄さん曰く
*1927.2.7/ 大正天皇の大喪の儀が、新宿御苑葬場殿で行われる。
【20th Century Chronicle 1927年(s2)】-2
◎日米友好の「青い目のお人形」
*1927.3.18/ 「青い目のお人形」の歓迎会が、横浜港に停泊中の天洋丸で開催される。
 日露戦争後、満州の権益をにぎった日本と、中国進出をうかがうアメリカ合衆国との間には政治的緊張が高まっていた。また、アメリカ本国には日系移民が大量に移住し、アメリカ人の労働を奪うとして反感が強まっていた。そして米では、1924年ジョンソン=リード法(排日移民法)が成立し、日本国内では反米感情があおられた。
 そんな中、日米の感情対立を懸念したアメリカ人宣教師のシドニー・ギューリック博士は、「日本の雛祭りに人形を送ろう」と全米に呼びかけ、子供同士の日米交流を重視した親善活動を開始した。日本側でも、財界の重鎮である渋沢栄一が彼の提唱に共感し親善事業の仲介を担った。
 やがて、全米の家庭などから集められた総計12,000体をも超える「青い目の人形」は、日本に向う貿易船に分乗させられて、次々に横浜・神戸港に到着した。3月3日の桃の節句には、東京・大阪で歓迎式典が行われたあと、全国各地の小学校・幼稚園に配布され、一部は一般家庭にも贈られた。
 アメリカから友情の証として「青い目の人形」が日本へ贈られた後、日米関係委員会委員の渋沢栄一が外務省から依頼され、全国の役場や学校を通して集められた募金を元に製作された市松人形がアメリカに贈られることになった。桃の節句に贈られた人形への答礼として、日本からもクリスマスに人形を贈ろうということであった。
 先に到着した人形に遅れて、ミス・アメリカ及び各州代表48体の人形を乗せた天洋丸は、天候不良により遅延し3月14日に神戸港に到着、この3月18日に児童たちの出迎えを受けて歓迎式典を開かれた。代表人形は皇室に献上された後、子供たちの利用が多い東京博物館(現国立科学博物館)の上野別館に建てられた人形の家に展示されていたが、戦火の混乱でその殆どが行方不明となったとされる。
 日本に贈られた「青い目の人形」だが、太平洋戦争(第2次世界大戦)中には、敵性人形としてその多くが処分された。しかし、処分を忍びなく思った人々が隠し保存した人形が戦後に発見され、現存する人形は2016(平28)年5月現在、334体が確認されているという。
童謡「青い目の人形」 https://www.youtube.com/watch?v=OYFi5EVS6FQ
「あおい眼をしたお人形は アメリカ生れのセルロイド・・・」
 この「青い目の人形」という童謡を、幼い時に歌ったり聴いたりした人は多いだろう。この曲は実はこの時に贈られた人形を歌ったものではなく、先行する1921年に野口雨情作詞・本居長世作曲で発表されている。独自に日米の友情を築く意味で作られた楽曲であり、直後に起きた関東大震災のときには、アメリカで義援金を募る際にこの曲が歌われた。そしてまた、その後に贈られた人形たちも、この曲にちなんで「青い目の人形」と呼ばれたのであった。
(この年の出来事)
*1927.1.7/ アメリカン電話電信会社(ATT)が、太西洋横断無線電話サービスを開始、ニューヨークとロンドンの直通会話が可能になった。
*1927.2.7/ 大正天皇の大喪の儀が、新宿御苑葬場殿で行われる。
*1927.6.20/ スイスのジュネーブで日米英3国の海軍軍縮会議が開催される。
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