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ちょっといい話

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原爆投下候補としての京都について

2020-08-06

今日は、広島に原爆が投下されて75年です。京都は、関係ないと思われるかもしれませんが、
私たちが素晴らしいと魅力を感じている、京都の街もひょっとしたら廃墟となっていたかもしれません。

京都、奈良は素晴らしい文化財があるので、空爆を控えてという話を聞かれたことがあるかと思います。現実にアメリカでそういう働きかけをしていたアメリカ人もいらっしゃいますが、歴史資料から、そうではなかったという説が出てきました。

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【原爆投下の場所の選定について】

日本への原爆投下が決定され、どこに投下するべきかと選定委員会が開催されました。

1945年5月10日-11日、第2回目標選定委員会、ロスアラモスのオッペンハイマー博士の執務室で、8月初めに使用予定の2発の原子爆弾の投下目標として、次の4都市が初めて選定されたました。

京都市:AA級目標
広島市:AA級目標
横浜市:A級目標
小倉市:A級目標
このとき以下の3基準が示された。

直径3マイルを超える大きな都市地域にある重要目標であること。
爆風によって効果的に破壊しうるものであること。
来る8月まで爆撃されないままでありそうなもの。
1945年5月28日、第3回目標選定委員会、京都市、広島市、新潟市に投下する地点について重要な決定がされ、横浜市と小倉市が目標から外された。

投下地点は、気象条件によって都度、基地で決定する。
投下地点は、工業地域の位置に限定しない。
投下地点は、都市の中心に投下するよう努めて、1発で完全に破壊する。
これらの原子爆弾投下目標都市への空爆の禁止が決定された。禁止の目的は、原爆のもたらす効果を正確に測定把握できるようにするためである。これが「○○には空襲がない」という流言を生み、一部疎開生徒の帰郷や、他の大都市からの流入を招くこととなった。

1945年5月29日、目標から外された翌日に横浜大空襲。

1945年6月1日、暫定委員会(委員長:ヘンリー・スチムソン陸軍長官)は、
原子爆弾は日本に対してできるだけ早期に使用すべきであり、それは労働者の住宅に囲まれた軍需工場に対して使用すべきである。
その際、原子爆弾について何らの事前警告もしてはならない。
と決定した。なお原子爆弾投下の事前警告については、BBC(ニューデリー放送)やVOA(サイパン放送)で通告されていたという説もあるが、確認されていない。

この経過の中で、4つの目標都市のうち京都が次の理由から第一候補地とされていた。

人口100万を超す大都市であること。
日本の古都であること。
多数の避難民と罹災工業が流れ込みつつあったこと。
小さな軍需工場が多数存在していること。
原子爆弾の破壊力を正確に測定し得る十分な広さの市街地を持っていること。
しかし、フィリピン総督時代に京都を訪れたことのあるスチムソン陸軍長官の強い反対や、戦後、「アメリカと親しい日本」を創る上で、京都には千数百年の長い歴史があり、数多くの価値ある日本の文化財が点在、これらを破壊する可能性のある原子爆弾を京都に投下したならば、戦後、日本国民より大きな反感を買う懸念があるとの観点から、京都への原子爆弾投下は問題であるとされた。

1945年6月14日、京都市が除外され、目標が小倉市、広島市、新潟市となる。しかし京都への爆撃禁止命令は継続された。

1945年6月16日~終戦まで、通常兵器による空爆第三期。中小都市への焼夷弾爆撃の時期。

1945年6月30日、アメリカ軍統合参謀本部がマッカーサー将軍、ニミッツ提督、アーノルド大将宛に、原子爆弾投下目標に選ばれた都市に対する爆撃の禁止を指令。同様の指令はこれ以前から発せられており、ほぼ完全に守られていた。

新しい指令が統合参謀本部によって発せられない限り、貴官指揮下のいかなる部隊も、京都・広島・小倉・新潟を攻撃してはならない。
右の指令の件は、この指令を実行するのに必要な最小限の者たちだけの知識にとどめておくこと。
1945年7月3日、それでもなお、京都市が京都盆地に位置しているので原子爆弾の効果を確認するには最適として投下を強く求める将校、科学者も多く存在し、その巻き返し意見によって再び京都市が候補地となった。

1945年7月20日、パンプキン爆弾による模擬原子爆弾の投下訓練が開始された。

1945年7月21日、ワシントンのハリソン陸軍長官特別顧問(暫定委員会委員長代行)からポツダム会談に随行してドイツに滞在していたスチムソン陸軍長官に対して、京都を第一目標にすることの許可を求める電報があったが、スチムソンは直ちにそれを許可しない旨の返電をし、京都市の除外が決定した。

1945年7月24日、京都市の代わりに長崎市が、地形的に不適当な問題があるものの目標に加えられた。スチムソン陸軍長官の7月24日の日記には「もし(京都の)除外がなされなければ、かかる無茶な行為によって生ずるであろう残酷な事態のために、その地域において日本人を我々と和解させることが戦後長期間不可能となり、むしろロシア人に接近させることになるだろう(中略)満州でロシアの侵攻があった場合に、日本を合衆国に同調させることを妨げる手段となるであろう、と私は指摘した。」とあり、アメリカが戦後の国際社会における政治的優位性を保つ目的から、京都投下案に反対したことが窺える。トルーマン大統領のポツダム日記7月25日の項にも「たとえ日本人が野蛮であっても、共通の福祉を守る世界の指導者たるわれわれとしては、この恐るべき爆弾を、かつての首都にも新しい首都にも投下することはできない。」とある。

出典Wikipedia

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原爆投下の候補地として、最後まで京都が残っていたのです。それも最有力の候補地としてです。
初めての原爆投下の検証するために、
あえて、空襲は行わなかったとも言われています。

【京都の空襲】
原爆の候補地になっていたため、京都への空襲控えられていましたが、それでも、5回の空襲を受けています。
⚫︎第1回 1月16日23時23分頃、馬町空襲(東山区馬町)死者36名(一説に40名以上)、被災家屋140戸以上。
⚫︎第2回 3月19日、春日町空襲(右京区)
⚫︎第3回 4月16日、太秦空襲(右京区)死者2人、重傷者11人、軽傷者37人、民家半壊3戸。
⚫︎第4回 5月11日、京都御所空襲(上京区)
⚫︎第5回 6月26日早朝、西陣空襲(上京区出水)死者50人、重軽傷者66人、被害家屋292戸、罹災者850名。
報道管制が敷かれたため被害の詳細は判明していない。
この項出典Wikipedia

この西陣の空襲の記録を残す碑が下長者町通智恵光院北東角辰巳児童公園内にあります。その碑には、爆地点の略地図があります。

歴史において、あのとき・・・・
というのは意味のないことです。
ただ、この京都が戦争で破壊されなくて、残っているのは感謝です。
そして、これからも残って欲しいと思っています。

この戦争でお亡くなりになられた多くの方々のご冥福をお祈りすると共に、この平和が続きますようにと願ってやみません。

この京都の空襲のことなど、ご興味のある方はネットで、京都の空襲、京都の原爆などで検索なさってみてください。
改めて、太平洋戦争での京都のことを知るのも、いい機会ですね。
本もいろいろと出ています。

75年前も真夏の青空が広がる暑い日だったそうです。
この日の広島の気象です。
午前8時現在・・・気26.7℃
湿度80%北の風0.8
うす曇り 雲量10日照1.00

 

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