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『北京の55日 "55 Days at Peking" 1963』

2020-04-24
日本代表は、伊丹十三でした。

【20世紀の記憶 1900(M33)年-02】
  

 中学生の頃、『北京の55日 "55 Days at Peking" 1963』という大作映画が公開されたのを憶えている。当時は「義和団事件」など全く知らなかったが、何となく大変な事件だったのだと感じた。映画自体は見ていないが、予告編ではチャールトン・ヘストン、デヴィッド・ニーヴンなどが登場する。それぞれ、出て来るだけでアメリカとイギリスを想定させる役者であった。
*TRAILER https://www.youtube.com/watch?v=mja-v2VSUo0
  

 それなら、日本の代表としては早川雪舟だろうと思ったが、なんと柴五郎中佐役で伊丹十三が出演している。映画では、チャールトン・ヘストン扮する米のマット・ルイス少佐が主役として描かれているが、実質的に寄集め軍の籠城作戦を指揮して、最も功績があったのは柴五郎中佐だったとされる。ただし映画では、ほぼ無視されている。
  

 史実に戻ると、当時、列強によるアジア・アフリカの分割は、ほぼ大枠は決まりつつあった。さらに、「眠れる獅子」と呼ばれた巨大な清朝中国も末期を迎えていて、英仏独などの列強がまさに「蚕食」する状態であった。そこへ遅ればせながらアメリカが加わり、日清戦争に勝った新興日本も顔を突っ込んで来ていた状況であった。
  

 「義和団の乱」は、その歴史的評価が未だ定まっているとは言えない。当事国中国では、欧米及び日本の帝国主義的侵略に対抗する民衆の愛国闘争という捉え方がされるが、欧米では、単に外国を排斥する民衆暴動の排外運動だとされることが多い。
  

 さらに「義和団」というものが分かりにくい。中国拳法の一派「義和拳」が基であるとされるが、その中国の「拳」というものが、日本のように武術の一つというだけではなく、ある種の宗教的結社的性格をもつことがあり、さらにその結社が政治的な主張と行動を伴なうことがある。
  

 欧米列強の力を背景として、キリスト教宣教師が布教活動を強めるという形で、清朝に浸透していったという状況に、義和拳が宗教的義憤から対抗していったという側面もある。西欧列強から見れば狂信的団体から見えたが、このような義憤的行動は、失業者や難民や匪賊を吸収しながら急速に拡大し、北京に乱入すると、東交民巷という外国公使館区域を包囲するに至った。
  

 それまで取り締まりの手をゆるめて様子を伺っていた清朝政府は、最高権力者であった西太后が列強に「宣戦布告」するに至って、清国軍とともに排外戦争を戦う「義和団」となった。北京入場の義和団20万に対し、東交民巷の籠城した外国公使館側の護衛兵などは500名足らずとされ、そのとき実質的リーダーとして活躍したのが柴五郎中佐であったという。
  

 義和団鎮圧のために列強八ヶ国は軍を派遣し、中でも最も多数の兵を投入したのは日本とロシアであった。二ヶ月を経て、北京は開城された結果、「北京議定書」によって清国は莫大な賠償金を背負うことになり、日露は中国における発言力を増すことになった。
  

 何とか北京を脱出した西太后も、1908年72歳で死去し、国力を大きく消耗した清王朝は、その死後3年あまりで辛亥革命によって滅亡する。
 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/20170326

C.ヘストン  Aガードナー  D.ニーヴン
左端に、伊丹十三です。
風刺画
清国・北京に押し寄せた八か国連合軍兵
西大后

20世紀の幕開け

2020-04-23
 19世紀が産業革命と帝国主義の時代とすると、20世紀は、さらなる科学技術の発展と人口爆発の時代だった。
パリ万国博
芸術至上主義で世紀末芸術を率いたオスカー・ワイルド
フリードリッヒ・ニーチェ
ジークムント・フロイトが「夢判断」を出版

【20世紀の記憶 1900(M33)年-01】
 

 19世紀が産業革命と帝国主義の時代とすると、20世紀は、さらなる科学技術の発展と人口爆発の時代だった。飛行機、潜水艦、宇宙ロケットなどの開発により、人類は深海から、空、宇宙にまで行動範囲を拡大し、一方で、人口は20世紀初頭の15億から、20世紀末には4倍の60億にも達した。
 

 地球上に人口が爆発し、帝国主義列強による後発地域の分割も、20世紀初頭にほぼ完結すると、錯綜した利害関係は調整が付かなくなり、やがて第一次世界大戦が勃発する。さらにその四半世紀後には第二次大戦と、20世紀前半は世界大戦の時代でもあった。これ以降、20世紀の各年を象徴的な事物・事件を通じて深掘りしてみようと思う。
 
 
 19世紀に幕を下ろし20世紀の始まりを告げる1900年(20世紀は正確には1901年より)は、絶頂期に達したアール・ヌーボー様式に取り囲まれ、4月パリ万国博により華麗に幕が切って落とされた。7月には全長128mの巨大な世界最初の硬式飛行船「ツェッペリン号」が空に浮かび、やがては世界一周もやってのける。また、ドイツ客船「ドイチュラント号」は大西洋横断スピード記録を達成した。
 

 文化方面では、芸術至上主義で世紀末芸術を率いたオスカー・ワイルドが、パリの片隅でひっそりと息をひきとり、世紀末のみならず21世紀まで射貫く矢を放ったフリードリッヒ・ニーチェは、狂気の10年間を経て没した。一方で、ジークムント・フロイトが「夢判断」を出版し、「無意識界」を探索し精神分析への道を拓いた年でもあった。
 

 かつて詩人鮎川信夫は、「マルクス、ニーチェ、フロイトを齧っておけば、適当に現代思想など展開できる」と言ってのけた。19世紀の人マルクスは社会的無意識、別名「資本主義的欲望」を解明する端緒となったし、ニーチェは「権力への意志」などで、宗教的民族的無意識をえぐり出し、そしてフロイトは、個人史の背景にある「個人的無意識」を発見した。
 

 そもそも「芸術」とは、これらの目に見えない「無意識」を実在化する試みではなかったのか、とも言える。ともあれ、これらの「無意識の発見」は、二つの大戦後の世界を貫き通したテーマでもあった。鮎川信夫の詩人的感性が、このことをまさしく感知していたと言える。
 

 さて、この年を象徴する歴史的事件として「義和団の乱」を取り上げる予定だったが、長くなったので次回にまわすことにする。
 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/20170325

リリー・マルレーン

2020-04-23
「妖艶・退廃的・脚線美」

【ディートリッヒ、モロッコ、リリー・マルレーン】

 

 「妖艶・退廃的・脚線美」と並ぶと、マレーネ・ディートリヒを思い浮かべる人も多いだろう。彼女は、
1901年にプロイセン王国の首都ベルリンに生まれ、第一次・第二次世界大戦下を生き抜いて、数奇な運命を辿ることになった。
1922年20歳のときに映画デビューし、さらに1930年には、ドイツ映画最初期のトーキー『嘆きの天使』に出演して、国際的な名声を獲得した。まさにこの時期は、ナチスドイツが政権を奪取していく過程でもあった。

 しかし何といってもディートリヒを代表する映画と言えば、同年ハリウッドに招かれて、ゲイリー・クーパーと共演した『モロッコ』が挙げられる。
去ってゆくクーパーを、砂漠を裸足で追いかけてゆくラストシーンは印象的だった。
引き続き、ユダヤ人監督スタンバーグとのコンビで、『上海特急』がヒットすると、ハリウッドスターとして黄金時代を築きあげた。

 ドイツの独裁者となったヒトラーは、マレーネがお気に入りで、ドイツに戻らせようとしたが、ナチスを嫌ったマレーネはそれを断って、1939年にはアメリカの市民権を取得した。
マザコンでゲイでインポだったと思われるヒトラーが、マレーネのような男装の麗人を身近に置きたがるのはよく分かる。
しかしナチス・ヒトラーを拒否したマレーネは、反逆者としてその映画も上映禁止とされた。

 1940年代からはブロードウェイの舞台に立つなど、音楽活動に重点が移っていったが、占領下のフランスから渡米していた名優ジャン・ギャバンとも浮名を流す。
ギャバンは自由フランス軍に志願して分かれ分かれになるが、マレーネも米国の前線兵士慰問機関の一員となり、アメリカ軍兵士の慰問にヨーロッパ各地を巡回した。

 その慰問先で、兵士が口ずさんでいた「リリー・マルレーン」を知り、英語の歌詞で連合軍兵士の前で歌った。
この「リリー・マルレーン」はディートリヒの持ち歌として、世界的に有名になったが、このドイツ生まれの歌曲こそ、マレーネ以上に数奇な運命を経たものであった。

 「リリー・マルレーン」を最初にレコードに吹き込んだのは、ドイツの歌手ララ・アンデルセンであった。
第一次大戦中にドイツの詩人ハンス・ライプが作詞したものに、第二次世界大戦直前に作曲家ノルベルト・シュルツェが曲を付け、それに出会った売れないキャバレー歌手ララが、1939年まさに第二次大戦勃発直前に、やっとレコーディングにこぎつけた。

 アンデルセンのレコードは60枚しか売れなかったと言われ、不発であったのは間違いない。
しかし、ドイツ軍の前線慰問用レコードの発注を受けた某レコード店は、200枚の中に売れ残りのララのレコードを2枚紛れ込ませた。
それが、何故か東欧戦線のベオグラードにあったドイツ軍放送局から流されると、周辺に点在する独軍兵士たちは、故郷の恋人を懐かしみ涙を流したと言われている。

 だが、ラジオの電波は敵味方を区別しない。やがてドイツ兵のみならず、対峙する連合国軍兵士の間にも流行し、同じく故郷を思い涙したという。
曲と歌詞を知れば分かるだろうが、この曲は決して、前線の戦士の戦闘意欲を鼓舞するものではなく、平和だった故郷を懐かしみ、戦意を失わさせる抒情的な歌だった。

 アンデルセンは、慰問などで一時的に人気者になったが、当局に戦局にそぐわないと判断され、ララは歌手活動が禁止され、レコードの原盤が廃棄され、ナチス宣伝相ゲッベルスの指示で、「勇壮なドラム伴奏を付けた軍歌版」なる別バージョンが作られたという。

 終戦後のララは、ドイツ北部の北海に浮かぶランゲオーク島に移住、スイス人作曲家と再婚し、歌手としても復帰するなど、幸せな晩年を過ごしたとされる。

マレーネ・ディートリッヒ


歌詞とともに、ディートリッヒのドイツ語阪「リリー・マルレーン」とその歌詞を添付しておく。

 

なおマレーネ・ディートリヒは、1970年大阪万博などを記念して、来日コンサートを行っている。
当時20代前半の私には、70歳に近いお婆さんの来日には、何の興味もなかったが(笑)

 

https://www.youtube.com/watch?v=XC57p3U6svI

Vor der Kaserne

Vor dem grossen Tor

Stand eine Laterne

Und steht sie noch davor

So woll’n wir uns da wiederseh’n

Wenn wir bei der Laterne steh’n

Wie einst Lilli Marleen

Wie einst Lilli Marleen

兵営の前の

大きな営門の前に

街灯が立っていた

そして今でもその場所にそれがあるなら

またそこで会おうよ

街灯の下に二人で佇むとき

いつかのように、リリー・マルレーン

いつかのように、リリー・マルレーン

 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/20170313

安倍総理の答え

2020-04-22

「自由と息苦しさ」について

2020-04-18
清宮監督時代の話は、中々であります。
 
 
清宮さんについてもっと知りたい方は、こちらを!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%AE%AE%E5%85%8B%E5%B9%B8
清宮 克幸(きよみや かつゆき、1967年7月17日 - )は、大阪市福島区出身の元ラグビー選手、日本ラグビーフットボール協会副会長。早稲田大学ラグビー蹴球部の元監督。
選手時代の清宮さんは、ナンバーエイト・フランカー。 絵は早慶戦での前へ!
2001年早大ラグビー蹴球部の監督に就任し、関東大学対抗戦全勝優勝に導いた。
当時のチームで主将を務めていた山下大悟は後のインタビューで清宮の指導について「清宮さんはその時のラグビーのトレンドをふまえた上で、ワセダの強みを作っていました。ターゲットである関東学院に勝つために最終的になりたい姿を描いて、そこから逆算して必要なスキルを身に着けるための練習をやっていた。特に接点のこだわり、セットプレーのこだわりは強烈でしたね。フィットネスに関してもそれまでやっていたヘッドダッシュを廃止して、走行距離やスピード、強度を数値化した。実体が見えにくかったものをデータ化し、それを元に一人ひとりをしっかり見ていました」と話している。
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