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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

【アメリカの歴史】06.インディアン戦争-1(1622年~1890)

2021-12-02
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【アメリカの歴史】06.インディアン戦争-1(1622年~1890)
 「インディアン」とは英語でインド人のことをさすが、コロンブスがアメリカ大陸を発見したとき、そこが目指していたインドだと誤認していたため、以来、英語ではそこの住民をインディアンと呼ぶようになったとされる。
 今では、アメリカ合衆国の先住民族を総称して「ネイティブ・アメリカン=Native Americans」と呼ばれることが多いが、ここでは歴史的記述をするため、合衆国本土やカナダに展開していた部族を「北米インディアンorインディアン」と便宜上よぶ。なお、中・南米に展開した先住民は、スペインやポルトガルのラテン語系に支配されたので「インディオ」と呼ばれた。
 「インディアン戦争」とは、1622年から1890年の間の、アメリカへの白人入植者とインディアンの間で起きた抗争を総称したもので、イギリスなど白人の「アメリカ入植」開始から、インディアン掃討の完了したとされる「フロンティアの消滅」の時までをさすことが多い。
 インディアン戦争は大きく分けて、次の4つの時代区分に分けられる。
1.白人がアメリカに入ってきて手探りでインディアンとの共存を探った最初期の時代。
2.アメリカ合衆国の独立とそれに続く期間であり、インディアンからの激しい抵抗があり、同化しないインディアンは排除され、ミシシッピ川から東にほぼインディアン居住地が無くなった時代。
3.南北戦争以降、ミシシッピ川以西に白人の入植が進み、アメリカ西部のインディアンが屈服させられて、フロンティアが消滅した時代。
4.1900年代初めにインディアン条約が合衆国側から破棄され、部族そのものが消滅させられ始めた時代。
 初期の入植時には、入植場所やインディアンの部族ごとにことなるが、一般に白人と友好的な関係があったとされる。様々な理由で幾つもの小競り合いが入植者とインディアンの間であったが、「ジェームズタウンの虐殺」が初期の事件として知られている。1622年3月、ポウハタン族がバージニア植民地を攻撃し、ジェームズタウンで347人が死亡したとされる。
 やがてインディアンと白人の間で大規模な抗争は各地で起こり、イギリスやフランスはそれぞれの別の地域に入植したので、その地域のピクォート族やイロコイ族といったインディアン部族との戦いが繰り広げられた。
 17世紀末に始まったヨーロッパ列強の対立は、そのまま北アメリカに持ち込まれ、イギリスとフランスはアメリカの植民地でも戦闘を繰り返したした。これらは「北米植民地戦争」と総称されるが、なかでも1756年の「フレンチ・インディアン戦争」は、英仏がそれぞれインディアンの部族と同盟を結んで戦ったのであるが、イギリス側からはこのように呼ばれた。
 1875年「アメリカ独立戦争」が始まったが、結成されたばかりのアメリカ合衆国は、イギリスからの独立をめざすと同時に、イギリスが抱き込んだインディアン部族との闘いでもあった。しかし劣勢となったイギリスは、1783年アメリカと「パリ条約」を結んで独立を認め、ミシシッピー川以東の広大な英国領植民地をアメリカ合衆国に割譲した。
 この時、インディアンたちは何も知らされないままに、自分たちの生活する広大な土地が、アメリカの領土とされてしまった。そしてその後、入植してくるアメリカ人とは、さらに土地を奪い合っての戦争が続くことになった。
 1803年には、イギリスと対立を強めるフランスのナポレオン・ボナパルトから、ミシシッピー川以西のフランス領ルイジアナを買収した。その後も、1818年にイギリスから英領カナダの一部を交換で獲得、スペインからは1819年に南部のフロリダを購入した。また1845年には、メキシコから独立していたテキサスを併合、1846年にオレゴンを併合するなどして、領土は太平洋に到達した。
 さらに、メキシコとの間の米墨戦争に勝利し、1848年にメキシコ北部ニューメキシコとカリフォルニアを獲得、1853年にさらにメキシコ北部を買収した。カリフォルニアで金鉱脈が発見されると、ゴールド・ラッシュが起きて、多数のインディアンが虐殺された。
 かくして広大な中西部への開拓史が進展し、フロンティアは西へ西へと移動してゆく。しかし、大平原やロッキー山脈の強大な大自然により陸上移動は拒まれ、さらに続く「南北戦争」により開拓は停滞した。大西部の本格的な開拓は、リンカーン大統領が南北戦争中に建設を進めた「大陸横断鉄道」の開通を待つことになる。

昭和17年(1942年) [日系人強制収容所]米国ワイオミング州、 彩色でなくカラーフィルム写真

2021-11-26
Facebook 手塚健二さん曰く、お盆を迎え盆踊りの着物の女性
昭和24年(1949年) 神奈川県三崎町 [正月 晴れ着の少女たち]
アメリカ人 駐留者の撮影

「被爆者・坪井直さんのメッセージ▽家族が語った最期の言葉

2021-11-15
クローズアップ現代+
長年、核兵器廃絶を訴えてきた坪井直さんが先月、96歳で亡くなった。爆心地から1.2キロで被爆。40日間生死をさまよい、目覚めたとき口にしたのは、アメリカへの憎しみだった。しかし、5年前、オバマ大統領が広島を訪れた際には、「我々は未来に行かにゃいけん」と前向きな言葉を語りかけた。憎しみをどう乗り越え、どんな未来を見ていたのか。NHKの独自映像と、家族や薫陶を受けた若者たちへの取材から、一人の被爆者が、未来に遺そうとしたメッセージを伝える。

91歳 「オバマと会った被爆者」が伝えた思い

2016年、坪井さん91歳のとき。アメリカのオバマ大統領(当時)が、現職の大統領として初めて被爆地・広島を訪問。坪井さんは被爆者代表として、その場に参列しました。

原爆を投下した国・アメリカの大統領に、被爆者代表は何を語るのか。謝罪を求めるのか否か。世界中のメディアが注目する中、坪井さんはオバマ大統領の手を取り、笑みを浮かべながら語りました。


「被爆者の坪井直と申します。被爆者としては、そのこと(原爆投下)は人類の間違ったことの一つ。それを乗り越えて、我々は未来に行かにゃいけん。オバマさんがプラハで言った、『核兵器のない世界』、私たちも行きますよ」

核兵器廃絶へ「ネバーギブアップ」

原爆によって多くの命が失われてから、76年。坪井さんは自らも度重なる病で生死の境をさまよい、アメリカへの憎しみを抱えて生きてきました。それでも、憎しみを乗り越えて理性で「核兵器廃絶」を訴え続けました。そして貧血による不整脈のため、96歳で亡くなりました。

その功績は、世界で評価されています。

長崎です。

2021-11-14
『読売新聞』、2021.11.14朝刊

◎明治六年政変/征韓論政変

2021-11-13
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【19th Century Chronicle 1873(m6)年】-3
◎明治六年政変/征韓論政変
*1873.10.23/ 明治天皇が、岩倉具視の奏上をいれて、西郷隆盛の朝鮮派遣中止を決定する。西郷は、参議・近衛都督を辞任する。これをうけて、副島種臣・後藤象二郎・板垣退助・江藤新平の各参議も辞表提出。(明治六年政変/征韓論政変)
 「明治六年政変」(1873年)は、征韓論に端を発した一大政変であり「征韓論政変」とも言われる。征韓論の対立に関しては「岩倉使節団」(1871年)で触れたが、単純化すれば、征韓論を推進した西郷ら「留守政府派」に対して、帰還した大久保・木戸らの「使節団派」が中止させたということになる。
 ロシア・清の潜在的脅威をふまえて、防波堤として押さえておきたい朝鮮を従属させようという「征韓論」に対して、近代化を為し遂げた欧米を視察した使節団は、その前に国力を充実させるべきだと対立した、というのが教科書的な説明になるが、これだけでは何か腑に落ちないものが残る。
 西郷隆盛は必ずしも武力による征韓論ではなく、自らが全権大使となって訪韓するという「遣韓論」であって、直接派兵派の板垣退助、江藤新平らも最終的にこれに同意し、一旦は西郷の使節派遣に決まった。しかし、帰国した大久保利通らはこれに反対し、結局は岩倉具視に諮って覆してしまった。
 派遣中止決定会議の当日、西郷は参議を辞任、同調した板垣、後藤、江藤、副島の参議も翌24日に辞表を提出し、参議半数の5人が下野した。さらに、西郷に同調する薩摩出身者らを始め、政府高官・官吏、将校・軍人など約600名が辞職帰郷する事態に発展、まさに政府・官僚を真っ二つに割る大政変となった。
 この政変で下野し帰郷した要人らに率いられて、佐賀の乱(江藤新平)、萩の乱(前原一誠)、西南戦争(西郷隆盛)など一連の「不平士族の乱」が引き起こされることになり、それらが完全鎮圧され武力による反乱不可能となると、今度は言論による「自由民権運動」(板垣退助ら)へと、政府批判の運動が継がれていった。
 大久保利通の反対論には、表に出ない要因や感情的な反発などもあっただろうが、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が多数存在するという主張には一理があった。まずは内政を充実させることが優先し、その上で、清との琉球帰属問題、ロシアとの樺太、千島列島の領有権問題、イギリスとの小笠原諸島領有権問題、不平等条約改正など、明治新政府が片付けていかねばならない国際問題は山積していたのである。
一方で、留守政府を仕切った西郷隆盛は、強兵で国力を高めることが第一と考えていたことは間違いない。その過程で、徴兵制が施行されたあとの旧藩士の処遇に頭を痛めていたことと考えられる。そのような士族の一種の失業対策として、朝鮮半島へ向けるという考えもあったのであろう。
 西郷は幕末・維新の節々で重要な役割を果たしたが、いったん事が落ち着くとすぐに身を引いたりしており、一貫して内政実務を遂行したという印象が薄い。軍政には長じていても、内政実務は苦手だったのではないだろうか。薩摩藩の藩政改革に携わるうちに、幕府は駄目だと見切るに至り倒幕に踏み切ったが、必ずしも、明瞭な近代国家像を思い描いていたわけではなかったと思われる。 
 そのため内政の判断においては「情」に流されることも多く、勝海舟との江戸無血開城談義は、むしろそれが良い方向に働いた例、一方で征韓論では、下級士族への情的配慮が先行したのではなかっただろうか。かくして下野して薩摩に戻ると、不平士族に取り巻かれて、やがて西南戦争へと引き込まれることとなった。
 征韓論問題とは、はたして時の政府を二分してしまうほどの緊喫な課題であったかどうか。その裏には、使節外遊派と留守政府派との対立が基調にあり、さらに旧藩閥間の勢力争いなどもうごめいていた。留守政府では、西郷のもとで、後藤象二郎・江藤新平・大木喬任が参議に新任され、薩摩に加えて佐賀、土佐出身者の重用が目立ちだした。
 それに対して長州派は、山縣有朋や井上馨が汚職問題に絡んで要職を辞任することになり、留守政府での立場を弱めていたため、外遊から帰国した伊藤博文たちは、大久保と西郷を対立させるなどの工作を行った。なかでも司法卿江藤新平は、疑獄に絡んだ山縣や井上を厳しく追及し、辞任に追い込んだ宿敵と見なされた。
 江藤新平は、いち早く三権分立(特に司法の自立)と議会制を基本とした君主国家を構想し、郡県制(廃藩置県)により中央集権を図り、封建的身分制度を排して四民平等を称えるなど、英仏を範とする法制度を中心にした法治国家を目指した。それゆえ、情実で利権を貪る薩長藩閥高官などには、厳しい方針で対したため、敵も多くかかえた。
 行政権を掌握して、プロイセン風の強権的近代化を推進する大久保利通とも、対立するようになっていたが、その時に征韓論問題が起こった。留守政府の一員として、征韓論には賛成派となったが、これは大久保、伊藤など反対派による、江藤追い落としの格好の材料となった。このように、「征韓論政変」の裏側では、さまざまな力学が働いていたと考えられる。
 江藤新平は下野すると、板垣・後藤らが主導した「民撰議院設立建白書」に署名したあと、佐賀に帰郷する。佐賀で不平士族らに担がれて、最初の大規模不平士族の反乱と言われる「佐賀の乱」を引き起こすも、大久保利通内務卿の手配のもと、政府軍部隊によって鎮圧され、捕縛された江藤は「梟首刑(晒し首)」とされた。
 江戸時代の刑罰で、当時の規定には無い「梟首刑」は大久保の指示で、反乱の見せしめとして、即断実行された。皮肉にも、江藤が目指した司法による公平な裁判でなく、旧制度のもとで極刑に処せられたのであった。
『明治六年政変』(毛利敏彦著/中公新書/1979)
(追補)
 征韓論政変は、外交問題での対立というより、岩倉使節団外遊中に、江藤新平、後藤象二郎、板垣退助ら、肥前・土佐藩勢力が増して、一方、山縣有朋が汚職で追い落とされたり、内政重視派の大蔵大輔井上馨が孤立するなどで、勢力が下降した長州藩勢力第2世代の伊藤博文らが、江藤・板垣ら肥前・土佐勢追い落としに仕掛けた内政クーデターだと思われる。
 江藤・板垣らが下野して反政府勢力となるのは織り込み済みだったが、西郷までもが政府を去るのには、さすがの大久保利通も驚いただろう。西郷は、ごたごたした新政府の内政は苦手で、維新後の自分の役割は済んだとも認識していただろうし、引き際をうかがっていたので、この機会に降りることにしたのだろうと思われる。

闘いの転機(戦いの前と後)

SR-71 ブラックバード

2021-12-22
Facebook Keita Hondaさん曰く
1964年(昭和39年)12月22日、57年前、SR-71 ブラックバードが初飛行。
ロッキードによって開発、製造された長距離・超音速・高高度戦略的偵察機。最高速度マッハ3.3を誇る。

三菱 G4M1 一式陸上攻撃機一一型 操縦席

2021-12-22
Facebook 中村まこさん曰く
---- 日本国 - 日本海軍 ----  
--- 三菱 G4M1 一式陸上攻撃機一一型 操縦席 --- 
- 全長 : 19.97 m
- 全高 : 4.9 m
- 全幅 : 24.88 m
- 空虚重量 : 6 741 kg
- 最大離陸重量 : 12 895 kg
- 最大速度 : 454 km/h  
- 武装 : 7.7mm旋回機銃 4挺 (前方 - 上方 - 側方) . 20mm旋回機銃 1挺 (尾部) . 60kg爆弾 12発 . 250kg爆弾 4発 . 500kg爆弾 1発 . 800kg爆弾 1発 . 800kg魚雷 1発 

"The Battle of Britain"

2021-12-20

30th August 1940: 2-3-0 Repeat, please. 303 Squadron. "STOP THAT POLISH CHATTER!!!" The most iconic part of the film. From the movie "The Battle of Britain" https://www.imdb.com/title/tt0064072/ #WWII #RememberTheHero #Flight #pilot #303Squadron #wartime #hero #aviation #war #warfilm #fighter #LestWeForget #nonprofit #303JagSquad 

ジェミニ6-A号と7号が初のランデブー飛行に成功。

2021-12-18
1965年(昭和40年)12月15日、56年前、ジェミニ6-A号と7号が初のランデブー飛行に成功。
30cmの距離まで接近したが、当時はまだドッキング装置は装備されておらず、物理的にドッキングすることはなかった。

あの頃の記録 撮影者.幸田恒弘  F-86F  ブルーインパルス  岩国基地航空祭

2021-12-16
Facebook トップ ドッグさん曰く
F86セイバーの時代、TOKYO1964の五輪マークは、方々が描かれました。

データベース(武器を用いない闘いの歴史の中で、人は如何に生きたか・・・。)

これでお終いですよね!

2021-08-29
1945年夏、東京湾の米国戦艦ミズーリー艦上の調印式です。

断末魔の死に体へのダメ押し!

2021-08-29
日本本土に、艦砲射撃完工!

ミズーリは第3艦隊を率いて日本本土に対する攻撃の準備を行った。
艦隊は7月8日に日本本土に接近し、10日に東京を攻撃した。
その後7月13日から15日にかけて北海道室蘭市の製鉄所を砲撃した。
(室蘭艦砲射撃)
これは日本本土に対する最初の大規模な砲撃であった。
7月15日午前9時35分ごろ砲撃は始まり、およそ800発の砲弾が撃ち込まれた。
この砲撃で日本製鋼所室蘭製鋼所、日本製鐵輪西製鉄所が破壊され、多数の死傷者(民間人:439人)が出た。室蘭八幡宮にはこの艦砲射撃による犠牲者の慰霊碑が建立されている。

7月17日、18日には茨城県日立市の工業地帯を砲撃した。
その後7月25日まで艦載機による空襲が継続され、ミズーリは空母護衛任務についた。
7月末には、もはや燃料が底をついた日本軍に制海権は殆ど無く、アメリカ艦隊を中心とした連合国軍の艦艇は日本近海で自由な活動を行った。

北海道および本州北部への攻撃は長崎原爆投下日である8月9日に再開された。
翌日の20:54、ミズーリの乗組員は非公式ニュースとして「天皇の身分が保障されるならば日本は降伏する準備ができていた」という知らせを聞き、衝撃を覚えていた。
8月15日の07:45、トルーマン大統領は日本のポツダム宣言受諾を発表した。

ケネディ暗殺犯の釈放勧告 米加州当局、知事が最終判断へ

2021-08-28
共同通信社 2021/08/28 11:52
© KYODONEWS 弁護士に付き添われるサーハン・サーハン受刑者=米カリフォルニア州、1968年6月(AP=共同)

【ロサンゼルス共同】1968年に米ロサンゼルスでロバート・ケネディ元司法長官が暗殺された事件で、カリフォルニア州当局は27日、終身刑で服役しているサーハン・サーハン受刑者(77)の仮釈放を勧告した。再審査を経て数カ月をめどに州知事が最終判断を示す。勧告を支持すれば同受刑者は53年ぶりに自由の身となる。米メディアが伝えた。

 サーハン受刑者は仮釈放を巡る16度目の審理で、銃撃に関する記憶がほとんどないと従来の主張を繰り返す一方、現場のホテルに銃を持ち込み発砲したことの「責任を取る」と語った。

R・ケネディ氏暗殺犯の仮釈放勧告

2021-08-28
共同通信社 2021/08/28 08:49
ロバート・F・ケネディ氏(Photo by Harry Benson/Express/Getty Images)
【ロサンゼルス共同】
米メディアによると、カリフォルニア州当局は27日、1968年にロバート・ケネディ元司法長官を暗殺したとして終身刑で服役しているサーハン・サーハン受刑者(77)の仮釈放を勧告した。
州知事が認めれば53年ぶりの出所が認められる。

予備選勝利直後撃たれる

 ロバート・ケネディ氏はどんな人物で、その暗殺の状況はどうだったのか。

 大統領の8歳下の当時42歳。1963年11月に大統領が暗殺された後に司法長官を辞し、1965年からニューヨーク州選出の民主党上院議員として活躍していた。1968年春、ジョンソン大統領(ケネディ政権の副大統領、暗殺を受けて昇格)が、同年11月の大統領選への不出馬を表明したため、急遽、自らが出馬することを決断した。6月4日夜、カリフォルニア州の予備選で勝利をおさめ、ロサンゼルス市内のホテルで大勢の支持者らを前に勝利演説を行った直後、拳銃で頭部、背中を撃たれて6日に死亡した。

 パレスチナ系移民で当時24歳の青年、サーハン・サーハンが現場で取り押さえられ、起訴された。動機はケネディ議員が親イスラエルであったことに反発したためといわれる。翌年、終身刑の判決を受け、70歳を超えたいまも服役中だ。

 兄の大統領暗殺事件をめぐっては、さまざまな憶測が飛び交い、あまたの著作や映画を通じて真相に迫る試みがなされてきたのはよく知られるところだ。ロバート氏の暗殺についても1970年代に再捜査が行われたこともあるが、サーハン受刑者の単独犯行を覆すあらたな証拠は見つからなかった。
 
 6月5日付けのポスト紙は、シュレード氏の証言などをもとに、暗殺についての疑問をあらためて投げかけている


【徳川慶喜という不可解な将軍】

2021-08-27
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【徳川慶喜という不可解な将軍】
 「鳥羽伏見の戦い」で、大坂城から不可解な退却をしてしまい、続く戊辰戦争の帰趨を方向付けてしまった総指揮官として、徳川慶喜という人物に興味を感じた。将軍職にあったのはたった一年余りであり、その間、「大政奉還」を奏上し、徳川幕府の消滅に立ち会った「最後の将軍」としてのみ、記憶に残されている。
 徳川慶喜は、天保8年(1837年)9月水戸藩第9代藩主「徳川斉昭」の七男として生まれ、幼名は松平七郎麻呂(以後も改名があるが「慶喜」で統一する)とされた。慶喜の聡明さは幼時から注目され、斉昭は、継嗣慶篤の控えとして、慶喜を他家の養子に出さず手許に置く考えもあったという。
 弘化4年(1847年)8月、十歳のとき、御三卿(御三家に次ぐ家格の徳川家)の一つ、一橋家の養子となり相続、「一橋慶喜」となる。嘉永6年(1853年)、黒船来航の混乱の最中に12代将軍家慶が病死、跡を継いだ第13代将軍徳川家定も病弱で、将軍継嗣問題が浮上する。
 「一橋慶喜」を推す実父で水戸藩主の斉昭や阿部正弘、薩摩藩主島津斉彬らの「一橋派」と、紀州藩主「徳川慶福」を推す彦根藩主「井伊直弼」や大奥で家定の生母本寿院などの「南紀派」が対立した。まもなく阿部正弘・島津斉彬の死で一橋派は勢いを失い、安政5年(1858年)に井伊直弼が大老となると、将軍継嗣は慶福(家茂)と決した。井伊直弼がすすめた「安政の大獄」では、慶喜も隠居謹慎処分とされた。
 安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、謹慎を解除され、島津久光らの後押しを受け、慶喜が将軍後見職に、松平春嶽は政事総裁職に任命され、両者は手を組んで幕府中枢に関与し、京都守護職の設置、参勤交代の緩和などの幕政改革を行う。
 慶喜本人は、将軍継嗣に乗り気ではないというような主旨の手紙を、実父斉昭に送ったりしているが、どこまでが本音でどこまでが建前なのか、いずれとも取れる行動を取っている。将軍後見職についたあたりから、否応なく慶喜の意向が表面に出て来ることになるが、同時に、時代の流れに沿って、その方向が微妙に揺らぎをみせる。
 文久3年(1863年)、攘夷の実行について朝廷と協議するため、将軍徳川家茂が上洛することとなったが、慶喜は将軍の名代として先行して上洛、朝廷との交渉にあたった。朝廷側の国政に対する態度は曖昧なまま、一方で幕府に攘夷の実行を命じるなど、交渉は不成功に終わった。
 そんな中、強力な攘夷主義者であった孝明天皇が、石清水八幡宮へ攘夷祈願に行幸することになった。随行した将軍が天皇から節刀拝受すれば、攘夷決行が必須となるので、急遽、風邪発熱との仮病で、家茂の拝謁を取りやめさるといった策略も用いている。
 江戸に戻った慶喜は、横浜港鎖港による攘夷実行という方針を策定し、公武合体派諸候幕閣による参預会議に参加すべく再び上洛する。ここで横浜鎖港に反対する参預諸候の島津久光・松平春嶽らと慶喜は対立すると、中川宮朝彦親王らとの酒席で故意に泥酔し、同席の伊達宗城、春嶽、久光や中川宮に対し暴言を吐くなどして、参預会議を解体させ、手段を選ばぬ交渉を行なった。
 参預会議解体後の元治元年(1864年)3月25日、慶喜は将軍後見職を辞任し、朝臣的な性格を持つ禁裏御守衛総督に就任した。以降、慶喜は京都にあって、幕府中央から半ば独立した勢力基盤を構築していく。同年7月に起こった「禁門の変」においては、慶喜は自ら御所守備軍を指揮し、歴代の徳川将軍の中で唯一、長州兵と切り結ぶなど、武勇をも示した。
 禁門の変を機に、慶喜はそれまでの尊王攘夷派に対する融和的態度を放棄、会津藩・桑名藩らとの提携を強化していった。慶応2年(1866年)、第二次長州征伐で、慶喜が長州征伐の勅命を得て出陣する。しかし薩長同盟を結んだ薩摩藩の出兵拒否もあり、幕府軍は連敗を喫する中、7月20日、将軍家茂が大坂城で薨去する。慶喜は急遽、休戦の協定の締結する。
 家茂の後継として、慶喜が次期将軍に推されたが、慶喜はこれを固辞し続け、12月5日にようやく第15代将軍に就任した。この就任固辞も、恩を売った形で将軍になることで政治を有利に進めていくという「政略」だったという説もある。この時期の慶喜は、明確に開国を指向するようになっており、将軍職就任の受諾は開国体制への本格的な移行を視野に入れたものであった。
 慶喜は、将軍在職中一度も畿内を離れず、会津藩・桑名藩の支持のもと、朝廷との密接な連携をとり、実質的に政権の畿内への移転が推進された。さらに慶喜は、幕府を支持するフランスからの援助を受け、近代的な製鉄所や造船所を設立し、フランス軍事顧問団を招いて軍制改革を行うなど、幕府軍の近代化を推進した。
 しかし、先に近代化を進め力をつけた薩長が連合し、武力での倒幕路線に突き進むことを必至と見た将軍慶喜は、慶応3年(1867年)10月14日、薩長の機先を制して政権返上を明治天皇に奏上した(大政奉還)。慶喜は、当時の朝廷には行政能力が無いと判断し、合議制の「列侯会議」を主導する形で、徳川政権存続を模索していたとされる。外憂に加えて内乱の危機が逼迫する状況下で、慶喜は窮余の一策を講じたのであった。
 大政奉還後、慶喜主導での諸侯会議で雄藩連合政府を目指したが、12月、薩摩藩ら討幕派は朝廷クーデターを起こし、制圧した朝廷からは、慶喜ら幕府方勢力を排除した新政府樹立宣言(王政復古の大号令)が発せられた。辞官納地を求められた慶喜は、衝突を避けるべく、恭順の意を示して一旦大坂城へ退去する。
 しかし、翌慶応4年(1868年)に薩摩藩の挑発に乗った慶喜は、京都に向け進軍の命令を出し、薩摩藩兵らとの武力衝突に至る(鳥羽・伏見の戦)。勃発した鳥羽・伏見の戦いにおいて旧幕府軍が形勢不利になったと見るや、まだ兵力を十分に保持しているにも関わらず、少数の近辺者とともに「謎の退却」を為し、幕府軍艦開陽丸で江戸に帰ってしまう。
 以降、戊辰戦争が進展し、「江戸城開場」とともに、慶喜はすべての官職を解かれ、水戸に蟄居、さらに駿府に移封され謹慎する。戊辰戦争の終結とともに謹慎を解除され、引き続き静岡(駿府)で余生を送った。隠居後は、政治的野心は全く持たず、潤沢な手当をもとに写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活を送った。維新後の旧家臣達の困窮にも無関心で、大正2年(1913年)11月急性肺炎で死去するまで悠々自適であったという。享年77。
 このような生涯を送った徳川慶喜を、どのような人物として見るか。将軍としては、英明ではあるが自ら行動の人ではなかった。祖先徳川家康のような策略家では毛頭なく、その場をしのぐ策を弄したという程度であり、ある意味、冷静沈着ではあるが、節目では大政奉還のような、周辺を驚かすような奇策を発することもある。
 周囲に人望があったのかなかったのか、それを窺わせるようエピソードも見当たらない。むしろ冷淡な人物で、周囲も遠巻きで接していたのではないかと思われる。晩年の徹底した趣味人としての生き方こそ、徳川慶喜の生来の姿を示しているのではないか。いずれにせよ、徳川将軍には、全く不向きな人物だったのではないだろうか。
$『徳川慶喜 最後の将軍』(司馬遼太郎/1997年/文春文庫)

闘いすんで 陽が暮れて・・・

2022-01-24
YS―11の鬼太郎スペシャル
C―1の鬼太郎スペシャル
T―400の鬼太郎スペシャル

『沢村 忠』

2022-01-07
Facebook 高村雪子・Syoko さん曰く

月曜日 やっつけたわね

2021-12-10
Facebook Nostalgia&Rock'n’ Roll ノスタルジア・ロックンロールさん曰く

日本です。新婚旅行です。ディマジオがいっしょでした。

2021-11-11
Facebook Nostalgia&Rock'n’ Roll ノスタルジア・ロックンロールさん曰く
朝鮮戦線を慰問、日本での新婚旅行を中座して・・・。

マリリン・モンロー ジョー・ディマジオ来日(新婚旅行)の日程 

 

1954年(昭和29) 2月1日 午後5時35分 羽田着 

夫のジョー・ディマジオ サンディエゴ・パドレス監督の

フランク・オドウル氏らとともにオープンカーをつらねて帝国ホテルへ。

              

2月2日 記者会見

   ディマジオの為の記者会見だったが、質問はすべてマリリン

へのものだった。

 

2月8日 午後7時30分 板付着 

那珂川河畔の国際ホテル(現在の城山ホテル跡)へ

                     ホテルを500人あまりのファンが取り巻く。

マリリンは2階の窓辺に現れ、カーネーション の花びらを

ファンにばらまいて、投げキッスをふりまいた。

滞在中は、1人で、西戸崎へ米軍キャンプの慰問、

ドライブなどを楽しむ。

ディマジオ、オドウル監督らは、香椎球場で日本プロ野球選手の

技術指導を行う。

夕食はお忍びで、ホテルの通りをはさんだ向かいのレストラン

ロイヤル(旧花の木)で食事を楽しむが、店をファンに埋め尽くされる一幕も。

            

2月11日 午前9時10分 岩国市の米軍基地へ

                    ディマジオ・マリリン一行は、自動車で宮島の一茶苑に向かったが、

ファンが殺到しMPが出動する騒ぎだった。

            

2月14日 岩国から大阪へ

            

2月16日から19日まで

     マリリンは、朝鮮の国連軍慰問(10ヵ所以上の駐屯地を訪問)し、カゼを引く

     ディマジオは、大阪・奈良などを訪問し、野球指導を行う。

            

2月25日 午後2時7分 羽田からサンフランシスコへ帰国

ロイヤルのこの器は、今(2021年)でも、この形で、テーブルにサービスされています。

昭和天皇の御巡幸 戦後全国を御巡幸された陛下。

2021-11-25
Facebook 上野不二子 さん曰く、親しみやすい笑顔が印象的ですね。

真宗大谷派の取り組みについて

「全戦没者追弔法会」の和讃

2021-04-04
Facebookしんらん響流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

【4/2全戦没者追弔法会】

2021-04-04
Facebookしんらん交流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

【春の法要ライブ配信】全戦没者追弔法会(4月2日10時10分~)

2021-04-02

全戦没者追弔法会 戦争でいのちを奪われた方々を憶念し、仏が願われた「兵弋無用(軍隊も武器もいらない)」の教えから、私たちの今を問い直す法要です。
 ◆法要 10時20分~ 
【法要次第】
 出仕
 着座楽 
総礼 
伽陀 稽首天人 
登高座 
表白 
伽陀 万行之中
 御経 仏説阿弥陀経 
伽陀 直入弥陀 
下高座 
総礼 
正信偈 草四句目下(同朋唱和) 
念仏讃 淘五 三重念仏 
和讃 無明長夜の燈炬なり 次第三首 
回向 願以此功徳 
総礼 
恩徳讃 
退出楽 退出
全戦没者追弔法会   表 白
謹んで阿弥陀如来、宗祖親鸞聖人 、ならびに
三世十方の諸仏如来に申し上 げます。
 本日ここに、親しく宗祖親鸞聖人のまえに坐 すことを得て、全戦没者追弔法 会を厳修いたします。このときにあたり、一つには過去の 罪障を懴悔し、二つには現在の遇法を慶喜び、三つには将来に同朋社会の顕現を期したいと存じます。 
第一に、過去の罪障を懴悔するとは、われらの宗門が、先の悲惨な侵略戦争 に自ら荷担し、それを「聖戦」と呼び、「まったくおおせにてなきことをも、 おおせとのみもうす」罪を犯したことであります。 実に、五逆謗法の咎逃れがたく、今更あらため 全戦没者の悲しみを 憶念し、ここに真宗大谷派が無批判に戦争に荷担した罪を表明し、過去の罪障を懴悔いた します。
 第二に、現在の遇法を慶喜ぶとは、そのわれらの罪障にも拘らず、如来の本 願はその罪を私たちに知らしめ、罪に向き合い、平和への道を歩ましめるので あります。
 第三に、同朋社会の顕現を期すとは、本願念仏の教法に生きる者は「四海の 内みな兄弟とするなり」という浄土の 荘厳功徳をこの身に受け、死者と生者が 一つに出会い、国家や民族の境を超えた「同朋社会」の顕現に 向 む かって 生 い きる 者 もの となるのであります。 われら 真宗門徒、ここに 非戦平和の誓いを 表 白し、ひとえに、この身とこの世の無明の闇を 照らす仏の教えに随い、ともに生きあえる世界 への道を歩まんことを誓うものであります。 

   二〇二一年四月二日  釋修如

仏が願われた「兵弋無用(軍隊も武器もいらない)」の教え

2021-08-15
Facebook 阪下 大介さん曰く

2020 年度全戦没者追弔法会 記念講演

2021-04-02
2020 年度全戦没者追弔法会

・趣旨 日常に潜む戦争 ―不安と恐怖の中で―

 私たちの宗門は、かつて侵略戦争を「聖戦」と呼び、仏法の名のもとに多くの人々を戦 場へと送り出しました。戦争で命奪われたすべての人々、遺族のみならず、アジア諸国、 とりわけ中国、朝鮮半島の人々に、計り知れない苦痛と悲しみを強いてきました。戦争の 歴史が明らかにされる中で、私たちは被害者であると同時に、加害者としての歴史も問わ れてきたのです。だからこそ、なぜ戦争が起きるのか、社会はなぜ戦争に向かったのかと いうことを、全戦没者の悲しみの歴史に学び、戦争をくり返してきた人間の過ちを見つめ、 未来に伝えていくことを大切にしています。 この法会において、私たちは、戦争で命奪われたすべての人々の願いに耳を澄まし、日 常に潜む戦争の影を見つめ、戦争の無残さ、それを生み出す人間の深い闇を、心に刻みた いと思います。そのことにより、「国 こく 豊 ぶ ⺠安 みんあん 兵戈 ひょうが 無用 む よ う (国豊 ゆた かに⺠安 やす し。兵戈 ひょうが 用 もち いるこ となし。)」(『仏説無量寿経』)という、仏の大悲によって真実の豊かさと安らぎが与えら れるところに、兵士も武器も必要がないという教えが、具体的な現実の課題をとおして知 らされます。 いま世界は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大に震撼しています。国内においても 感染終息の目途が立たず、命を守るために感染を防ぐ努力は大切です。しかしながら、看 過してはならないのは、感染することにより世間から冷たい眼を向けられるのではないか と恐れる私たちの心や世間の風潮です。その恐れやメディアの報道などによって、私たち の心は追いつめられ、増大した不安から大衆の動向に身をゆだねることで、かりそめの安 心を得ているのではないでしょうか。 国家による戦争と、ウイルスという公衆衛生の問題は、本来、質が異なります。しかし、 不安の高まりからくる過剰な同調圧力は、戦時下と似通ったものを感じずにはいられませ ん。私たちは、不安から逃れるために、その場の空気や力関係に従うことで自分の身を守 ろうとします。そのような意識が、家族のため、みんなのため、やがては国のためにと、 「自発的に」命令に従い、「正義」の名のもとに凄惨な戦争へと向かっていったのです。 私たちは、厳しい状況の中で、⼾惑い揺れ動く心や、追いつめられて呻 うめ きをあげる一人 ひとりの小さな悲しみこそ大切にしていきたいと思います。それにより、「一切 いっさい 恐懼 く く 爲作 い さ 大安 だいあん (一切の恐懼 く く に、ために大安 だいあん を作 な さん。)」(『仏説無量寿経』)という仏の願いに応え てまいります。 このたびの法会が、非戦・平和への歩みを共につなぐ場となることを心より願います。
全戦没者追弔法会   表 白
全戦没者追弔法会  

表  白 
謹んで阿弥陀如来、宗祖親鸞聖人 、ならびに 三世十方の諸仏如来に申し上 げます。
 本日ここに、親しく宗祖親鸞聖人のまえに坐 すことを得て、全戦没者追弔法 会を厳修いたします。このときにあたり、一つには過去の 罪障を懴悔し、二つには現在の遇法を慶喜び、三つには将来に同朋社会の顕現を期したいと存じ ます。 
第一に、過去の罪障を懴悔するとは、われらの宗門が、先の悲惨な侵略戦争 に自ら荷担し、それを「聖戦」と呼び、「まったくおおせにてなきことをも、 おおせとのみもうす」罪を犯したことであります。 実に、五逆謗法の咎逃れがたく、今更あらため 全戦没者の悲しみを 憶念し、ここに真宗大谷派が無批判に戦争に荷担した罪を表明し、過去の罪障を懴悔いた します。
 第二に、現在の遇法を慶喜ぶとは、そのわれらの罪障にも拘らず、如来の本 願はその罪を私たちに知らしめ、罪に向き合い、平和への道を歩ましめるので あります。
 第三に、同朋社会の顕現を期すとは、本願念仏の教法に生きる者は「四海の 内みな兄弟とするなり」という浄土の 荘厳功徳をこの身に受け、死者と生者が 一つに出会い、国家や民族の境を超えた「同朋社会」の顕現に 向 む かって 生 い きる 者 もの となるのであります。 われら 真宗門徒、ここに 非戦平和の誓いを 表 白し、ひとえに、この身とこの世の無明の闇を 照らす仏の教えに随い、ともに生きあえる世界 への道を歩まんことを誓うものであります。 

   二〇二一年四月二日  釋修如
講師:真城 義麿氏(真宗大谷学園専務理事・元大谷高校校⻑)

2021年全戦没者追弔法会記念講演をご視聴いただけます


2021年4月2日に勤まりました「全戦没者追弔法会」の記念講演を公開しています。

解放運動推進本部ホームページ内の「学ぶ(動画)」からご視聴いただけます。

 

●2021年全戦没者追弔法会 記念講演

●講題 「日常に潜む戦争」

●講師 真城 義麿氏(四国教区東予組善照寺住職)



【 Facebook闘いのページ】のページ、管理者は住職です。

政局について

· 自分の生まれた日の新聞、 池袋のナンジャタウンで購入 でも20年以上前、

2022-01-20
Facebook 布施 隆司さん曰く、今でもあるのかなー、。

訃報です。

2022-01-14
海部俊樹元総理がご逝去されました。
自民党が大変厳しい状況にあった89年、自民党総裁に就任し、総選挙で勝利を収め自民党政権を維持しました。

また、自衛隊の国際貢献として、初めて自衛隊を海外へ送り出すという大きな決断をされました。

改めて心から海部元総理の功績を讃え、ご冥福をお祈り致します。

「私が幹事長当時、海部元総理が自民党に復帰され、総裁室に写真が掲げられました。」

NHKスペシャル「証言ドキュメント 永田町・権力の興亡 コロナ禍の首相交代劇」

2022-01-16
1/16(日) 午後9:00-午後9:59
コロナ禍 首相交代劇の内幕 永田町キーパーソンの証言

総括いたします。

2021-11-08
Facebook 伊吹文明さん曰く
総選挙が終り、自公政権継続の民意が定まりました。
後継者である勝目やすし君が京都一区で無事当選し、肩の荷がおりました。
彼に伝えたことは、「当選者一人の小選挙区選出議員は、自分に投票頂いた有権者だけでなく、他に投票した有権者の主権も代表していることを忘れないように」ということです。
従って異なる意見にも耳を傾ける姿勢、しかし最後は自分の価値観、自民党公認という筋を通す姿勢が大切になります。
勝目君が謙虚に研鑽を積み、多くの人に支持され、人間として、政治家として大成してくれることを願っています。
 私も自民党所属代議士の立場を離れ、今後は一国民・ひとりの有権者として意見を述べたいと思います。
とはいえ、私の政治理念や価値観が変るものでもなく、政策や政局、社会事象への評価は従来と大きく違わないので、異なる立場、価値観でのご意見もご遠慮なくお寄せ下さい。
 さて総選挙の総括です。
自民党は選挙前の予測をくつがえし、議席数は減ったものの単独過半数を大きく上回り、自公合計の議席数は絶対過半数(衆議院の各委員会の委員長を自公で独占しても、なお各委員会の過半数を制する)を超えました。
一方立憲民主党は、選挙前の議席数大幅増の予測に反し、選挙前議席を10以上減らしました。
自民・立憲とも選挙前議席を減らした分、維新は大阪を中心に小選挙区を制し、他都府県でも比例票を大幅に伸ばし、選挙前から30議席増の第三党に躍り出ました。
 この背景を自民、立憲両党は検証し、党勢を立てなおさないと、来年の参議院選挙は両党にとって厳しいものとなるでしょう。
議席大幅減の予測をくつがえした自民党に勝利感は希薄です。
勝った小選挙区の多くで前回の得票率を下回り、甘利幹事長、石原元幹事長、現元大臣等が小選挙区で苦杯を嘗める等手放しで喜べる状況ではありません。
これまでのコロナ対策を私は評価していますが、その良さの説明がうまくなく、国民の不満やいらだちを抑えられなかった印象です。
森友案件や政治とカネについても、国民への誠実な説明姿勢が問われたようです。
聞く力」に加え、「説明する力」、「実行する力」が期待されます。
 立憲民主党は、共産党に選挙協力に引き込まれたのが失敗だったと思います。安全保障や経済成長戦略、天皇制等、共産党綱領や主張は非現実的と国民は見ています。
選挙の票の数合せを狙ったのが逆に、自公政権には不満でも、理念の違う共産党と選挙協力する立憲民主党にも投票したくないとの民意を生み、政権批判の受皿として維新の伸張を許したと思います。
日本政治の為、立憲民主党が健全なリベラル政党としての成長することを願っています。

茂木新幹事長のあだ名は「モテキング」、政官とも恐れる王様起用3つの理由

2021-11-06
© ダイヤモンド・オンライン 提供 自民党幹事長への就任の記者会見をする茂木敏充氏(11月4日) Photo:JIJI
小倉健一 2021/11/06 06:00

自民党幹事長に茂木敏充前外相が就いた。
トランプ前大統領に「タフネゴシエーター」と言わせしめた高い実務能力を持つ一方で、「とにかく怒りっぽい」と毀誉褒貶が激しい。
永田町・霞が関では期待と不安が交錯するが、岸田文雄首相の茂木氏起用には、三つの深謀遠慮が透けて見える。(イトモス研究所所長 小倉健一)
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